四章 ラ・ガーディア−四葉の国−

魔女と少年1

 サラザールの北には貴人たちの邸宅が連なっている。
 白銅色の三角屋根を越えた向こうにはサラザールの城が見える。下流貴族から中流貴族までは城下街に居を構えているが、一部の上流貴族や階級の高い騎士たちは家族共々王城にて暮らしている。有事の際に王族を守るのが彼らの仕事だからだ。
 ラ・ガーディアの始祖である四兄弟の末弟サラザルは、堅牢なる王城を造りあげた。
 城壁はとにかく高く、東西南北に設置された塔には騎士が常駐している。王の伺候に訪れる要人たちは城の外からはやってこない。侵入者となればすぐに衛士が駆けつけてくる。
「サラザルは他の兄たちとちがって幼かったし、それに神経質だった」
 見渡す限りに広がった薔薇園からちょっと離れたところにガゼボがある。ここは愛妾たちのために作られた離宮だ。
「この素晴らしき王城を見せたがらなかっただなんて、やっぱりすこし変わっていますのね」
「疎ましかったのだろう。兄たちがサラザルを、いつまで経っても子ども扱いするから。何度となく訪ねてきた兄弟を追い返し、別れてからはけっきょく一度も会わなかったらしい」
「まあ」
 彼女は笑って、それから香茶の入ったカップへと手を伸ばした。果実の香りがするこの香茶はここより遠く離れたオリシスから取り寄せたものだ。彼女がお気に入りだと知ると、行商人に金貨を二枚握らせてひと月掛けて用意したのだという。そういうところは数ヶ月前に身罷った少年の祖父にそっくりだ。彼女はそう思う。
「ふふふ。でも、ミハイル様でしたらどうしたかしら?」
「僕には兄弟がいないから、サラザルの気持ちはわからない」
 彼女の向かいで焼き菓子を摘まんでいる少年の名をミハイルという。声変わりも終わっていないのか、少年の声は少女のように高く、体つきも男にしては線が細い。さらさらの銀髪と灰青の瞳は初代王サラザルとおなじ色だ。彼女が離宮に招かれたとき、老王の濁った目ではその色は見えなかったが、ミハイルにはしっかりと受け継がれている。
「でも、そうだな……。いきなり訪ねてきて、自分の親類を名乗り出すような奴を、僕だってこの城には入れない」
 少年は老王の愛妾たちを追い出していたが、彼女だけは離宮に残した。
 白磁を思わせる肌、波打つ髪は神秘の紫、漆黒のドレスからのぞくしなやかな肢体、彼女を前にして男たちは無遠慮な視線で彼女を穢す。まだ少年のミハイルは性の味を知らないからか、女の色香には簡単に騙されないようだ。ならば、なぜ自分を離宮に置いておくのか。彼女は知っている。彼はただ寂しいのだ。
「お前に兄妹はいるのか?」
 ほんのささいな話題だった。他意など感じられず、けれども彼女はにっこりと微笑む。
「いた、と言った方が正しいのでしょうか。兄と、それから母の異なる妹がおりましたわ」
「戻りたくはないか?」
 彼女は目をしばたく。
「あそこにはもう私の居場所などありませんから」
 ミハイルは視線をおろした。悪いことをきいてしまった、その自覚があるのだろう。少年は彼女がイレスダート人だと知っているし、遠い東の聖王国から売られてきたのだと、そう思っている。もちろん人身売買などイレスダートにおいても禁忌のひとつだ。とはいえ上流貴族の娘の結婚など親に売られるのもおなじ、政略婚で他国から嫁いだものの歳の離れた夫に先立たれて、そうしてラ・ガーディアの北の果てへとたどり着いた。老王に見初められて離宮へと入った。ミハイルはそのくらいしか彼女を知らなかったが、おおよそは真実であるから彼女も否定はせずにいる。
「そんな顔をなさらないで。私のことより、いまはご自身のことだけを考えて」
 香茶のお代わりを勧めるとミハイルは素直に従った。彼はまだ子どもだ。けれどもしも、《《自分が本当に結婚をしていたならば》》、彼とおなじくらいの子どもに連れ添いながら長い人生を送っていたのかもしれない。彼女は微笑む。そんなことにはならなかった。だからこうして、彼女は生まれた国から遠く離れたこの土地に身を寄せている。
「すこし前にウルーグに行ったと、そう言っていたな」
 老王の愛妾として離宮に閉じ込められてはいるものの、それなりの自由は許されている。いまさらそれを咎められるとは思わなかったので、彼女は否定をしなかった。
「僕はウルーグに行ったことがないし、この王城からも出られない」
 ああ、なるほど。これは妬心だ。本来、籠のなかの鳥であるはずの彼女ですら自由だというのに、少年にはそれがない。
「すこし落ち着いたら、きっと陛下も外出が許されますわ」
「どうだかな。あいつらはみんな過保護だ」
 ミハイルの両親は彼が幼い頃にどちらも病死している。他に兄弟も近しい親族もおらず、代わりに残っているのは歳の離れた伯父や伯母ばかりだ。好色家だった老王には公にはしていない子どもがたくさんいる。彼はそれを自分の家族などと認めていなかったが、跡を継いだばかりの王にあれこれ干渉するのは彼がまだ子どもだからだ。
「お祖父さまがなくなったばかりですもの。陛下一人に負担が掛からないようにと、皆さまは案じていらっしゃるのですわ」
「あいつらのうちにまともな奴が一人でもいれば、こんな苦労はしなかった。僕を子ども扱いするくせに、政なんてひとつもわかっていない」
 円卓の上で作ったミハイルの拳が震えている。彼は自分がお飾りの王だというのをちゃんと理解している。サラザールの王家はいつからこうなってしまったのだろう。政治を省みずに放埒な生活をつづけてきた王族たち、実際に国政にかかわっているのは上流貴族たちの議会である。王が替わったからといって、いきなり国が変わるわけでもなければ、奢侈な暮らしを好む王族たちの悪習が終わるわけでもない。
「本当に苦しんでいるのは民だ。僕じゃない」
 苦しそうに言葉を吐くミハイルを彼女は気の毒に思う。
 疫癘でミハイルの父親が死んだことにより、王家の直系で残された少年だけになった。幼い頃から帝王学をたたきこまれたミハイルには王の自覚がある。だからこそ苦しいのだろう。少年でいられた時分は終わってしまった。王城から出たことのないミハイルは、自身が玉座に腰を掛けてはじめて現実を知った。
「叛乱軍は日に日に大きくなっている」
 恐ろしいのだろうか。少年は自分の手で剣も持ったこともない子どもだ。
「案じる必要はありませんわ。陛下には、リンデル将軍がいらっしゃいます」
「守ってくれるだろうか。僕を、この国を」
 侍従や他の臣下の前ではけっして見せてはならない顔を、少年は彼女の前で見せる。手折るのは容易い。けれども、それではこの少年があまりに憐れだ。
「及ばずながらもお力添えいたします。このイシュタリカがきっと、陛下をお守りいたしますわ」
 彼女は視線を回廊へと向けた。銀の長衣に身を包んだ二人がそこに控えている。男か女か。フードに顔が隠れているために判別はできない。しかし、あれは処刑人だ。
 
 
 







 叛乱軍が住み処としているのはなにもひとつだけではない。
 大衆食堂の地下室、妓楼の一室、廃屋に隠れていたりあるいは普通の民家で暮らしていたりとさまざまだ。ブレイヴは最初にガゼルと会ったとき、なぜこんな見つかりやすい場所に潜んでいるのかと訝しんだ。けれども、その謎はすぐにすっきりとする。ガゼルはわざと王国軍に自分たちの存在を明かしているのだ。
「叛乱軍とはすいぶんな言葉だな。俺たちを呼ぶなら解放軍と言ってくれ」
 ブレイヴの軍師が明け透けのない声をすれば、ガゼルは笑いながらそう返した。以後、ブレイヴは彼らを解放軍と呼ぶ。関わってしまったのだからブレイヴたちも解放軍の一員だ。
 サラザールの現状は、思っていたよりもずっとひどいものだった。河を隔てたその向こうには貴族たちが住んでいる。反対側の西にあるのが貧困窟で、ここに身を落とした者たちは皆訳ありの人間ばかりだ。
 ただ、ガゼルに言わせれば東の区域もたいして変わりはないようで、自由という名の放置がされているだけこちらはまだ良い方らしい。どういう意味かわからなかったので、顔に傷がある男にきいてみたものの、自分は物心ついた頃からここにいたので知らないと返ってきた。眼鏡の細男は言葉を濁してそそくさと去り、目が合ったここで一番年少の少年にはじろっと睨まれた。
「あんたら騎士の仕事はなんだ? 戦争をすることか? ここはちがう。ここでの騎士はただの王の人形みたいなもんだ」
「騎士が民の監視役を務めているのか?」
「まあ、そんなもんだ。税金を納めるのに一日でも遅れたらしょっ引かれる。ちょっとした喧嘩から殴り合いになっても、騎士がすっ飛んでくる。最近じゃ、物が高くてとにかく普通には買えない。愚痴のひとつでも落とそうものなら……あとはわかるな?」
 仕方なくガゼル本人にたしかめた答えがこれだ。居合わせていたエディは声を失い、それから何度も東西の街を自分の足で歩いている。クライドが一緒だから心配はないと思う。ウルーグの鷹はああ見えて頑固だから、ちゃんと自分の目で見ておきたかったのだろう。 
 この日は朝からずっと曇りだった。
 ガゼルが出掛けたときいて、ブレイヴは彼を追ってとある商家にたどり着いた。さして広くもない庭園でガゼルは土いじりをしている。追いついたブレイヴににやっと笑った。
「似合わないことしていると思っただろ?」
 心のなかを言い当てられてどう返そうかと迷った。
 ガゼルのような大男が庭仕事をするのは、たしかに妙な光景といえばそうだ。ただでさえ強面の顔に無精髭、加えて眼帯とくれば庭師と言い張っても誰も信用しないだろう。しかし、こうしているあいだにもガゼルは慣れた手つきで植え替えを行っている。繊細な作業の繰り返しに見えるが、以外と手先は器用なのかも知れない。
「別に俺の趣味じゃない。あいつが好きだったからだ」
「それが、白薔薇の君?」
 ガゼルの動きがぴたりと止まった。ここに入る前、商家の主人に合い言葉を要求された。白薔薇の君。あらかじめ眼鏡の細男からきいていたので通れたものの、声に詰まっていたら追い返されるだけで済んだとは思えない。
「見頃になるのは夏前だな。ここは日当たりが悪くて元気なやつが少ないんだ」
「薔薇を育てるのは熟練の庭師でもむずかしい。花が咲けばそれだけでも喜ぶべきだと思う」
「やけに詳しいな。あんたの恋人の庭にでも咲いていたのか?」
「いや……、祖国の母が薔薇を育ててたんだ。前にすこしだけきいたことがある」
 サラザールの西に位置するこの場所は日照時間が極めて少ない。正午を過ぎれば途端に街中は暗くなるので、午前のうちにまず水仕事を済ませる。ほとんど隙間なく並んだ家からは洗濯物が垂れさがっていて、夕方になっても湿ったままだ。そんなところで植物を愛でようなど考える奴は変わりもんだよ。まあ、ガゼルくらいかな。デューイは養父に向かってそう言う。
「そうか。なら、その母親を大事にするんだ。それからその恋人もな」
「白薔薇の君は、あなたの……」
「ああ、俺の妻だった。死んでもう十年にはなるか」
 ガゼルは泥の付いた手を外套に擦りつける。立ちあがって見あげた空に青色は見えなかった。
「美人だが気が強くて口が立つ。俺は一度もあいつに口では勝てなかったな。だが、あいつの言うことはいつだって正しかった。あいつは真面目で優秀だったから、下流貴族から騎士になった俺のところに来るって言ったとき、周りは皆驚いたよ」
 まるで昨日まですぐ傍に白薔薇の君その人がいたみたいに、ガゼルは笑う。
「知っているか? このサラザールでも稀に魔力を持った人間が生まれるんだ。ああ、たしかにイレスダートほどじゃない。俺だってあいつに会うまでは魔法なんてものは見たこともなかった。サラザールに魔法師団を作ったのもあいつだ。十年前はじいさんばかりだった。いまはもうほとんど残っちゃいないようだが」
 魔法師団。それをたしかめるために、ブレイヴたちはサラザールに来た。しかし、ガゼルの話を合わせるとどうも違和が残る。
「言っただろう? 稀に生まれる、と。あいつが死んでからは表立った活躍はないようだが」
「あなたの奥方は、」
「あいつは自分で死を選んだ」
 ブレイヴは瞠目する。
「事故だってきいたよ、最初はな。魔道士たちの修行の一環で魔道石に力を込めている最中に暴発したって。俺はその頃、遠征と称してウルーグの国境近くに行っていた。ほとんど干渉しない兄弟国の動きが怪しいってな。だが何もなく、戻ったときにはあいつはもういなかった」
「なぜ、自分で命を……」
「誇りのためだ」
 片方しかないガゼルの灰青の瞳がブレイヴを見つめている。
「なんのことはない。ウルーグ遠征は俺を遠くに追い出すための嘘だった」
「それは、何のために?」
「前の王は好色家だった。魔法師団を作ってしまったがために、ただの一介の魔道士ではなくなっちまったんだ。あいつは王に見初められた。……そういうことだ」
 皆まで言わせてしまったことを、ブレイヴはすこし後悔する。
 騎士も魔道士も、臣下であれば王の声は絶対だ。王の寝所に呼ばれたとしても断れば夫であるガゼルにも累が及ぶ。白薔薇の君という人は自分だけではなくガゼルの矜持も守り抜いて、そうして死んだ。
「あいつが俺に残してくれたものといえば、白薔薇の思い出くらいだ。遺言なんて残すようなやつじゃなかったし、怨み言ひとつ残しちゃくれなかった」
 忘れろという意味だったんだろう。そう、ガゼルはつぶやく。
「でも、あなたはいま」
「俺は馬鹿だから、あいつの遺志に従って三年は耐えた。何もなかったような顔をして王の元で騎士をやっていた。でも、それじゃあ駄目だった。目を逸らしてきたものが見えてくる。この国はますますおかしくなっていく」
 だからガゼルたちは蜂起する。彼はそこに正義を見出してはいないし、私怨をまったく含まないなんて言わない。
「どっちにしろ、次が最後だ。俺はもう二度失敗してる。リンデルとは長い付き合いだったが、さすがに三度目は見逃しちゃくれない」
「俺には、あなたがまだ迷っているように見える」
 ガゼルは意外そうな目をしたあと、また空を見あげた。青空も見えなければ涙雨も降ってこない鉛のような重たい雲がこの街を覆っている。
「ミハイルはたしかに頑張っているんだろうよ。十四歳で王にされた上に、議会の連中は少年王なんて置物かなんかだと思ってる。両親も兄弟もいないさびしい少年だ。同情はする。だが、民にそんなものは関係ない」
 ブレイヴは開きかけた唇を閉じた。正しくは言えなかった。王殺し。ガゼルは本気で為すつもりなのだろうか。許されざる大罪を犯すことくらい子どもにでもわかる。ましてや、騎士だったガゼルが本当にそれを望んでいるとは、ブレイヴにはとても思えない。 
「今年は雪が降らなかったからな。どうにか冬を越せても、次の年はわからない」
 ガゼルの視線の先には薔薇園がある。この場所で薔薇を楽しめるのは夏だと彼は言った。でもそうじゃない。ガゼルはこの国を憂いている。沃土《よくど》に恵まれない北の大地で民は、いつだって寒さと飢えに耐えつづけている。
「ここに来たからには当てにはするぞ。利害の一致、そう考えてくれたらいい。あんたたちの探しものは王宮にいる」
「それがいまの魔法師団?」
「あれは魔女だ」
 眉を顰めたブレイヴにガゼルはつづける。
「女神の名を持った魔女。先代の老王の愛妾、それから得体の知れない魔道士が二人。やつらは処刑人だ」
 仲間が数名殺された。他にも王宮や城下街で王家に反する者は見せしめとして炎の魔法で焼き殺された。そう、落としたガゼルの目に宿るのは畏怖だった。


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