五章 蒼空を翔ける

救いの手

 灯りらしい光はほとんどないに等しい。そこは陰鬱で、闇しかない世界だった。
 地下特有の黴臭さに加えて糞尿のにおいが充満している。鼻が麻痺してそのうち気にならなくなるが、はじめのうちは臭気に耐えられず何度か吐いた。汚物を片付ける者もいないので異臭が増しただけだった。
 眠れない理由はそれだけではなかった。彼はもともと眠りが浅く、冷たい石床に転がっているだけで、どんどん体温は奪われてしまう。彼がそれまで身に纏っていた服は剥ぎ取られていたらしい。ここに放り込まれた際に自分が着ている粗末な古着を見て、彼は思わず失笑した。
 地上にあるのは城下街、そこでは貧困窟など存在していなかったが、最下層の住民にしてもここまで酷い格好はしていないだろう。それとも自分が知らなかっただけで、民はいつも継《つ》ぎ接《は》ぎだらけの服をいるのかと、彼はふとそんなことを考えた。
 とにかく彼は時間を持て余していた。
 囚人たちの食事は一日に二度、どこかの売れ残りのパンなのかただでさえ不味い黒パンにはいつも黴《かび》が生えている。ただ塩で味付けただけのスープに、彼は固くなった黒パンをスープに浸しながら胃の腑に収める。最初の三日は腹を下したが、五日目には慣れてしまった。排泄の時間は決まっているので、それ以外で鉄格子をたたこうものならば看守に唾を吐かれる。そのうちに身体もここの環境に順応したらしく、人間とはなんと強《したた》かな生きものか。彼はそのうち監獄での食事さえもたのしむようになっていた。
 無聊《ぶりょう》を持て余すことが、これほどに苦痛だということも彼はそこではじめて知った。
 私的な時間を設けたのはいつ以来だったか、それすら彼は覚えていないのだ。日々に忙殺されていた彼は食事、あるいは就寝すらなおざりにしてきた。なにかと口喧しくする妹はもう傍にいなかったし、そもそもあれと最後に会ったのも物別れだった。石牢のなかで震えていると、ふと遠くへやった妻女を思い出す。粗末な古着だけではここの寒さは凌ぎきれなかったが、しかしいま妻女がいるのはここよりずっと寒さが厳しい場所だ。
 陽光も届かない地下牢の上に、食事を持ってくる時間も看守のきまぐれで決まっておらず、酷いときには一食忘れられる日もあった。懐中時計など手元に残っていなかったので時を知る術もなく、体内時計で数えていた日にちも面倒になって途中で止めてしまった。そろそろ生まれた頃だろうか。身重の妻にひどいことをした自覚はある。されども大人しい気性の妻女は彼の声に従うだけで、心ない言葉で彼を責めたりしなかった。
 なるほど、これも我が身に与えられた罰なのだろう。彼は、そう思う。
 ふたたび妻女と会えるものならば、まずは謝罪をすべきだろう。それから怒っているはずの妹も、ほとぼりが冷めた頃ならば許してくれるかもしれない。
 叶うものならば、と彼は口のなかで言う。監獄では身分も権力も財力も、あらゆる力が無に等しい。醜男《しこお》の看守は彼とけっして目を合わそうとせず、彼が何者であるのかも知らないような顔をしている。いや、知っているからこそ関わりたくないのだろう。看守は短気で癇癪持ちらしく、機嫌が悪いときには囚人をいたぶる。この国では拷問が禁じられているのだが、しかしこんな地下まで法の正義は届かない。彼が暴力から逃れているのは、看守が彼の正体を知っているからだ。
 耳を澄ませば獣の呻き声がきこえてくる。
 罪人たちの数はそう多くないようで、ある程度の間隔を空けて収監されている。彼がぶち込まれたのは一番奥の石牢だ。人間以外にいるとすれば鼠くらいだが小動物の声にしては大きすぎる。だからやはりあれは人間の声なのだろう。
 祈りか、呪詛か。その罪人は一日に二度、呪文を繰り返す。ヴァルハルワ教徒だと気づいたのは最近で、その罪人は司教か司祭の位にあった人間なのかもしれない。
 彼の唇に笑みが広がっていた。
 神聖なる役職に就くヴァルハルワ教徒であっても例外は許されない。そう、声をおとしたのは他でもない彼だった。それなりの地位に就いている者ならばどうにか救い出そうと裏から手を回す。しかしそんな不正を禁じたのもまた彼であり、となればここから彼を解放する手段とて皆無というわけだ。
 自分で蒔いた種だ。そう、彼は独りごちる。
 掏摸《すり》や詐欺、あるいは暴力くらいでは石牢にぶち込まれることもない。そもそも上でそんな罪を犯すような人間がいないことを彼は知っていた。となれば収容された囚人たちの罪は重く、次に地上に出られるとすればそれは断罪されるその日だけだ。
 正当な理由なき処刑は認められないと、あらゆる違法が禁じられたこの国では、長い時間を掛けて罪人たちを見分する。生まれ、身分、職歴などを調べあげて、そこに誣告《ぶこく》や不当が孕まれていないかを確認したそののちに処される。冤罪など稀だ。そもそも半年も待たされているうちに、先に心が壊れてしまう。あるいは看守の暴力が元で力尽きるのが先か。
 醜男の看守はとにかくきまぐれだ。見苦しくも泣き喚こうものならば面白がって折檻《せっかん》がひどくなるし、反対に声を潜めて耐えようものならば看守の癇癪がはじまる。次は自分の番だ。囚人たちは今日も恐怖に震えている。そういう声が、彼のところにまで届いている。
 彼の精神が正常なままだったのは、自身のあるべき場所を理解していたからだ。
 寒さと空腹に耐え、悪臭が漂う不衛生な環境に身体は順応した。不眠に悩まされて、悪戯に長い時間を過ごすしかない生活には辟易するものの、それもまた贖罪のひとつであると彼は受け取った。そう、「罪。」と。彼の唇が動く。
 身分も権力も矜持《きょうじ》も、有り触れた言葉のすべてを彼は手放していた。
 たったひとつ、彼に許された武器がそこに転がっている。短刀だ。なるほど。殺すつもりはないようで、されど生きていてもらっては困ると、そういう奴らばかりなのだろう。
 彼を救う手段は皆無に等しく、そもそも彼の存在に気づく者がいるのかどうか。
 意味のない希望に縋りつくよりも自死を選ばせてくれるあたり、奴らの恩情なのかもしれない。彼は、ふたたび微笑する。ずいぶんと見縊《みくび》られたものだ。そんなに簡単に屈するほどの男ならば、そもそもはじめから敵対などしなかっただろうに。
 獣のうめきが途切れた。呪文もきこえなくなった。看守の折檻が終わったのか、祈りを唱えていた教徒が途中で力尽きたのか、彼にはわからない。代わりに石牢に響くのは靴音だ。
 飯《めし》の時間か。しかし看守の気まぐれにしては早すぎる。なにより、看守が履く長靴《ブーツ》よりもずっといい音がする。上質な牛革で作った長靴など看守が手に入れられるとも思えず、となれば奴らの気が変わって彼を刑に処する日でも決まったのかもしれない。公開処刑。さぞ大々的に行われるだろう。面と向かってではなくとも、奴らが彼に向かって吐いた言葉は知っている。国を売り渡そうとした大罪人。どのみち、極刑は免れないはずだ。
 靴音は彼の前で止まった。洋燈《ランプ》に目が眩んだ彼は目を細めながらその男を見る。想定外とは思わなかった。彼はその男と馴染みの間柄で、その性格もよく知っていたからだ。
 とはいえ、どうやって知ったのか。ここに入り込む自体そう容易くはなかったが、それ以上に危険なのは言うまでもない。赤の色が見える。彼を見おろす瞳は無感情だがすこしばかりの動揺が見えた。それほどに彼はひどい容貌をしているのだろう。では、なおさらだ。救いの手を差し伸べれば己の立ち位置がどうなるか。そのくらい理解している男だ。それでも、男は彼をここから出すつもりらしい。
「人は、ひとつしか選ぶことができない。お前は……、そこから何を選ぶ?」
 彼の声に、男は何も言葉を返さなかった。
 









 エルグランの公子ジェラールは現エルグラン王の甥である。
 母親は公女、すなわち現エルグラン王の妹だがジェラールの父親は実はグラン人ではなくイレスダート人だ。ヴァルハルワ教会の司祭を務めたのち、枢機卿に選ばれたものの、エルグランの公女の婚約が決まったがためにこれを辞退した話は、ヴァルハルワ教徒のなかでも有名だった。
 公女の夫になったとして、エルグランの玉座に近づくかと言えば答えは否、エルグラン王には歳の離れた弟がいたためだ。出世欲に憑かれた俗物ならば公女との結婚を蹴っただろう。しかし、ジェラールの父親は公女を選んだ。エルグランでも指折り付きの美人だったからだ。
 富と名誉よりも女を選んだだけと、かの司祭を揶揄《やゆ》する者もいたかもしれない。だが、ジェラールの記憶にある両親はどちらも幸せそうで、互いを慈しんでいたように思う。政略婚とはいえ、二人が育んできた絆はたしかなものだったと、そうジェラールはいまでも信じている。
 エルグランの王城から離れた辺境の砦がジェラールの治める公爵領だ。
 幼いジェラールを遺して両親が病死したあと、爵位は空白のままだがジェラールは王命にも首を縦に振らずにいた。公爵を名乗るのは妻をこの地に迎えてからと、そう決めていたからだ。
 しかし、そんな悠長なことも言っていられない。
 高齢のエルグラン王には子がおらず、側室にやっと生ませた子どもが薄幸にも夭折《ようせつ》してしまったのである。こうなれば跡継ぎはもう望めずに王弟に期待が掛かるところでも、温厚な王弟ではとてもエルグランの玉座は預けられないと、官吏たちが騒ぎ出している。王都からの使者の訴えにジェラールは苦笑する。自分は辺境でのんびりと暮らすつもりだったのに、聖イシュタニアはそれを怠惰と見做《みな》したらしい。王への伺候《しこう》に加えて竜騎士団の引き継ぎなどと忙しく、ここ数ヶ月は王城と辺境の行ったり来たりだ。
 日頃から時間はきっり守るジェラールだが、そこに慣習がふたつ増えた。
 ひとつは地下牢に閉じ込めている客人で、三日に一度は必ず彼の顔を拝みに行く。相手は隣国の王子なのでそれなりの対応をするつもりだったものの、あのレオンハルトのこと、別塔に軟禁しようものなら壁を蹴破っても脱出するだろう。
 鉄格子のなかに閉じ込められた旧友は意外にも大人しく、ジェラールはいささか鼻白んだ。グランルーザに残っている妹が竜騎士団を率いて攻めてくる。それを待っているのだろうか。考えられない。ジェラールは首を振る。それでは戦争がはじまってしまう。賢いセシリアならば大人しくこちらの要求に応えるはずだ。
 ジェラールは愛竜を離れの竜舎に預けて、修道院を訪れていた。
 慣習のもうひとつがここだった。扈従《こじゅう》は近づくのを嫌がるのでいつも辺境の砦に置いてくるため、ジェラールは一人でここに来る。両手に抱えるのは食糧と毛布、山岳地帯にあるエルグランには春の訪れなどまだ遠く、昼間でもそこそこに冷える。病状が悪化するのはあまりに気の毒だ。
 裏口から入ろうとして手が塞がっていることに気がついたジェラールはしばしそこで立ち尽くす。ほどなくして、修道女たちが近づいて来た。
「まあまあ、公子様。事前に言ってくだされば、こんな仕事は私たちでやりますのに」
「扈従はどうしたのですか? こんな重たいものを公子様に運ばせるなんて、怠慢だわ」
「今日は良い天気ですので、皆の調子も良いみたいです。公子様が来てくれたと知れば、きっと喜びますわ」
 修道女たちのかしましい声にもジェラールは笑みで応える。
「そうだわ。今日は白の司祭様もいらっしゃるの。ムスタールの大聖堂から、薬をすこし分けて頂いたそうで、」
「彼が来ているのか?」
 そろってうなずいた修道女たちの顔が綻んでいる理由がわかった。修道院長への挨拶もそこそこに、ジェラールはまず病室をのぞく。薬が良く効いているのか子どもたちの寝息も穏やかだった。隣室へとつづき、大人たちはジェラールを見て寝台から飛び降りる勢いだったが、ジェラールは目顔でそれを止める。たしかに、今日は皆の顔色も良く見えた。
 最後に聖堂へと向かったジェラールはそこでようやく彼と会えた。
「来ていたんだね。ユノ・ジュール」
 聖イシュタニアの像を見つめていた彼が、やおら振り返った。
 前に会ったのは半年ほど前だったと思う。しかし、それにしては彼の容貌が変わっている。年頃の少年は急に成長するものでも、人間の子どもがこれほど急激に背が伸びるだろうか。それに、背に流した白い髪。前はもっと短かったし、顔つきもこれほど大人びてはいなかった。
「あなたを待っていた」
 声色も大人のそれだ。唯一変わらないとすれば、雪花石膏《アラバスター》の白い肌と青玉石《サファイア》色の瞳。あれこれと詮索する前に、まずは礼を告げるべきだろう。ジェラールは微笑んだ。
「猊下《げいか》に感謝を伝えてほしい。あの薬は貴重だ。イレスダートでなければ手に入らないからね」
「さっさとグランルーザを手に入れたらいいだろう? あの国の財力と合わせれば大した額ではない」
「簡単に言ってくれるね。ヴァルハルワ教会は善意で与えてくれるけれど、それ以上はとても無理だ。商家が黙ってないよ。ますます足元を見られるだけだ」
 それに、とジェラールは次の声を飲む。たしかにグランルーザはエルグランに比べて豊かな国だ。あちらでは鉱物が取れるので、それを他国に売って財を増やしている実績がある。敬虔なヴァルハルワ教徒の多いエルグランでは嫌悪とするやり方でも、ここの病人たちにはそれほど多くの時間は残っていないのが現実だ。
 イレスダートであれば、薬の原料は簡単に入手できる。
 ハイトの葉もクカの実もそこらの森で群生しているし、ロブリンの薬もそれほど高額の扱いではない。これらの薬があれば発熱や咳の症状はかなり抑えられる上に、症状が進んで盲目の心配もなくなる。不治の病に罹患する者は年々増えるばかりで、エルグラン王もこれを重く受け止めている。
 そうだ。僕たちには時間がない。ジェラールは白の司祭を見た。ヴァルハルワ教会の大司教の息子、彼はそう名乗ってエルグラン王の前に現れた。あれは二年前だったと、そう記憶している。異端な容貌も彼が聖イシュタニアの祝福を受けた者だと誰も疑わなければ、ジェラールもおなじだ。ユノ・ジュールはエルグランに救いの手を差し伸べてくれる聖者だ。
「伯父上に会いに行く。君も、一緒に来てほしい。エルグラン王はまだ決めかねているようだ。でも、白の司祭の声があればきっと動くはずだ」
 彼はにこりともせず、表情も変えなかった。何を考えているのだろう。だが、どうあっても彼の手を借りないという選択はない。ここが分かれ道だ。民を見捨てる王などエルグランの歴史が拒否するだろう。だからこそ、ジェラールはユノ・ジュールという白の司祭の手に縋る。

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