四章 ラ・ガーディア−四葉の国−

母の指環

 宿営地で休んでいたエディの元に急報が入ったのは夜明け前、騒がしさに目を覚ましたレオナは天幕を抜け出す。しかし仔細をたしかめる前に見つかった。ディアスだった。
「イスカが攻めてきたのね?」
 幼なじみは無言でうなずく。エディを囲むようにしてウルーグの騎士たちが集まっている。
「他の奴らを起こせ」
 言い残してディアスは他の天幕に向かった。アステアとクリスを任せて、レオナは自分のいた天幕へと戻る。ルテキアとシャルロットもすでに起きていた。
「だいじょうぶ、きっと間に合う」
 不安そうに見つめるオリシスの少女にレオナは微笑んだ。でも、半分は嘘だ。エディの部隊はあくまで後衛支援、イスカの侵攻に備えて国境の集落には騎士団を派遣しているものの、最小限でしかない。駆けつけたところで街はもう落とされている。それでも怪我人の救助、あるいは死者を弔うための手助けは必要だ。
 戦闘はすでにはじまっている。
 先発隊が伏兵部隊と合流し、イスカの戦士たちをうまく誘導したと報告を受けている。先鋒には騎士以外の歩兵たち、そこには金で雇われた傭兵たちも多く含まれているらしい。正規の騎士以外に戦場を任せても良いのだろうか。案じたレオナにエディが微笑む。心配要りません、彼らは合理主義ですから。
 イスカとの戦争を回避しようと努めていたのは王女エリンシア、しかし外側では戦争を待ち望んでいた者だっている。それが傭兵たちで彼らは金のために戦うし、不利となればさっさと逃げ出す。いわば彼らは囮なのだ。
「襲われたのは監獄の街です」
 レオナは目を瞬いた。あの街の守りは堅固だ。簡単には落とせないことなどイスカもわかっているはずで、だからこそ目的が別にあるのだとエディはそう見ている。
「でも、イスカの戦士たちは」
 獅子王スオウの右腕と呼ばれた男シュロ、並びに他のイスカの戦士たちも死体は荼毘に付している。
「取り戻すつもりなら、無意味だな」
「ええ。しかし、たしかめたかったのかもしれません」
 何のためにと、ディアスは問い返さなかった。イスカの戦士たちはウルーグを許さない。その事実だけで十分だ。
「すみません。馬に乗れる者は、私とともに先に来ていただけますか?」
 しばし黙考していたエディが言った。この部隊は物資の配給や補給など輸送隊としての機能も備えている。移動を待っていたら救援は間に合わなくなるので、身軽に動ける者たちだけで出発を急ぎたいのだろう。
 レオナは振り返り、ルテキアとシャルロットを見た。
 二人とも物言いたそうな目をしているものの、事は急を要している。ややうしろでうつむいているアステアは、まだ一人で馬に乗れない。馬丁が連れてきた馬の背にレオナは跨がった。だいじょうぶ。あとから来てくれる皆に向けて、レオナは繰り返した。
 ほとんど休まずに馬を走らせること半日、ようやく監獄の街が見えてきた。異変に真っ先に気がついたのはエディの麾下である痩躯の男だ。
「街が、燃えている」
 震える声で言った痩躯に、鉤鼻の男が顔をしかめる。
「くそっ、間に合わなかったか」
  誰もがそう思った。
「いえ、そうとはかぎりません」
 ところが、エディが指摘する。指差したその先を、レオナも見つめる。
「炎の色を見てください。赤々としている。すべてを燃やし尽くしたのなら、あの色にはなりません」
「だが、早く救助しないと助からないのではないか?」
 そのとおりです。エディが馬の腹を蹴る。痩躯と鉤鼻がエディのあとに付いて、レオナも彼らに置いて行かれないように馬を走らせた。
 南門へと着いたとき、教会の鐘が鳴りつづいていた。
 炎の熱気がここまで伝わってくる。この街に駐在する騎士たちがイスカの戦士を食い止めて、辺境を任された貴族は住民の避難を急がせているはずだ。まだ、おわりじゃない。そう、信じたいのに恐ろしさにレオナは身体が震えるのを抑えきれずにいる。
 馬たちが炎を怖がって暴れ出した。エディは皆の顔を見てうなずき、そしてここまで乗せてくれた馬を野に放った。あれは軍用に育てられた馬たちなので、きっと後衛部隊のもとに戻っただろう。
「エディ、どうする?」
 鉤鼻がエディに囁く。彼が考えあぐねている理由はふたつ、イスカの戦士と戦うかもしくは住民の救出を優先するべきか。しかし、炎の勢いはすさまじい。北へと迂闊に近づけず、となればどこでイスカの戦士を食い止めているのか。
「とにかく、状況の説明ができる者を捕まえましょう」
 中心部へと進めば、住民たちが蜂の子を散らしたように逃げ惑っていた。
 避難誘導が行き届いていないらしく、女子どもも怪我人や病人、それに老人たちも逃げるのに必死だ。男たちはイスカと戦うために戦場に駆り出されている。消火活動などまるで追いついていない。これでは、ここが落ちるのも時間の問題だ。
 泣いてはならない。レオナは拳を作りながら、自分へと言いきかせる。
 幼なじみが怒っていた理由がいまになってわかった。騎士団長オーエンも軍師セルジュも何もわかっていない。ブレイヴがそう言った本当の理由、一番理解していなかったのはレオナ自身だ。
「エディ様……!」
 エディを呼び止めたのは教会の司祭だった。ウルーグ王家に縁があるらしく、彼の正体を知っているわずかな人物だ。
「い、イスカが……、この街を!」
 息も絶え絶えに逃げてきたのだろう。身体を丸めながら咳き込み、それでも涙ながらに訴える。
「イスカはいきなり火を放ったのですか?」
「わ、わかりません。しかし、イスカの戦士が攻めてきたのは本当です。火は、そのすぐあとに……」
 胸へと倒れ込んだ司祭の身体をエディは起こしてやる。他の聖職者たちは避難できたのだろうか。治癒魔法に長けた教会関係者たちには、これからあとやるべきことがたくさん残っている。
「敵は、まだ北にいるのですね?」
 意図が掴めずに司祭はエディの顔を見た。
「だめだ、エディ」
 鉤鼻の男がエディを止める。痩躯の男は声を発しなかったが、鉤鼻に同意する表情だった。
「い、いけません、エディ様。あそこにはとても、近づけません!」
 司祭がエディに縋りつくようにして叫ぶ。
「教会から、私は炎を見ました。あれにはとても近づけない」
「あの炎は、生きているんだわ」
 皆の視線がレオナへと集まった。炎が近づいてくるのがわかる。踊る炎。魔力によって作られた炎が、この街を焼き尽くそうとしている。
「近づいてはいけない。あの力は、」
 そのとき、突然腕を強く掴まれた。うしろへと引き戻されたレオナはディアスを見る。幼なじみの目は司祭を捉えている。おなじく、エディの麾下ふたりが司祭へと飛びかかった。
 なにが起こったのか。理解するまでに時間が要った。鉤鼻の男の剣が司祭の銀の法衣を貫く。痩躯の男が背でエディを庇う。それが、同時だった。
 血が噴き出すはずの司祭の身体からは銀の法衣だけが残った。中から飛び出したのは子どもだ。空中でひらりと舞い、そうして地面へと降り立つ。その《《色》》を目にしたとき、レオナの背筋は凍り付いた。
「あなたは……」
「なあんだ。もう、ばれちゃったんだ」
 無邪気な子どもの声だった。エディが痩躯の男の名を叫んでいる。
「なあんで気づいちゃったのかなあ。これからが、いいところだったのに」
「司祭の頬には黒子ほくろがあった。お前にはそれがない」
 はっとして、レオナはディアスを見あげた。教会で司祭と会ったのは一度きり、けれども幼なじみはそれを見逃さなかった。
「そっちの二人も優秀だね。もっとも、もう一人だめみたいだけど」
 痩躯の男は司祭からエディを引き離した。一瞬だったと思う。その刹那、すでに攻撃を受けていたのだとしたら――。あり得るかもしれない。この少年は、オリシスのアルウェンを屠り、シュロとイスカの戦士たちを惨殺した白の少年だ。






 


 息が苦しいのは炎が迫ってくるせいだ。震えが止まらないのは、怖れと驚愕に心が支配されているせいだ。
 レオナは瞬きを繰り返す。幻想なんかじゃない。この炎の熱さは本物だし、視線の先で微笑む少年を見まちがえるはずもない。白の少年が嗤っている。あのときとおなじ表情をしている。オリシスのアルウェンを殺したときとおなじ、だからレオナはいま自分のなかにある一番強い感情が、怒りなのだと認めていた。
「司祭は、どうした?」
 痩躯の男を抱きしめながら、エディが言う。白の少年は首を傾げた。
「《《どれ》》のこと? みんなきみのことを呼んでいたからわからないな」
 あどけない少年の顔をして、残酷なことを平気で言う。
「面白いよね。ウルーグの王子がここに来るって保証なんてないのに。それでもおなじ台詞を繰り返すんだもの」
 エディ様がきっと来てくださる。それまで持ち堪えるんだ。イスカと闘いながら、あるいは突然介入したもう一人の敵から逃げながら、聖職者たちが声を揃える。ここからでは見えなかったが、すでに教会は落とされているのだろう。神聖なる礼拝堂を炎が呑み込んでいく。生々しい幻影が見えた気がして、レオナは胸を押さえる。
「でも、やっぱりお前は戻ってきたんだ」
 青玉石サファイア色の瞳がレオナを射貫いている。そうだ、本当は気づいていた。月の見えない夜にレオナはたしかに魔力を感じていた。惨殺されたイスカの戦士たち、襲われたレナードたち。監獄を隈なく調べ、街のなかも余すところなく少年の影を追った。それでも少年の姿は捉えられなかった。それなのに、いま白の少年はレオナの目の前にいる。
「あなたは、なに?」
 雪花石膏アラバスターのように滑らかな肌、真っ白な髪、瞳の色だけが異様に青く美しい少年と対峙するのは二度目だ。彼の狙いなんてわからない。幼なじみは目的そのものを感じられないと、そう言っていた。
「イスカに加担して、この街を壊して。なにが、したいの……?」
 すっと、白の少年の笑みが消えた。言いながら矛盾している自覚はあった。この少年がウルーグの敵となるのなら、イスカの俘虜を殺したりはしない。
「あなたは、だれ?」
 レオナは繰り返す。レオナと白の少年以外、声を封じられているかのように黙りこくっている。強い魔力に抗えるのはおなじくらい異端な力の持ち主だけだ。
「当ててごらんよ」
「なんですって?」
「どうだっていいけど、あんな奴らに与しているだなんて思われるのは、不快だな」
 赤い炎が白の少年を取り巻いている。来る。レオナは口のなかでつぶやく。そして――。
「お前とおなじ、バケモノさ!」
「みんな、逃げてっ!」
 ありったけの声は届いただろうか。いや、そんなものが間に合ったところで何の意味もなかったのかもしれない。あの炎は具現化した魔力の塊、そうして膨れあがった力が暴発する。竜だ。誰かが叫んでいた。レオナもたしかにそれを見た。踊る炎が竜を描いている。それはレオナたちへと襲いかかってくる。
 あまりの恐ろしさに目を閉じようとしたそのとき、視界に光が弾けた。
 身体を吹き飛ばされるような強い衝撃に耐えきれず、レオナはその場に倒れ込む。なにが起こったのだろうか。爆発音はたしかにきこえた。すさまじい勢いの火焔に襲われたのも幻想とはちがう現実だ。それなのに、レオナの身体は燃え尽くされてはいなかったし火傷の跡すら見えない。レオナは辺りを見回して、皆の無事を確認する。すぐ傍にはディアスが倒れている。すこし離れたところにはエディと鉤鼻の男が、痩躯の男の身体も炎に焼かれてはいなかった。
 なにが起こったのだろう。あの瞬間、声を出すだけで精一杯だった。魔法障壁を作り出す間なんてなかった。それなのに、レオナはまだ生きている。
「レオナ……」
 ディアスが呼んでいる。応えようとして、右手に激痛が走った。
「なにが、起きたの?」
 痛みに喘ぎながらレオナは幼なじみを見る。ディアスは目顔でレオナの右手を見るように指示する。途端にレオナの息が止まった。右手の薬指には母が残してくれた指環があったはずだ。
「かあさま……? まもって、くれたの?」
 一筋の涙が零れた。祈りの言葉が刻まれた指環には魔力が込められていた。でも、レオナの右手にはもうそれがなかった。うまく働かない頭でレオナはやっとそれを理解する。祈りの指環、発動した魔法壁がレオナたちを守ってくれたのだ。
「ふふふっ、そうでなければ面白くない」
 白の少年が近づいてくる。片手を掲げて、今度は氷の刃を作り出す。もう、レオナを守ってくれるものはなにもない。エディたちはまだ起きあがれない。じゃあ、どうすればいい? 自問自答するレオナに声がきこえる。それは亡き母の声だったのかもしれないし、ちがう誰かだったのかもしれない。
 たたかえ、と。レオナに囁く声がする。
「もっとたのしませてみなよ」
 白の少年が嗤っている。氷の刃が一斉に降り注ぐ。咄嗟に魔法壁を作ろうとしたが遅かった。しかし、痛みを覚悟したレオナを庇っていたのは幼なじみだ。
「ディアス! どうして……」
「問題ない」
 嘘だ。レオナは口内を噛む。幼なじみの背中には無数の刃が突き刺さっている。氷の刃は魔力を持ち、攻撃対象者から生を奪うまで消えてはくれない。それなのに、ディアスはまだレオナを庇おうとするし、立ちあがって剣を構えている。
「ディアス、やめて」
 声は届かない。それは、彼が騎士だからだ。ディアスの剣が白の少年を捉えたように見えたが、刃から逃れた少年の身体は中に浮かんでいる。やめて。レオナの声は叫びにはならない。あの少年は幼なじみも殺すつもりだ。
「ねえ。炎に巻かれて死ぬのと、氷の刃に貫かれて死ぬのとどっちがいい?」
「どちらもごめんだな」
 白の少年が嗤っている。お願い、間に合って。レオナは光を作り出す。涙が零れそうになる自分を叱咤して、もっと意識を集中させる。なにもわかっていなかったのはわたしだ。こんな力を持っていても、誰も守ることなんてできない。
 レオナの作り出した雷が届くより先に、弓矢の一斉攻撃がはじまった。
 エディ、それに駆けつけたのはエディの弓部隊だ。
「レオナ。あなたは、皆を守ってください」
 エディも彼らも、魔力を防ぐ方法がない。ディアスの剣も一斉に放たれた矢も、白の少年には届くまえに弾かれている。白の少年は自身を守る魔法壁を作りながら、炎を操り、そして氷の刃で攻撃してくる。《《普通の人間》》にそれができるだろうか。答えは否だ。
 じゃあ、どうすればいい? 
 レオナはふたたび自分へと問いかける。異端な力に対抗できるのはその力を持つ者だけ、解放すればいいのだとそうレオナに嘯く声がする。レオナは立ちあがり、白の少年を見据える。ディアスの剣をまるで踊るみたいに白の少年は躱している。一斉に襲ってくる矢の攻撃も少年の肌へと届く前に、魔法壁に弾かれる。
「みんなをまもるために、この力を使うのならば」
 そうだ。人間でなければいい。あれほど厭わしいと思っていた力が、いまはこんなにも望ましいと感じている。奪おうとするのなら守るだけだ。守るためには力が要るのならば、引き出せばいいのだ。欲すればいいのだ。そのために、たたかうことを選んだのだから。
「わたしは……、」
 レオナの魔力に気づいたのだろう。白の少年が風の刃で皆を吹き飛ばした。レオナは幼なじみへと駆け寄る。ディアスの背にはまだ氷の刃が刺さったままだし、いまの攻撃で皮膚がずたずたに切り裂かれている。
「だめよ、ディアス。もう動かないで」
 レオナがどんなに叫んでも幼なじみはきっと最後まで戦う。一刻も早く治癒魔法をはじめるべきだとわかっていながらも、レオナはそれを躊躇っている。赤い炎が地面を這うようにして近づいてくる。ためしているのだと、レオナは気がついた。いまから魔法障壁を作り出しても間に合わないし、それでも皆は助からない。だとしたら、レオナが選ぶのはひとつだけだ。

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