五章 蒼空を翔ける

エルグランからの要請

「父とはゆっくり話せましたか?」
 王の寝室を出てからすぐだった。ブレイヴは笑みで応えたものの、セシリアはおなじ笑みで返してくれずに、視線もすぐ逸らされてしまった。
 相談に来たわりには心はもう決まっているような、そんな顔をしている。ブレイヴはそう思った。
 誰かの邪魔が入ると面倒だ。軍師セルジュや竜騎士団の者たち、だからブレイヴは目顔で外を促す。昨日は朝から小雨が降っていたのに今日は良い天気だった。
 長い回廊を進んでいくあいだも、セシリアは無言でいる。
 グランルーザのカミロ王が床に伏せるようになったのは、冬がはじまる前だったという。今年の冬は特に寒かったので、感冒が長引いているようだ。
 王冠を戴く前から竜騎士として名を馳せていたカミロという人を、ブレイヴはよく知っている。正確にはきいたと言うべきだろうか。濃い太眉と大きな目、分厚い唇は精悍な顔立ちであるものの、あれは男に好かれるたちで若い娘たちの好みとは真逆だとか、情に厚い熱血漢、あとはとにかく声が大きいだとか。カミロ王の士官生時代の武勇伝は他にもたくさんきかされて、しかしどこか誇張されていたように感じたのも、気のせいではなかったらしい。
 まったく、父上もレオンハルトもいい加減だな。
 ブレイヴは口のなかでこっそり零す。カミロ王と親友だったブレイヴの父親からはたっぷりと悪口を、その息子であるレオンハルトはいかに自分の親が剛勇な竜騎士であったかを語ってくれた。グランルーザの賢王。往年に差しかかる頃、すっかり落ち着いたカミロ王の名はグラン王国に留まらず、イレスダートや西の大国ラ・ガーディアにも届いている。愛竜に跨がる勇ましい姿はグランの人々の心を励まし、勇気づける。老若男女問わず民に愛されているのは、武だけではなく智にも優れた人だったからだ。
 モンタネール山脈に隔たれたグランルーザとイレスダート。このふたつの王国が友好な関係にあるのはカミロ王の尽力のゆえだろう。イレスダートは北にルドラスという敵を抱えているし、グランルーザにしても不可侵条約を残しているとはいえエルグランを警戒する。喫緊《きっきん》の問題が生じたときには協力を惜しまない。つまり同盟関係というわけだ。
 まさにいまがそのときだろう。
 イレスダートを追われたブレイヴは、カミロ王の導きを期待してこのグラン王国まで来た。国王アナクレオンはともかく、白の王宮特に元老院からは完全に敵と見做されてしまった聖騎士である。アストレアはマイアの支配下に置かれて、これを取り戻そうにもブレイヴにはその力がないのが現実だ。知恵を借りるならばカミロ王を他に誰がいるだろうか。
 もちろん、見返りとして何を求められてもブレイヴは応えるつもりでいる。
 不肖の息子と笑っていたものの、カミロ王にとってレオンハルトは大事な跡継ぎだ。王子救出は他の何を置いても優先事項、ところがカミロ王は言う。あれはそのうち自分で帰って来るだろう。
 ブレイヴは思わず笑ってしまっていた。信頼。これほど強い言葉が他にあるだろうか。グランルーザとエルグランの関係についても、カミロ王はそれほど悲観しておらずに、むしろ交戦の姿勢を見せている。賢王、それはカミロ王が玉座にいるあいだの姿、彼のあるべき姿は気高き竜騎士なのだ。
 竜舎へと着いた。世話役の少年たちが忙しそうにしている。日中の気温があがってきたので飛竜たちに水浴びをさせるらしい。竜の巨?を洗うとなれば水場を何往復しても水が足りないため、近くの河へと連れて行く。気が高ぶったまま落ち着かなかった竜、食欲不振の竜も過眠の竜も、いまは不調などすっかり治った様子で、それぞれちゃんと世話役の少年たちに従っている。
「けっきょく、一番効果があったのは花の香りみたいだな」
「でも、あの花はとても貴重です。アステアとレオナが頑張ってくれましたし、大事に使わせていただきます」
 グランルーザはエルグランほど敬虔なヴァルハルワ教徒が多くない。宿痾《しゅくあ》に苦しめられている人を救えるなら、セシリアはあの薬を迷わず使う。
「でも、原因はわからないままだ。グランルーザだけなのだろうか? エルグランにも飛竜はいるのに」
「ええ……。そう、ですね。兄が自由に動けていたならば、エルグランの情勢も掴めたのですが」
 レオンハルトが戻ってこないまま、もうまもなくひと月が過ぎようとしている。妹であるセシリアも父親同様に、兄は勝手に戻ってくるとでも思っているのだろうか。ブレイヴはセシリアの横顔を見る。あまり心の機微を読み取らせない人だ。けれども、飛竜たちが元気になったいまでもセシリアは気鬱そうな目でいる。
「ジェラールからの手紙には、何て書いてあったんだ?」
 うつむいていたセシリアの顔があがった。エルグランからの、とは言わなかった。ジェラールはエルグランの公子、それにセシリアとは婚約者の関係だ。
「レオンハルトを返してくれる代償として、何を求められた?」
「聖騎士殿は存外、意地悪な方ですね。すでに父からきいているでしょう?」
 怒っているようには見えなくとも、困惑しているようだった。要請といえばきこえが良いかもしれない。あれはただの脅しだ。ブレイヴはカミロ王の声に落胆と憤りが綯い交ぜになっているように感じた。
「きみ一人が行ったところで、向こうがレオンハルトを返してくれるとは思わない」
「一人でなどと、あの手紙には書かれていません」
 ブレイヴはまじろぐ。冗談を言っているのかと最初はそう思った。けれどセシリアの顔は大真面目で、声もしっかりしている。
「仲間を信頼していたら、そんな言葉は出てこない。危険すぎる」
「聖騎士殿は二度も私のベロニカに乗っていて、まだそんなことを言うのですか?」
「そうじゃない。きみの父上だって許さなかったはずだ」
「賢王などと呼ばれている父ですが、所詮は人の言葉です。ブレイヴ、あなたも父の声を受け取ったでしょう?」
 わざわざ外で喧嘩をしに来たわけじゃない。ブレイヴは嘆息する。さすがはあのレオンハルトの妹だ。もっともレオンハルトならば、ブレイヴの肩を痛いくらいにたたきながら励ましてくれた。
「それに……、私は彼と話をしたいのです」
 レオンハルトほど直情的ではなくとも、その妹もなかなか頑固なたちのようだ。ブレイヴは早々と白旗をあげる。さて、軍師にはなんて言おうか。たぶん、怒るかもしれない。










 グランルーザの王城、その西地区には若き王子が愛しき妻のために作らせたガゼボがある。
 周囲の庭園に広がるのはデルフィニウムの花たちだ。白に水色、青に紫と主に青い花がレオナを迎えてくれる。ガゼボで待っていたアイリオーネを見て、レオナは思わず微笑んだ。神秘の紫は髪の色、薄い青は瞳の色。そうだ、レオンハルトという人は情熱的な人だったと、レオナは思い出したのだった。
 グランルーザの王子レオンハルトと会ったのはたった一度きり、それでも強く印象に残っている。
 なにしろ、男子禁制である修道院に友人を誘って乗り込んでくるくらいだ。あとで幼なじみからきいた話によると、王家の末姫に興味があったとか。もっとも、レオンハルトはたまたま居合わせたアイリオーネに目を奪われて、レオナの存在などおまけのようだったけれど。むかしを思い出しながらくすくす笑うレオナに、アイリオーネもにこにこしている。
「まあ、今日はずいぶん機嫌が良いみたい」
「ううん、そうじゃないの。でも、せっかく良いお天気でしょう?」
「そうねえ。それなのに、お客さまがふたりだけなんて、ちょっとさびしいわね」
 円卓に並べられたカップは三つ、アイリオーネとレオナと、それからもう一人はフレイアだ。
「クリスは聖堂に行った。ロッテも一緒」
 卵と牛酪《バター》をたっぷり使ったふわふわのケーキを頬張りながら、フレイアは言う。
「まあ、仲良しなのねえ。クリスとロッテは」
 空になったフレイアのカップに、アイリオーネが香茶を注いでくれる。
「でも、他の子はどうしたのかしら?」
「アステアは今日も竜舎に行ってるみたい。ルテキアはレナードとノエルといっしょよ」
「あらまあ、みんな忙しそうねえ」
 たしかにそうかもしれない。竜を見られる機会なんて滅多にないので、魔道士の少年はこの時間を大事にしたいのだろう。アストレアの騎士三人だって、竜騎士団の訓練に参加させてもらっている。
「でも……、みんな元気になってよかった」
 ちいさい声だったので、二人には届かなかったようだ。グランルーザの飛竜たちの不調は嘘みたいになくなった。竜の谷で苦労して手に入れた花のおかげだ。アイリオーネのお茶会に誘われなかったら、レオナもアステアに同行していた。でも、それもそろそろ控えようと思っていたところだ。
 もしかしたら、わたしがここに来てしまったせいだろうか?
 時期はすこしずれているものの、なんだかそんな風に考えてしまうのは、きっと竜の谷で同族と会ってしまったからだ。あの竜人《ドラグナー》の青年はレオナを憎んでいた。飛竜たちはレオナを恐れている。
「あら? もういいの?」
 物思いにふけていたレオナははっとした。ケーキを食べ終わったフレイアは席を立っていた。
「うん、すごく美味しかった。アイリは料理上手」
「まあ、うれしいわ。でも、それならお代わりも」
 侍女を呼ぼうとしたアイリオーネにフレイアは首を振る。
「いい。あとは、みんなの分。それに私は用事がある」
「用事って?」
「あの髪の長い人、探しに行く」
 レオナは目をまたたかせた。いま、所在が掴めない人で髪の長い人といえば一人しかいなかった。
「もしかして、また意地悪されたのね?」
 身を乗り出したレオナにフレイアはきょとんとする。フレイアが探す相手はクライドだ。異国の剣士とフォルネの王女。ラ・ガーディアを目指してカナーン地方の山道へと入った。道中に立ち寄った山小屋で偶然出会ったとはいえ、二人の出会いは最悪だったように思う。レオナが駆けつけたとき、あきらかにフレイアは怯えていたからだ。
「ちがう。レオナ、きっと誤解してる。私、お礼を言いたいだけ」
「お礼って?」
「助けてくれたから」
 それだけ言って、フレイアは行ってしまった。残されたレオナとアイリオーネは顔を見合わせる。
「あれは雛が親鳥のあとを付いて行っているかんじね」
「それって、良いことなの?」
 アイリオーネはにっこりするだけで応えてくれない。そういえばとレオナは思い返す。ウルーグとイスカとのたたかいのとき、フレイアが配属された部隊とクライドの部隊は近かった。ぼろぼろになって帰ってきたフレイアは白皙の聖職者――クリスが綺麗に治したものの、しかしクライドが付いていなかったら命が危なかったかもしれない。
「恋のはじまりね」
 カップを両手で抱きしめながらアイリオーネはそう言う。ほんとうかしらとレオナも香茶を味わう。グランの茶葉は独特の渋みと高貴な香りが楽しめる。清涼感のある若々しい味はちょっとくせになりそうだ。
「あらまあ、レオナは自分のことで精一杯みたいねえ」
「わ、わたしは……っ!」
 いきなり水を向けられて、危うく香茶を零すところだった。
「グランルーザに来てだいぶ経つのに、ちっとも教えてくれないのね。幼なじみとの関係は、思うように進んでいないのかしらねえ?」
 レオナが五年の時を過ごした修道院、隣室だったアイリオーネとはいろんな話をした。年頃の娘同士だから恋のはなしが多かったと覚えている。ブレイヴはちっとも手紙を返してくれないの。子どもっぽい愚痴ばかり言っていたように思うけれど、あの時分は本当に子どもだったから大目に見てもらいたい。アイリオーネはいま二十三歳で、レオナよりも三つ上のお姉さんだ。彼女はいつも恋のはなしをやさしくきいてくれた。
「もう、アイリ。意地悪しないで」
「うふふっ、ごめんなさいねえ。でも、むかしよりももっと仲良しさんみたいね」
 仲良しさん。レオナも繰り返す。
「アイリったら、やっぱり意地悪だわ……」
 グランルーザへ嫁いだアイリオーネはレオナからしたらずっと大人だ。騎士と姫君、幼なじみ。レオナはそれ以上を考えないようにしているというのに、これが既婚者の余裕というものだろうか。ちょっと羨ましい。そう思いかけて、しかしレオナはふたたびカップに視線を戻した。
「ごめんなさい、アイリ」
「いやだわ。急にどうしたの?」
 友人の目がちゃんと見られなくなったのは、彼女の愛するひとがここにいないからだ。黙り込んだレオナにアイリオーネは微笑む。
「大丈夫よ。私はあのひとが向こうで暴れていないか、それが心配なの」
「でも……、」
「それにね、セシリアも。私の義理妹《いもうと》も強い子なのよ。かならず、二人とも帰ってきます」
 強いひとだ。もし、幼なじみが敵の俘虜《ふりょ》となったとき、信じて待っていられるだろうか。アイリオーネのように、笑っていられるだろうかと、レオナはそう思う。
「みんな、信じているのよ」
 傍で控えている侍女たちも、デルフィニウムの手入れをする庭師たちも、普段どおりの仕事をしている。グランルーザとエルグランの関係も、王子が隣国に囚われている事実もちゃんと受け止めている。不可侵条約が反故《ほご》になったいま、いつ開戦が来るかもしれないし、王子レオンハルトが無事に帰って来る保証もない。それでも、彼らは戦うつもりなのだ。
 グランルーザは強い国だ。レオナは改めて、そう思った。

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