五章 蒼空を翔ける

ルドラスの姫君

 一頭の馬がカラマツの林を駆け抜けていく。
 雪は一昨日には止んでいたものの、針葉樹の林は白に染まっている。これでは難儀するだろう。従者の止める声を無視して出てきて正解だった。踏み慣らされた林道なら馬も嫌がらないからだ。
 亜麻色の美しい馬を駆る者の顔はフード付きの外套に隠されて見えなかったが、しかしよく訓練された馬を操るのがどこかの貴人だということはわかる。騎士にしては線が細すぎるし、子どもにしては背丈が大人に近い。どこぞの貴人の令嬢。一目で看破される容貌をそのままに、彼女は扈従も連れずにただ馬を走らせていた。
 カラマツの林を抜けると城郭が見えてきた。かの城塞都市よりもちいさいそこは、あくまで兵站を補給するための施設だ。衛士に誰何されるより早く彼女はフードを外した。光沢のある白に近い銀髪、瞳の色は青玉石を思わせる青。そのまま誰何をつづけるか、黙って城門を開くか。彼女の顔を見た者の反応は二つ、衛士は後者だったらしい。あっ、という声が漏れたものの、衛士は騒ぎ立てたりはしなかった。
 前回来たときは、面倒なことになったけれど。
 彼女は独りごちる。新米騎士が衛士だったために要は《《彼女を知らなかったのだ》》。わざわざ名乗るのも馬鹿馬鹿しく、そのまま押し通ろうとする彼女は衛士の槍に阻まれた。そうして、騒ぎをききつけた上官が衛士をこっぴどく叱りつける始末。まあ無理もない。ルドラスの姫君。王都にいるはずの王女がこんな辺境に訪れるなど誰が思うだろう。
 馬丁に馬を任せて彼女は砦のなかへと入る。騎士たちのほとんどが出払っているらしかったので、彼女は素顔をそのままにした。二度目なので迷うこともなく、彼女は奥の一室へと向かっていく。そこではたと思い出した。次はなにか手土産でも持って行こう。なのに彼女はいま手ぶらで、物の見事に忘れていた。相手はまだ少女、怖がらせないための演出と考えていたのに、どうも自分はそういうものに疎いようだ。仕方がないので大台所に寄って、調理長にいくつか注文を付けた。出払っている騎士たちは夜までには戻るのだろう。大鍋と格闘中の調理長は彼女を見て迷惑そうな顔をした。
「すこしは元気になったかしら?」
 東の塔には俘虜が囚われている。
 ルドラスの騎士たちが近づけない場所に、その少女は閉じ込められていた。扉をたたけば怯えた声が返ってきたものの、彼女の姿を認めると少女はいくらか安心した表情をしていた。
 室内には暖炉が盛んに燃えているので暑いくらいだ。彼女は外套を脱いでカウチへと腰掛ける。円卓とカウチ、寝台と化粧台、他にも風呂と洗面台まで付いた客人用の部屋だ。はい、とちいさく返した少女に微笑みでまず応える。
「いま、香茶と焼き菓子を用意させたわ。あなたもこちらに座りなさい」
「は、はい……」
 少女は慌てて従った。会うのは二回目なのにまだ警戒心を消さないらしい。それも当然かもしれない。この少女のここでの扱いはあくまで俘虜だ。
「熱もさがったのなら、よかったわ。ちゃんと食べているの?」
「は、はい。ここの食事は、すごく美味しいです……」
 うつむきがちに応えた少女は、彼女が片眉をあげていても気づかない。南のイレスダートと北のルドラスでは風土はもとより、食文化も多少異なる。北へ行くほど寒冷地帯が広がるルドラスでは香草をたっぷり使った煮込み料理が多く、基本的な味付けも塩や少量の香辛料を振るだけだ。加えて朝晩の食事は軽めで午餐がメインとなる。まずはその習慣に慣れるだけでも大変だろう。
 侍女が香茶と焼き菓子を持って入ってきた。円卓に用意された香茶にまず彼女から手を付ける。目顔で促された少女もおずおずとカップに手を伸ばした。侍女が出ていったので、彼女はふたたび少女と二人きりになる。あれこれ要求した甲斐があった。ほんのりと果実が香る香茶は緊張を解す効能を持っている。
「たしかあなたには兄様がいましたね?」
 急な話題だと思ったのだろう。少女は目を瞬かせた。
「は、はい……。兄さまは、ふたりいます」
「さぞあなたを案じているでしょうね。手紙を書いてみたらどうかしら? わたくしがイレスダートへと届くように手配します」
「そ、そうですね……」
 なぜか浮かない表情をする少女に失言だったのかと、彼女はそう思う。事前に手に入れていた情報ではこの少女に兄がいるということ、しかしたしか異母兄妹だったはずだ。
「兄姉仲はあまりよろしくなくて?」
「あ、いえ……。そうでは、ありません。兄は、ディアス兄さまにはなんどか手紙を送っているのです」
 彼女は小首を傾げる。
「ディアス兄さまは王都マイアに行ったきり……。手紙は送ったのですが、いちども返ってきません」
「そう。それは、心配ね」
 少女は膝の上でカップをあたためている。香茶のお代わりを勧めようと思ったが、まだほとんど減っていない。
「王都にはねえさまがいるから、きっと会っているのだと思います」
「ねえさま?」
「あ、いいえ。ほんとうの姉さまではないのです。私が、勝手にそう呼んでいるだけで……」
 彼女は焼き菓子をひとつ摘まんで、少女の声を待つ。
「レオナ姉さまは、私の憧れの方です。ディアス兄さまと姉さまは、幼なじみで……。それに私も、修道院で一緒に暮らしていたときに、姉さまにはよくしていただきました」
 レオナ。彼女は口のなかで繰り返す。きいた覚えがある。南のイレスダート、マイア王家の末姫の名だ。
「では、その方にも手紙を送るといいわ」
「えっ、でも……」
「あなたの祖国ランツェスと我がルドラスと。それからあなたがいま、このルドラスに身を寄せていることも王都に届いた頃でしょう。それほど親しい方ならばきっと案じていらっしゃるわ」
「そう、ですね。エルレイン様の、おっしゃるとおりです」
 彼女――エルレインはにっこりとする。カップを円卓に戻すとそろそろ頃合いだとばかりに、少女の目をまっすぐに見つめた。
「ふたたび雪が降る前に、あなたを北に連れて行こうと思うの」
 少女の紅い瞳が揺れた。
「誤解なさらないで。北はここよりもっと良いところよ。こんな山麓の砦にいてはあなたがまた風邪を拗らせてしまうもの」
「ご、ごめんなさい。私……、ご迷惑をおかけしてばかりで」
「わたくしがあなたを連れて行きたいのだから、気にしなくていいわ。それにね、あの街にはわたくしの妹がいるの。歳もあなたとおなじくらいだから、きっとお友だちになれるわ」
「エルレイン様の、妹君ですか……?」
「エルーでいいわ。エルレインなんて仰々しい。前にもそう言ったでしょう?」
 自分で香茶のお代わりを注ごうとしたエルレインを、少女は慌てて阻止した。栗毛の大人しい少女。肌の色も目の色もエルレインとはちがう。北のルドラス人は総じて色素が薄いのに対して、南のイレスダート人は青や赤、他にも様々な色を持っている。栗毛の少女――ウルスラに香茶を注いでもらいながら、エルレインは逡巡する。そうだ。この少女は俘虜なんかじゃない。エルレインはウルスラを人質として連れて行くのではなく、客人として招くのだ。騎士団が常駐するような砦にいては少女の心も休まらないし、とにかく山麓は寒い。
「では……、エルー姉さまと。そうお呼びしても、いいですか?」
 おっかなびっくりそう声にした少女に、エルレインは微笑んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「勝手なことをなさらないでください」
 半年ぶりに会った第一声がこれだ。エルレインは騎士の顔を見るよりも前にため息を吐いた。
 おおかた衛士がすぐに報告に行ったのだろう。騎士はこの山麓の砦と、もうひとつ城塞都市にほど近い森の砦も任されている。エルレインは騎士があちらにいると踏んでいた。居ない隙にウルスラを連れ出すのが一番よかったのだ。
「彼女の同意は得ています。……だいたい、妙齢の娘をこんなところに閉じ込めておくなんて、誰の命令なのかしら?」
 エルレインは騎士を見あげる。硝子玉のような碧の眼とかち合った。ずいぶんと冷たい目だと、エルレインはそう思った。己の主君に対して非難の意思を秘めた目だ。
「あの娘になにかあったなら、あなたは責任を取れるのですか?」
「俘虜に手を出す愚か者はいません」
「彼女は人質ではなく客人です。口を慎みなさい、ランスロット」
 銀の騎士ランスロット。彼はエルレインの騎士だった。過去形で言うのは正しくない表現かもしれない。エルレインは騎士が己の元を離れるのを許した覚えはなかったし、この先だってそうだ。
「……我々はすでにガレリアを手中に収めているのです」
「そうね。わたくしとあなたがいないあいだに、誰かさんが勝手にね」
 エルレインは騎士を睨めつける。ルドラス南部の砦は銀の騎士ランスロットの管轄内にある。あれはおよそ一年前、ランスロットは城塞都市ガレリアにイレスダートの聖騎士が赴任したという情報を手にした。イレスダートが本格的に動き出したのか、否か。見極めていたところで銀の騎士は聖騎士との接触に成功した。そのとき交わした密約を届けるために、ランスロットは王都へと帰還する。イレスダートの王アナクレオンの声を、たしかにルドラスの覇王へと届けたのだ。
「父上はあなたになんと声を残しましたか?」
「殿下には関わりのないことです」
 答えなどきく前からわかっていたようなものだ。エルレインは歯痒く思う。自身が直接王の声をきければいいが、それが叶わないのはエルレインが庶子の娘だからだ。もう何年も父とは話していない。離宮でひっそりと暮らしていたエルレインはその暮らしを悲観せずに受け入れていたが、どうしようもなく抗いたくなるときもある。まさにいまがそうだ。 
「そもそもあの男――、エセルバートはイレスダート人です。あの者をなぜ自由にさせているのか。わたくしには父上の考えがわからない」
「率爾ながら殿下が親しくするあのウルスラという娘も、おなじくイレスダート人です」
 エルレインは思わず笑ってしまった。
「面白いことを言うわね、ランスロット。いいわ。過ぎたことを蒸し返すのはやめましょう。重要なのはこれからです」
 自分に騎士団を動かすような権限など許されなくとも、しかし騎士には戒めが必要だ。銀の騎士ランスロットはエルレインの騎士である。主君の声に騎士はけっして逆らえない生きものだ。
「ガレリアから騎士団を南下させてはなりません。あのエセルバートという男は好きにさせておきなさい。イレスダートとルドラス、好きに行き来でもさせればいい」
「殿下はどちらへ?」
「わたくしは王都には戻りません。しばらくはあの娘と一緒にいるつもりです」
 王都に帰れば、これまでエルレインなど見向きもしなかった官吏たちが揉み手ですり寄ってくる。たしかにエルレインは庶子の娘であるが、ルドラス王家に残された子はエルレインと妹のみだった。王位継承権はエルレインが一位、結婚の相手を推し薦めてくるのが目に見えている。
「……あの子が生きていれば、ちがったのでしょうね」
 エルレインはそうつぶやく。あの子というのは彼女の実の弟だ。ルドラスの正室には長らく子ができずに、側室の母が先にエルレインと妹を産んだ。エルレインよりも六つ下の弟は国民から愛された王子だった。日陰で暮らしてきた彼女が常に光の場所にいる弟を恨んだことはなく、わずか十三歳で命を落とした彼を思うと涙を堪えきれなかった。
 それでも、イレスダートを憎んではならない。
 エルレインはイレスダートを敵国と呼ばずにいる。長らく戦争をつづけている南の国、和平条約は叶わずに若い王子は奪われた。しかしイレスダートもまた、国王と王女を失っている。痛み分けというには妙な言葉だろう。極秘で進められていた両国の王子と王女の結婚の代償か、それとも災害がもたらした不幸な事故と認めるべきなのか。エルレインは歯噛みする。憎くないはずがない。イレスダートはそもそもルドラスと戦争をしている国だ。
「あの娘はいずれ国に返してやるつもりです」
 だとしても、いまここに閉じ込められているウルスラという少女には関係のない話だ。それきり銀の騎士の顔を見ずにエルレインは去った。うしろではっきりと騎士のため息がきこえた。



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