四章 ラ・ガーディア−四葉の国−

裏切り者は火刑に処す

 イシュタリカがそこに足を踏み入れたとき、思わず声をなくしたくらいに酷い有様だった。
 引き裂かれたカーテン、なぎ倒された本棚、引き千切られたシーツと羽毛布団からは中身が散乱してそこらじゅうに羽が舞っているし、少年が趣味で集めていた絵画も骨董品まで見る影もなかった。灯りも暖炉の火も消えてしまった暗闇のなかで、イシュタリカは少年を探す。嗚咽がきこえるその先へと行ってみれば、少年は毛布に包まってただ震えていた。
「なにを、そんなに怯えていらっしゃるの?」
 彼女が寝室に入ってきたことにも気づいていなかったのだろう。ミハイルの肩が跳ねあがった。老王の愛妾は離宮に引き籠もっているので、普段は城内など彷徨かない。イシュタリカがここに呼ばれたのは、侍従たちが手に負えなくなって泣きついてきたからだ。
 何を誤解しているのだろうと、彼女は思う。
 唯一心を開いている相手だと言った侍従にイシュタリカは鼻白んだ。そうじゃない。あの子どもはただ孤独なだけ、縋れる相手がほしいだけだ。
「どうしてだ?」
 きき落としたかと思うくらいのちいさな声に、イシュタリカは目を瞬かせた。
「どうして、うまくいかない……」
 少年はそう繰り返す。このひと月のあいだだけで処刑は三度行われた。はじめはイシュタリカ自らの手で炎を操った。民衆たちへの見せしめだった。くだらない娯楽に群がる民衆の姿は滑稽なだけで、彼女はのこりを処刑人たちへと任せてまた離宮に引き籠もっていた。
 罪人たちの罪はいずれも重罪にはほど遠く、叛乱軍の有志あるいはそれに関わっていた王国側の騎士に、十人程度だった。王国軍が危惧しているほどミハイルは叛乱軍を恐れていなかったが、しかし戒めは必要だ。なによりもこれでなりを潜めていた叛乱軍が動き出す。叛逆者たちを一気に制圧することこそ、王国軍の勝利は早まり、そうしてミハイルの改革が本格的にはじまる。声高に理想を叫んだところで文官たちに嘲笑われたか、騎士たちの反発を受けたか、王族や他の諸侯らの賛同を得られなかったか。想像するに容易い。ミハイルは精神的にもまだ子どもだ。
 イシュタリカは寝台へと腰掛けた。羽が舞いあがって落ちる。気に入らないことがあるたびに、こうして癇癪を起こされてはたしかに堪らないだろう。妻女はおろか恋人の一人さえいないミハイルだ。半日もすれば戻ってくる少年王よりも先に寝室を片付けておかなければ、逆鱗に触れてしまう。侍従や侍女たちがイシュタリカの袖に縋る理由がそれだ。
 潮時だろうと、イシュタリカは思う。サラザールに血が流れる。《《彼女たち》》の目的はすでに果たされている。だから、お遊びはここまで。イシュタリカは微笑みながら右手をかざす。灯り代わりの光の球が浮かびあがった。
「裏切り者を見つければよろしいのでは?」
 ミハイルの灰青の瞳がイシュタリカを見つめた。
「うらぎりもの?」
「ええ。いるのでしょう? この王宮に」
 歴代の王たちのように、この少年が無能だったならば知らなかっただろう。けれどもミハイルは聡い子どもで、気づいていながらも認めようとしていないだけだ。くすくすと、イシュタリカは笑う。大層な理想を語るくせに為政者としての覚悟がまるで足りない。おまけに犠牲からも目を逸らそうとするのなら、それはただの偽善者でしかない。大人がそう諭せば子どもは癇癪を起こす。だからこの国は叛乱軍の存在を許してしまっている。
「考えてごらんなさいな。なぜ、リンデル将軍は三度も叛乱を試みた指導者を野放しにしているのか」
「……叛乱軍など、取るに足らない存在だ」
「ほんとうにそうかしら?」
 イシュタリカは足を組み替えて、手のひらに積もった羽をふうっと吹き飛ばした。
「時宜を待っているのではなくて? リンデル将軍が見逃した娘――、王の落胤《らくいん》が戻ってくるそのときを」
「なにを、言っている?」
「リンデル将軍のもとに客人がいるのはご存じかしら? こんな情勢が危うい時期に、巡礼者といえども他国の人間を招き入れるのは不自然だわ」
 灰青の瞳をしばたかせる少年に向けて、イシュタリカは笑みを崩さない。
「今度こそ、叛乱軍を制圧する。それからあなたという王を廃して、新しい王を玉座に据える。こんどはもっとききわけの良い王が誕生するでしょうね」
 国力のある大国ならばともかく、王は玉座にいるだけでいい存在である。国が傾こうが民が餓えようとも、サラザールはそうやって成り立ってきたのだ。扱いにくい王など必要とされていないし、代わりさえいれば操り人形などすげ替えればいい。だからこそ、イシュタリカは少年に囁く。
「裏切り者には、相応しい死を」

 
 
 
 
 
 
 
 

 教会には敬虔なるヴァルハルワ教徒の他にも、たくさんの人が押し寄せている。
 七日前にもここで処刑が行われたばかりで、しかしそのときとは比べものにならなかった。腰の曲がった老爺、働き盛りの若者たちは仕事が手につかず途中で放棄して、母親たちはしっかり離さないように子どもの手を握る。ざわめきは次第にちいさくなった。刑吏に連れられた罪人がそこに現れたからだ。 
 人々の視線は火刑台へとあがる一人の罪人へと集まっている。
 痩躯の男は刑吏に責付かれることなく、ゆっくりとその足を進める。表情はここからではよく見えなかったが、自分の足でしっかり歩いているので過度な拷問は行われなかったのだろう。
 啜り泣くような声がきこえた。それは贖罪と祈りのうたをかき消すかのように、一人、また一人と増えていく。演出とは思えないのは、彼らの涙が本物さながらに美しかったからだ。
 罪人は騎士のみでありながらも主君へと叛乱を企てた一人として捕縛され、そうして罪を認めた。冤罪ならば罪人を慕う者たちが異議を申し立ててとっくに騒ぎを起こしているはずで、あるいは先に始末されたのかもしれない。《《真実を知らない》》民衆たちはただこの処刑を見守るだけ、人々の心に宿った感情は怖れであったり、もしくは憐憫であったりとさまざまだ。
 雲ひとつ見えない寒空の下でこれから火刑が行われる。
 十字に組まれた樫の木の周りに藁は敷かれていない。炎が藁を伝って罪人へと届くには多量の藁が必要となる。費用の削減か、いやそんなことをしなくとも処刑人たちの手から放たれる炎は小一時間も掛けずとも罪人の身体を焼き尽くす。
 銀の長衣を着た二人が現れた。あれが、処刑人。クライドはそっと口のなかでつぶやく。隣でおなじように息を潜めて二人を見れば、一人は冷静そのもので、もう一人の顔色は悪かった。魔道士の少年は処刑を目にするのがはじめてらしく、緊張で顔が強張っている。失敗は許されない。そういう目顔を送ってみたものの、果たして届いているかどうか。ともかく、そのときまでクライドたちは待つだけだ。
 罪状を読みあげる刑吏の声が響く。相反して人々の泣き声が大きくなり、かの罪人が本当に民衆から愛されていた騎士なのだというのがわかる。ならばなぜ、その剣は王のためではなく民のために使えなかったのだろう。矜持、葛藤、背信、リンデルは選ばなかったのではない。選べなかったのだ。騎士というのは頭の固いだけの奴か馬鹿の二択だと思っていたが、やはり後者らしい。そうした人間には火刑は相応しい死なのかもしれない。最後の最後で選択した道は、クライドにはどうしても正しかったとは思えない。
 肘で小突かれてクライドは思考から離れた。ぼうっとしているようにも見えたのだろうか。処刑人たちがリンデルの前に動く。その瞬間、身を潜めていた二人が飛び出した。
 炎が放たれるのと、氷の魔法が弾けたのと同時だった。
 直前まで魔力を高めつつも抑えていたのだろう。詠唱もなしに放たれた魔力は、しかし炎を阻む氷となる。アステアが作った氷とセルジュが放った光。融合した二人の力、氷の壁がリンデルの前へとできていた。身体に魔力を宿さないクライドだが、こんな芸当は兄弟であるこの二人だったからこそ可能だったのだと、そう理解した。
 突然の乱入者に混乱したものの、処刑場を取り巻く騎士たちが動き出した。
 二人に後れを取るわけにはいかない。クライドはようやく出番がきたとばかりに、それまで溜まった鬱屈をここで発散させる。他にも教会にはガゼルの仲間たちが潜んでいた。彼らを守りながら戦うのがクライドの役目だったが、どうやらお守りの必要もなさそうだ。解放軍一員たちはそれぞれ好きに暴れている。
 叛乱軍が襲ってきた。蜘蛛の子を散らして逃げていく民衆たちには構わず、クライドたちは己が役目に専念する。ところが先頭はまもなく終わる。解放軍が戦うべき相手であるはずの王国軍、その騎士たちが真っ先にリンデル将軍の救出へと向かったからだ。
「クライドさん!」
 アステアが呼んでいる。二人を人質にでも取られたら厄介だと一瞬焦ったものの、どうやらちがったようだ。魔道士の少年はともかく、本職が軍師であるセルジュの頑張りは相当だったらしい。地面に腰をおろして肩で息を吐くセルジュは、クライドにその役目を譲るつもりだ。目顔で促されて、不承不承にクライドはリンデルへと近づく。刑吏たちはとっくに逃げているのがわかったが、処刑人たちまでも姿を消していた。異形な力を食い止められたのもそのおかげかもしれない。
 老将軍を囲む騎士たちを押しのける。軽い火傷軽度で済んだリンデルはまだこの状況が信じられないようだった。
「そなたらは、叛乱軍か。いったい、なぜ……」
「あんたの処刑を知ったときから、ガゼルはこうするつもりだった」
 突然捕縛されたリンデルは、しかし抵抗なく牢でそのときを待った。王国軍にも叛乱軍に与する者たちが多数いるような状態だった。この国は、腐っている。誰もがそう認めるなかで、騎士として最後まで付き従うつもりだったのだろうか。己が手で主君を裏切れないのならば、民を守るために取る手段はひとつしかない。自らの命と引き換えに、叛乱軍の蜂起と繋げたその意思はクライドには理解できなかったが。 
「あれはサラザールには必要な男だ」
「ガゼルもあんたのことをそう言っていた。彼は、サラザールのこの先をちゃんと考えている。息子の背を押すのが親父の役目だろう? なら、最後まで全うするべきだ」
 自分でも喋り過ぎだという自覚はある。クライドはリンデルの視線から目を逸らす。ガゼルという男はああ見えて慎重な男で、それは言い換えれば怯懦ともおなじ、民を憂いて蜂起する覚悟はあっても心の底ではまだ迷っていた。リンデルはガゼルの父親役だ。年老いてそろそろ役を降りようかと、その最後の仕事を為すには早い。
 数日間とはいえ狭い牢で不自由をしていたせいか、リンデルは疲れ切っていた。無理に身体を起こそうとして、若い騎士らに身体を支えられる。
「あれに、手に掛けさせるわけにはいかない」
「ガゼルはミハイルを殺すつもりはない。……ただ、サラザールを解放させたいだけだ」
 クライドは目顔で西を誘導する。地下水脈、そこから侵入したガゼルたちは王宮へとたどり着いた頃だろうか。


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