四章 ラ・ガーディア−四葉の国−

かの王女のためのピアノ曲

 紡がれていた旋律はぴたりと止まった。
 幻想曲ファンタジアとも小夜曲セレナーデとも異なるその旋律は、もの悲しくも美しい鎮魂歌レクイエムだ。
 彼女は鍵盤に指を触れたまま、しばし過去を振り返る。大広間には鍵盤楽器クラビーアが設置されていて、王族の子どもらは教育の一環として音楽を習わされた。音楽教師は相手が子どもでも容赦がなく、すこしでも音色がずれたり曲調に乱れたりすると手を引っぱたく。エリスはこの音楽教師が大嫌いだった。
 ところが、エリスよりも四年あとに音楽をはじめた弟はいつも褒められていた。
 生真面目で真正直な弟のエディはあっというまにエリスを追い越してしまったし、強要された時間が嫌いではなく、むしろ音楽そのものが好きだったようだ。そのうちエリスは大広間には近づかなくなり、鍵盤に触れたのも本当にひさしぶりだった。
「意外と早かったわね」
 足音を認めて、エリスは声を落とす。開け放たれた大広間には扉がないので誰でも自由に出入りできる。それなのに律儀にエリスの声を待っていたのかもしれない。
「下手くそな音色がきこえてきましたので」
「ずいぶんな言い草ね。これでも練習したのよ」
 それはいつの話ですか。ともすればエディのため息が返ってきそうだった。
「今日は調子が悪かったの。ここは冷えるし、指がうまく動かない」
「誰にでも得意不得意はあるでしょう。姉上には向いていなかっただけです。それに、私はあなたに乗馬と弓を教わりました」
「そうだったかしら?」
 エディは微笑しながらこちらへと近づいてくる。嘘ばっかり。馬も弓だって私よりもずっと上手くなったのはあなたでしょう?
 席を空けるように促されたらすぐに立ち去るつもりだった。けれど、エリスはまだ動かないまま、こうして弟と話せる機会を逃してしまえば次に会うのはいつになるかもわからない。
「騎馬部隊、歩兵部隊ともに準備は整っております。あとは明朝、先発部隊の出発を待つだけかと」
「そう」
 だから早く休めと、そう言いたいのだろう。エリスが率いるのは騎士団の本体、後衛に陣を敷いたとしてもイスカの獅子王は他には目をくれずに、真っ直ぐに本陣を狙ってくる。いくら策を講じたところで無駄だ。イスカはウルーグの滅亡を望んでいる。
「城を空けることに不安を感じているのでしょう?」
 エリスは目を瞠った。いまさら何を言っているのだろうと、そう思った。
「魔道士部隊と騎馬部隊をすこし残していきます。本陣を突破されたらもう後がない。わかっているでしょう? エディ」
「ここに残したところで戦える者がいなければおなじです。せめて、宰相がいれば」
 エディらしくない声だ。エリスは失笑しそうになった。
「あなたもオーエンとおなじことを言うのね。もううんざり。何を言われようと、明日私は先頭に立って皆を率いる。そして、イスカと戦う」
 ひと月前のエリスならば絶対に落とさなかった言葉だ。イスカの獅子王へと宛てた密書はとっくに届いているはずで、しかしエリスの声など何の意味もなさなかった。すでに希望は断たれてしまったのだ。シュロと、イスカの戦士たちの死によって。
「それに、私だけがここに残っていてどうするの? 安全な場所なんてどこにもない。なによりも、王女である私が剣を持たなかったら、もう誰も私を次の王だと認めてくれなくなる」
 かつてウルーグで叛乱を起こした伯父はいない。女の王を認めるしかないのだと、誰もがわかっているはずだ。
 エリスは膝の上で作っていた拳を開いた。鍵盤をたたくにはそぐわない荒れた手の平だ。繊細な旋律を奏でるよりも剣を持っている方がずっと似合っているのではないかと、エリスは思う。いや、そうあるべきなのだ。エリスはこの国の王なのだから。
 居心地の悪くなるような長い沈黙が訪れていた。病に倒れて伏したままの父王と交わせた会話はすこしだけ、すっかり弱ってしまった父王はエリスの声に微笑んでくれた。お前は間違っていない。そう、言ってくれたような気がした。
「それが、本当に姉上の本心なのですね?」
 しかし、エディはどこかで見抜いていたのかもしれない。強がりも嘘も弱さもぜんぶ、一番近くでエリスを見ていたエディだからこそ、心の奥を見抜かれている。
「なにが言いたいの?」
「たしかに、戦場で王女自ら騎士団を率いれば皆の士気も高まるでしょう。ですが、本当にその先を考えているとは思えません。イスカはウルーグを許さない。たとえスオウを食い止めたとしても、あなたが倒れては意味がない」
 エリスはエディの目を見つめた。普段は穏やかな翡翠色の瞳が冷たい光を宿していている。ああ、そうか。弟は怒っているのだ。
「……それで?」
「私を、本陣に加えてください」
 思わず笑ってしまった。けれどエディは本気だ。
「あなたを後衛に残すのは皆の総意です。いま頃になって子どもみたいなこと言わないで」
「スオウ以外のイスカの戦士たちを食い止めるのも、たしかに重要な役割でしょう。ですが、私以外にも適任者がいるはずです」
 話がうまく噛み合わないのはどうしてだろう。一方が冷静で、もう一方が感情的になっているせいだ。
「姉上は私を生かそうとしている」
「あなたが死にたがっているからよ」
「聖騎士殿とおなじ声をするのですね」
 では、誰の目からもそう見えるのだ。先に生まれた兄や姉を支えるために弟や妹が存在する。嫡子とならばなおさら、姉の代わりに弟が戦って死ぬ。
「姉上は自分が死んでも構わないと、そう思っている。ウルーグにはまだもう一人がいると、そう考えている」
 けれども、エディは反対のことを声にする。
「伯父上をこの手で殺したことを後悔していません。ウルーグに仇なす者は私が射殺します。姉上は、自分の代わりに私が自らの手を汚したと、そう思っているのでしょうね。それこそ、間違いだ」
「エディ、私は」
「俺は、あなたの代わりにはなれません。この国の跡を継ぐのは姉上だけです」
 ききたくなんてなかった。耳を塞いでかぶりを振って、ここから逃げ出してしまえばよかった。でも、それでは後悔する。こんな物別れしたままでは、ふたりはきっと帰って来られなくなってしまう。
「逃げないでください」
 子どものときからエディは泣かない子どもだった。泣いてばかりいた姉を見ていたせいだ。四つ下の弟エディ。そのちいさな手を握ったとき、守ってやらなければならない存在だと、エリスはそう思っていた。それなのに、いつのまに反対の立場になってしまったのだろう。エリスは下唇に歯を立てる。泣いてしまっては、また失望されてしまう。
「誤解しないで。あなたを、後衛部隊に置くのはウルーグのため。聖騎士の軍師が言ったでしょう? 要所の守りが要だと」
「信じてよろしいのですね?」
 騎士団長オーエンよりも、重鎮たちよりも宰相よりも誰よりも、エディはエリスに厳しい。
「死ぬつもりなんてないし、負けるつもりもない。だからこそ、あなたに戦ってもらうの」
「でしたら、めそめそせずにちゃんと王女の声で言ってください」
 幼い頃から仲の良い姉弟、騎士団長も他の侍従たちもエリスとエディをそうやって見守ってきた。およそ喧嘩などしたことのない姉弟だと。そんなことない。一番近しいふたりだからこそ、互いの心を隠す必要なんてなかった。
 エリスは袖で目元を拭って席を立つと、エディと向かい合った。まるで感情のない表情、騎士ではないエディだが弟はその役目に徹している。
「戦いなさい、エディ。ウルーグのために。この私のために」
「仰せのままに」
 エディは膝を折り、エリスの声に応えた。
 
 
 
 





 しばらく止まっていた旋律が、ふたたびはじまった。
 音楽には疎いブレイヴに曲名などわからなかったが、晩餐会で流れる円舞曲ワルツや子どもを寝かしつけるときの子守歌ララバイとも異なるのはわかる。では、あれは練習曲エチュードなのかもしれない。それとも重なり合う音色が美しい追走曲カノンか。
 西の塔へと戻るつもりだったのだろう。彼女は回廊の途中で足を止めて、次々と変わってゆく豊かな旋律に耳を傾けている。
「あれはきっと、エリスとエディだよ」
 レオナが振り返った。
「きっと、仲直りしたんだと思う」
「あのふたりでも喧嘩をするのね」
 姉弟きょうだいならば喧嘩のひとつくらいはする。他に兄弟のいないブレイヴはともかく、レオナには兄も姉もいる。王都マイアを離れて城塞都市ガレリアへと向かうように言われたときに、幼なじみは実の兄と物別れしたのだとそう言っていた。
「ごめんなさい。逃げたのは、怒っていたわけじゃないの」
 ブレイヴの目をちゃんと見る前に幼なじみは白状する。謝るべきはこちらだとそう思った。
「レオナ。あれは、」
「使ってください」
 まじろいだブレイヴをレオナは見る。青玉石サファイア色の瞳がすこし揺れている。
「あの白の少年が関わっているのでしょう? レナードとノエルは助けることができたけれど、次は間に合わないかもしれない」
「彼が関与しているのだとしたら、最初からイスカは彼を使っているしウルーグはイスカに負けている」
 目的など不明な白の少年の行動は不可解であり、その力もまた脅威だとブレイヴも認めている。ウルーグの魔道士部隊の力など当てにはできない。そんなこともわかっている。
「アステアと一緒にセルジュを捜していたのは、軍師に名乗り出るつもりだった。……そうだね?」
 騎士団長オーエンも軍師セルジュも、そのひとつの可能性に脅威を感じている。たしかに、あの異能な力がふたたび現れたらウルーグもイスカも混乱するだろう。主力である本体がやられることだって考えられる。
「だとしても、きみをそんな危険なところへと連れてはいけない」
 幼なじみは開きかけた唇を閉じた。さっきのやり取りを皆まで見ていたくらいだ。こう返ってくることくらい想定内だったはずだ。
「セルジュもオーエンもどうかしている。……みんな何もわかっていない」
 戦場がどういう場所くらいか理解している側の人間だ。なぜ、それを彼女に求めるのか。どう考えてもおかしい。でも、そのなかに幼なじみも含まれている。ブレイヴはそれをあえて声にする。
「剣も持てないきみができることなんて、何もない」
「人を殺したことがあるのははじめてじゃない。わたしは」
「その力は使ってはいけない」
 ラ・ガーディアへと向かう途中で約束をした。レオナはあの力を使わないと、そう言ってくれた。いつも自分にとって都合の良い言葉ばかりを並べている。レナードとノエルを救ったのはレオナの力だと認めているはずなのに、どうにも矛盾している。はたして、管見にとらわれているのはオーエンやセルジュ、またはレオナとアステアなのだろうか。
「きみの力は使ってはいけない。ましてや、戦場で自分の身を守るためだとしても、魔力を発動させてはならないんだ。きみだけじゃない、アステアだってそうだ」
「エリスの訴えなど、イスカはきいてくれなかったのに……?」
 ブレイヴはうなずく。
「シュロとイスカの戦士たちを屠ったのはウルーグには関係のない人間だと、奴らは認めてない。きみたちの魔力は戦場では逆効果だ。イスカはウルーグをけっして許さない」
 鍵盤楽器の曲調がまた変わった。ゆっくりと紡がれるその音色は夜想曲ノクターンだろうか。
「わたしに、なにができる?」
 泣きたいのを堪えているように、幼なじみは笑みを作ろうとして失敗した。手を伸ばして抱きしめて、自分の帰りをただ待っていてほしいと訴えたならきっと彼女は涙を零すだろう。なにをそんなに思い詰めているのか、ブレイヴには痛いほどわかる。オリシスのアルウェン、サリタの孤児の少年。救えなかった命は他にもある。
「エディに付いてやってほしい。彼は後衛部隊として要所の守りに就く。傷つき倒れた騎士たちが運ばれてくるし、街が襲撃されたら住民たちを避難させないといけない。やらなければならないことは、たくさんだよ」
「……わかった。それに、エディが無理しないように、ちゃんと見張っていないといけないのね」
 ブレイヴは苦笑する。言えば彼は怒ってしまうかもしれない。でも、ウルーグの鷹はブレイヴからしたらまだ子どもだ。選択を間違ってしまわないように、導く者が必要だ。
「ぜんぶ終わって帰ってきたら、あの曲の名前をきいてみようか」
 幼なじみはうなずいて、それから今度は自然な笑顔で応えてくれた。


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