四章 ラ・ガーディア−四葉の国−

別離と恩赦

 幼なじみを傍付きの元に送り届けたところで、もう一人の幼なじみが待っていた。
「だいぶ落ち着いたから……、もう大丈夫だと思う」
 問われる前にブレイヴはそう答える。扉の向こうにはルテキアとシャルロットもいる。彼女たちの前でレオナはきっと泣かないし、無理に笑って今日の花祭りを語るだろう。
「お前が傍にいるべきじゃないのか?」
 ブレイヴはまじろいだ。ディアスがそんなことを言うとは思わなかった。これ以上、幼なじみに何がしてやれるというのだろう。ブレイヴは失笑しそうになる。レオナを苦しめている元凶が自分だ。ディアスは怒るだろうから、ブレイヴは声に出さずにいる。
 ディアスの麾下オスカーの姿は見えなかった。旅支度を調えているのかもしれない。こんな夜更けでもエディに頼めば丈夫な馬を用意してくれる。ウルーグの鷹はディアスたちを厩舎で待っている。
「今夜、経つのか?」
「ああ」
 夜明けを待つのが惜しいとばかりに、ディアスの声も素っ気ない。これでは皆に別れを告げるまもなかっただろう。仔細を知っているのはブレイヴとレオナ、それからエディくらいだ。
 ウルーグの王城、その西の塔はブレイヴたち客人だけが使っている。
 花祭りのあとで皆は疲れてもう眠っているらしく回廊には二人だけ、物音もしないなかで声を潜めながら会話をつづける。ブレイヴはふと幼い時分を思い出した。白の王宮、離れの別塔で暮らしている王家の末姫。公爵家の子どもたちは幼い王女の遊び相手として呼ばれた。こわいゆめをみるの。そう言って乳母と守り役の騎士を困らせていたちいさな王女のために、ブレイヴとディアスは夜の回廊をそろりそろりと歩く。見つかったら怒られるぞ。ひとつ年上のディアスにブレイヴはにっこりする。だいじょうぶだよ、大人たちは出掛けているからすぐには戻らない。あの夜は晩餐会が開かれていて、いまみたいに回廊は静まりかえっていた。
「お前は大丈夫なのか?」
「……なにが?」
「王殺し」
 ブレイヴの息が止まる。いま、笑みを作ったところで逆効果だ。
「ガゼルたちはサラザールを変えた。だが、結果的にはそれと変わらない」
 なぜ終わった話を蒸し返すのか。挑みかかるような炯々とした目で睨みつけても、ディアスは相好を変えずにいる。
「イレスダートでそんなことは起こらない」
 だから、ブレイヴは先回りして言う。《《すでに起きている》》。ディアスは目顔でそれをブレイヴに悟らせる。
「あの黒騎士に、俺は何度も懲罰室送りにされた」
 ほぼ同時期に士官学校へと入っていた二人が師事したのは、ムスタールの黒騎士だ。暗くて冷たい独房にぶち込まれたと根に持っているのだろうか。そうだとしたら筋が通る。
「ムスタール公が蛮行に至ったと、本気で信じているのか?」
「さあ、どうだろうな。だがオスカーは俺の麾下だ。長旅を経て帰ってきた麾下の声を無下にはできない」
 オスカー・パウエルがひどく怠惰な人間でイレスダートと戻ったように見せかけて実際はフォルネに留まっていた、あるいは空言を繰り返すような騎士ならば、この次に二人は殴り合わなくてもよかったかもしれない。ブレイヴは拳を固く作ったところで踏み止まった。ブレイヴもディアスも、ヘルムートを知っている。ここが士官学校だったら二人とも懲罰室行きだ。
「やめておけ。叱られるならまだしも、またレオナに泣かれたくはないだろう?」
 ずいぶんと姑息な手を使う。ブレイヴは微笑で返した。記憶違いじゃないのか。二人を叱りつけていたのは姉のソニアで、泣くばかりだったのは妹のレオナだ。
「白の王宮にどれだけ近づけるかわからないが、王都には寄ってから帰る。自分の目で見て耳できいて、それからたしかめる」
 だから気にするな。ディアスはそう言っている。せっかく引っ込めた拳が震えた。収まりのつかない感情に、これほど自分が子どもだなんて思わなかった。
「お前も、レオナも、俺を責めない」
「責めてほしかったのか? 聖騎士は良い趣味をしているな」
 なにが聖騎士だ。白の王宮、とりわけ元老院には目の敵にされた挙げ句アストレアを奪われた。イレスダートを追われてからは西へと逃亡、祖国を離れていたあいだに起こった悲劇の数々は防げなかったのか否か。答えるまでもない。
「はっきり言わなければわからないか? それは傲慢だ。だいたい、お前はホルストを知らない。俺の兄はガレリアに大人しく収まっているような男じゃない」
「自分の兄をずいぶんな言い方だな」
「ああ。俺の兄だからだ」
 おまけに今日のディアスは饒舌だ。触れるのが禁忌みたいに兄妹のことを喋らなかったディアスがよく喋る。母親が異なるといえ血の繋がった妹だ。敵国に売るなどにわかには信じられなかったが、ホルストならそうすると決めつけているような物言いだ。
「だいたい、お前がイレスダートに留まっていたところでどうなった? 王女の拐引、オリシス公暗殺、サリタでは味方殺し。どれも重罪だ。王家転覆の疑惑まで引っ提げたとなれば、元老院がわざわざ立ち回らなくともアストレアは白の王宮の支配下に置かれる。お前は陛下に申し開きをするより前に首を刎ねられている」
 皆まできいてやったところでブレイヴは肩で息を吐いた。こんな戯れ言なんてどうということもない。精神を落ち着かせる訓練のひとつに、わざと怒りを触発させる言葉を浴びせられる所業があるが、士官学校を卒業するまでに克服できる。ただし、その相手が幼なじみという近しい相手でなければだ。
「やめなさい!」
 夜中にもかかわらず、回廊には大声が響いた。セルジュが来た。ブレイヴの拳はディアスの頬へと届く寸前で止まっていた。いまのでレナードやノエルも起きた。すぐ飛び出さないのは巻き込まれたくないからだ。
「幼なじみというのは厄介な関係ですね。こんなところで殴り合いですか?」
「俺は手を出していない。ブレイヴが勝手に殴りかかってきた」
「この……っ!」
 一度目も二度目も留めたが限界だ。しかしブレイヴの拳はディアスの手で塞がれる。中肉中背のブレイヴよりもディアスは背が高く、拳も大きい。さらにセルジュはブレイヴよりももうすこし小柄だ。騎士みたいに鍛えてもなく、アストレアを出奔しているあいだにずいぶんと痩せた。そんな身体で二人を止めようなど怪我をするだけだ。
「やめなさいと言っているでしょう!」
 殴られてもいい覚悟でセルジュはブレイヴの前に立ちはだかる。さすがに無抵抗の軍師を殴りつける趣味はなかったが、ディアスはセルジュを押しのけた。べつに殴られたって構わない。その余裕の表情に余計に腹が立つ。
「それだけ元気が有り余っているのなら、大丈夫だな」
 たぶん、みんなもう起きている。
「このつづきは、王都マイアでする」
「ああ。お前はそれまで死ぬなよ」
 後腐れのない別れよりも物別れの方がずっといい。思う存分に殴り合って、気が済んだところで幼なじみがやってくる。顔を腫らした二人にソニアそっくりの説教をして、それから癒やしの魔法を掛けてくれる。そんな未来がブレイヴには見える。
 
 
 

 


  


 灯りらしい光はほとんどないに等しい。そこは陰鬱で、闇しかない世界だった。
 地下特有の黴臭さに加えて糞尿のにおいが充満している。鼻が麻痺してそのうち気にならなくなるが、はじめのうちは臭気に耐えられず何度か吐いた。汚物を片付ける者もいないので異臭が増しただけだった。
 眠れない理由はそれだけではない。太陽の光が届かない地下で春の訪れなど意味も持たず、冷たい石床が容赦なく体温を奪っていく。豪奢な騎士服は剥ぎ取られたので彼が着ているのは粗末な古着のみ、それも膝丈までのズボンに足は裸足、ところどころに修復の跡が見えるがとても寒さを凌げるような代物ではなかった。
 悪臭と冷寒、それに加えて空腹が彼を襲っている。
 黴の生えた黒パンと塩で味付けただけのスープが唯一の食事だ。一日二回、それも看守の気まぐれで忘れられていれば一度きり。いかに囚人といえど地上にあるのが王都マイアとは思えない食事だ。囚人たちのほとんどが体力が尽きたのか死んだように眠っているなか、彼は鉄格子の向こうに放り込まれて一度も眠ってはいなかったし、食事も水にさえも手付かずだった。
 懐中時計も奪われたために時を知る手段もない彼だったが、三日が過ぎていた。
 彼は膝を抱えてただ座り込んでいる。視点の定まらない目、動きつづけている唇からはなにやら声のようなものがきこえるものの、言葉として判別は不可能だ。
 どんなに強固な精神の持ち主であっても、この場所にひと月もいれば正気を失うという。彼らに与えられるのは死ではない。贖うのは罪だ。
 その足音はどの囚人たちも素通りして行った。
 ここは王都マイア。聖都と謳われる城下街にて掏摸や暴力行為などといった犯罪が横行するはずもなく、地下牢へと収容される囚人たちは言わずもがな重罪人ばかりだ。裁きの日を待つあいだに力尽きる囚人もいる。実質、死刑のようなものである。どの囚人たちも目がうつろで、生への望みなどとっくに捨てているのだろう。牛革で作られた長靴が鳴らす音を他人事のようにきいている。自分の前でその音が止まり、主刑を読みあげられるよりも前に囚人は絶叫するものだが、とうに生きる気力を無くした囚人たちにはどうでもいいことだ。むしろ、ようやくここから解放される喜びの方が大きいのかもしれない。ここは、そんなひどい世界だ。
「ヘルムート」
 空気が震えるほどの低い声だった。
 ずっと独り言をつぶやいているヘルムートには届いていない。誰もきき取れないほどの声で朝から晩まで繰り返すために、あまりの気味の悪さに看守も寄りつかなくなった。手付かずの黒パンに蠅が集っていてもそのまま、新しい水さえ寄越さない。
 もはや《《まともな人間》》とはいえなかった。
 悪環境のせいに見えても実際は異なる。そもそも彼は自ら牢獄を望んでいたのだ。神聖なる白の間を血で穢した彼は造反の罪、および国王弑逆の罪にてすぐさま白騎士団に取り押さえられた。そのときはまだ、彼は《《まとも》》だったかもしれない。抵抗を示さずに捕縛された彼はただ大人しく、別塔へと監禁後にこの牢獄へと引き摺られていくあいだすら、彼は一言も申し開きをしなかった。
 減刑を訴えたのは彼が厭悪《えんお》していた元老院だったが、どうあっても処罰は免れずに投獄を余儀なくされた。なお、監禁中の罪人には誰一人として接触が許されなかったため、この事実を彼が知る由もなかった。
 この時点で、すでに彼は彼でなくなっていたと考えるのが普通だ。
 黒騎士ヘルムート。撫でつけていた黒髪は乱れたまま、何日も食事を取っていないため頬が痩せている。切れ長の灰色の目が見つめるのはただの石床、その薄い唇から紡がれるのは懺悔かそれとも。
「ヘルムート、私を見なさい」
 囚人を前に男は微笑んだ。そこでようやく彼の目が持ちあがった。瞬きを繰り返し、光でも見たかのようにまぶしそうにする。実際、彼にとっては光そのものだったのかもしれない。彼は男へと手を伸ばしかけて、鉄格子に阻まれた。がしゃんと、鉄が揺れる音に彼はひどく動揺して、そして現実へと戻る。あり得ない。彼の唇はたしかにそう動いていた。
「お前を許そう、ヘルムート」
 艶然と男は笑む。彼はいま一度またたいた。信じられないものを見た目をして、ただその声を受け入れる。そう、彼は許されざる大罪を犯した。他の誰が減刑を与えても彼自身が許しはしない。されど、ただ一人例外がいたとすれば――。
「私に力を貸せ、ヘルムート。ここを出て国へと戻り、我らが敵のために戦うのだ」
 彼にとっての唯一の王が、そうささやいた。ブレイヴとレオナ、それからディアス。彼らに王都マイアで起きた悲劇が届くより三月《みつき》も前の話である。


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