四章 ラ・ガーディア−四葉の国−

三つの敵

 三日三晩つづいた雨があがった。
 軍議室では王女エリンシアと騎士団長オーエンを筆頭に議論が繰り返されていたが、それもようやく終わったのだろう。
 机上に広げられた地図を皆がのぞき込む。要所となる砦に近隣の集落の守りに、地形の再確認もけっして怠らない。地学や天候に明るい学者までも呼び寄せたところで、軍議室は人で埋め尽くされてしまった。クライドはため息を落とすと、そこから逃げ出した。
 軍議室には入れない少年騎士らが、忙しなく回廊を行き来している。
 糧食の手筈に武器の手入れ、馬丁とともに馬の準備に忙しい彼らはただ出陣の許しが出るのを待つだけだ。あまりに急いでいたためか、そのうちの一人がクライドとぶつかった。クライドよりも頭ふたつ分もちいさい少年騎士は尻餅をつく。謝罪の声を口にしようとして目に映った褐色の肌に、少年騎士はおののいた。
 回廊の端から怒鳴り声がする。少年騎士の上官だ。何をしている、早く来い。我に返った少年騎士は慌てて起きあがり、それからクライドに一揖して去って行った。
 なるほど。肌の色を見て、イスカを連想したらしい。クライドはふたたびため息をする。これで本当にイスカと戦えるのだろうか。
 イスカが動き出したのは本格的に冬がはじまる前だった。
 ウルーグの北部ならばともかく、この王都に雪が積もるのはめずらしいようで、しかしその日は橙色の三角屋根と石畳の大通りはまたたく間に白く染まった。白銀の世界は長くつづかずに、そのうちに雨へと変わる。軍議室の明かりはまだ付いている。疲れ切った王女らが部屋から出てきたのは、報告を受けてからじつに七日が過ぎていた。
「クライドさん!」
 呼び止められて足を止める。見覚えのある顔がふたつ、赤髪のレナードとくせっ毛のノエル。三日前にクライドが見舞いに行ったときには、二人とも安静を告げられていた。
「ああ、よかった。まだここにいた。実はちょっとお願いがあって、」
「断る」
 レナードがまじろぎ、ノエルは彼を小突く。
「あの、まだ何も言ってないんですけど」
「先発隊には加えられない。どうしてもというのなら、ブレイヴに許可をもらってからにしろ」
 二人は顔を見合わせた。大方、それが不可能だったから直接言いに来たのだろう。もしくは、掛け合って軍師にでも大目玉を食らったか。どちらでもいい。クライドは二人を連れて行くつもりなどはじめからないのだ。
 アストレアの騎士二人は線が細い。二人もその自覚があるようで、とにかくよく食べる。そしてよく寝る。身体の不調も一日で治るのが自慢だと言い張っていた。
 クライドははじめにレナードを見た。駆け寄ってくるときに、左足を庇うような歩き方だった。隣のノエルもおなじようなものだ。きゃんきゃんと吠え立てる子犬のように五月蠅いレナードよりは静かだが、今日のノエルは顔色が悪い。
 だが、無理もないとクライドは思う。
 いま、ここで会話しているのが不思議なくらいだ。監獄の街にてレナードとノエルは何者かに襲われた。すでに殺されていたイスカの戦士たち、かろうじて二人が助かったのは駆けつけた時間が早かったからか、それとも暗殺者の気まぐれかわからない。重傷を負った二人を助けたのはレオナの治癒能力だ。 
 彼女の力を目にしたのは三度目、しかし畏怖すら感じたのははじめてかもしれない。ずたずたに切り裂かれて肉の下の骨まで見えていた傷も、多量の出血すらも《《なかったこと》》にしてしまうほどの魔力。確実に訪れていたはずの死、その魂を冥界から引き戻した竜の力は、その身に魔力を宿さないクライドからしても異端そのものだ。
 突然闇に襲われて意識を失い、そのまま五日も眠ったままだったというのに二人とも自分の足で歩いているし、あわよくば参戦するつもりらしい。クライドは心中でもう一度ため息を吐く。このふてぶてしさを咎めていたジークは苦労していたと思う。
「わかったなら、諦めろ。俺はもう行く」
 まだ何か言いたそうにするレナードを無視した。見習い騎士二人の行動を密告するべきかどうか迷ったものの、軍師の怒りの矛先がこちらに向かっては堪らない。とはいえ、あの様子では何をしでかすかわかったものじゃない。二人とは同郷であるルテキアには伝えておくべきか、そう考えてクライドは西の塔を目指した。ところが、また一人クライドを呼び止める者がいた。
「ああ、ちょうど良いところに」
 白皙の聖職者だ。珍しく急いでいたためか、白金の髪がやや乱れている。なにか嫌な予感がしたものの、クライドを捕まえたクリスは笑顔でこちらへと近づいてくる。
「なにか、用か?」
「ええ、捜しているんですよ。お二人を」
 レナードとノエルだ。クライドは口のなかで零す。クリスはにこにことしている。
「絶対安静だと伝えましたよね? 一番軽傷だったデューイさんは大人しく寝ているのに、どうして勝手に動き回るんでしょう?」
「俺に言われても」
「レオナさんの力は完璧です。ですが、傷が癒えたとしても身体は十分に回復していない……。急に倒れられても困りますからね」
「だから、なんで俺に」
「ロッテもよく頑張りましたし、アステアさんもたくさん手伝ってくれました。二人ともようやく休めたところです。……わかりますよね?」
 どうやら、クリスはものすごく怒っているようだ。艶美な笑みをした仮面の下は覗いてはならない。クライドは目顔でうしろへと誘導する。いまなら、まだ二人もそう遠くへと行っていないはずだ。
「ありがとうございます」
 目はまるで笑っていなかったので、クライドはぞっとした。これは早々に退散するのが賢明だ。
「ああ、クライドさん。すこしだけいいですか?」
 まだ何かあるのか。不承不承にクライドはうなずく。そういえば、白皙の聖職者が一人でいるのはめずらしい。クリスには主人がいて、だいたいいつも一緒にいる
「出立は明朝だと伺いました。先発隊のあとに伏兵部隊もつづきます。ですから、」
「わかってる。あいつらを連れて行くつもりはない」
「もちろんです。レナードさんとノエルさんは、寝台に縛り付けてでも行かせません。そうではなく……、気に掛けてやってはくださいませんか?」
 誰を、と。クライドは開き掛けた唇を閉じた。クリスは微笑する。彼女が傍にいない意味がわかった。
「まさか、あいつも出るのか?」
「そのために、ウルーグに来たのですから」
「あいつはブレイヴの監視役じゃなかったのか?」
 それもありますけど、クリスは否定をするつもりはないようだ。
「聖騎士殿はここまで来て逃げたりしないでしょう? フォルネの王ルイナス陛下がフレイア様に命じたのは、もうひとつ」
「ウルーグに加担して戦場で戦えと?」
 耳に心地良いアルトの声音、紡がれる言葉は聖職者とは思えないほど現実的で、どこか他人行儀にもきこえる。
「ウルーグには借りがありますので」
「フォルネの王としてではなく、ルイナス個人の話だな?」
「はい。フレイア様は幼少の頃、ウルーグに預けられていました。話すと長くなりますので陛下に伺うのが一番かと」
 クライドは首を横に振る。事情を知りたいとは思わないし、むやみに関わりたいとも思わない。どうやら、あの王女は戦える側の人間のようだ。アストレアの三人組をたった一人で打ち負かせたという噂もきいている。だが、どうにも腑に落ちない。あんな華奢な娘の腕でどうやって戦うというのか。
「守ってやってはいただけませんか?」
 頼む相手を間違っている。クライドはそう思った。
「俺は騎士じゃない」
「知っています。でも、だからこそあの方を見失わずに済むと思うんです」
 ブレイヴはエリスとともに前線に行く。エディは要所の守りを任される。他に適任者はいない。そう言いたいのか。
「心配はしていません。フレイア様は強いです。死を、恐れているからこそ負けはしないし、必ず私のもとに帰ってきてくださいます。でも……」
 クライドは黙ってそのつづきを待つ。
「傷ついてぼろぼろになったあの方を治して差しあげるのが私の役目。それでも、傷ついてほしくないと願うのは、わがままでしょうか?」
「いや……」
 自分には帰りを待つような人間はいなかったが、その気持ちはわからなくもない。誰だって家族や兄弟、親しい友や恋人、あるいは主君の無事を願う。ブレイヴや他の連中と長くいるせいか、思考まで騎士に似てきたのかもしれない。
「約束はできない。だが、努力はする」
 
  
 


 

  
 

 雨あがりの裏庭では濃い緑のにおいがする。
 最初に集まったのは少年騎士たちだ。隊列を乱さないようにと、上官の声に素直に従っているし私語も交わされずにじっとそのときを待っている。これが初陣となる者もいるのかもしれない。彼らは若く、純真だ。これから王女エリンシアと騎士団長オーエンが彼らの前に現れる。激励を受けて、若い彼らは勇気と希望を胸に戦地へと赴く。誰もウルーグがイスカに負けるなど思っていない。そういう顔を、彼らはしている。
「こちらの手筈は整っております」
 ウルーグの騎士たちからすこし離れたところで、ブレイヴは彼らを見守っていた。いつのまに来たのだろう。隣には騎士団長オーエンがいた。
「皆はあなたを待っているのでは?」
「殿下がまだお見えになりませんので」
 では、何の話だろうか。すぐに合点がいった。
「我らが戦う相手はイスカの獅子王だけではない。官吏たちもようやく認めたのです」
「編成部隊を細かくわける攻略に、あなたも反対されていたでしょう?」
「致し方ありません。イスカの内紛が生じているのなら、敵は獅子王本陣の他を無視するわけにはまいりませんし」
 そういう話だったでしょう? と。オーエンの碧眼がブレイヴを射貫いている。
「シュロが生きていたならば、もうすこし内部情報が手に入ったはずですがね」
 ブレイヴは騎士団長オーエンから視線を外す。シュロの死がなかったなら、ここまで戦いの準備はしていなかったし、ウルーグとイスカのあいだに和平がもたらされている。
「イスカの異分子はエディが引き受けてくれる。心配しなくとも、私はあなたとともに出陣するし、エリスの傍にいる。……そのつもりです」
「頼もしい限りです。ですが先だって申しあげたとおり、我が魔道士部隊は動かせません。殿下の護衛と王都の守りに徹する、それ以上はとても」
「では、あなたは何を期待されている?」
 ようやく終わった軍議の場でも可能性としては拾ったものの、具体案は通らなかった。イスカの他にも敵がいる。議題にあがったところで対抗策は白紙のままだ。
「イレスダートには名うての魔道士が多数存在すると、そうきいておりますので」
「そんな者はここにはいない。あなたはなにか誤解している」
「しかし聖騎士殿の他にも、その《《白の少年》》と相対した者もいるのでしょう?」
 すべてを見抜いたような冷笑に、取り合うだけ時間の無駄だとブレイヴは思った。
 俘虜となったイスカの戦士たち、しかしシュロを含めた戦士たちは皆イスカへと返す。《《あんなこと》》が起こらなければイスカの獅子王は動き出さなかったはずで、ウルーグにしても交戦のあれは禍事だったと認めざるを得ない。事情を皆まで話す必要があったためにブレイヴは王女エリンシアに白の少年の存在を明かした。オリシス公暗殺には触れずに、ただその危険な存在と関わったのは二度目だった。
 騎士団オーエンが呼ばれた。王女エリンシアの演説がはじまる。最後まで見届けずにブレイヴはその場から離れる。また捕まって噛み合わない会話を繰り返すのは不毛でしかない。
「オーエンの言葉は、正しいと思いますね」
 西の塔へと戻ろうとしたブレイヴの足が止まった。
「セルジュ、お前だな」
「濡れ衣ですね。騎士団長殿は彼らの見舞いに行っていたそうですから」
 悪びれる風もなく軍師は言う。面会謝絶、ブレイヴですらレナードとノエルの二人が目を覚ますまで入れてもらえなかった。白皙の聖職者はやんわりと騎士団長を追い返したのだろう。それでもオーエンの耳に届いていたのなら、いったい《《誰が》》二人を治したのか知りたがる。治癒魔法の使い手でもクリスやシャルロットは戦えない。では、もう一人を戦場へと担ぎ出すつもりだったのか。ブレイヴは意識して呼吸をする。
「彼は王女に懸想しているのですよ。だからこそ、王女を守るために厭わない。自分の手を汚そうが、どんな手を使っても守ろうとする。まあ、半分はウルーグのためだと思いますが」
 たしかに、いま考えればその言動も矛盾していなかった。オーエンは時として必ずしもエリスの味方とはならずに、むしろ逆のように思えた。
「あなたとおなじ人種の人間です。彼を否定するなら、いわゆる同族嫌悪というやつですね」
 一緒にされたくはない。それに、セルジュはブレイヴの傍に戻ったばかりの人間だ。これまでのくだりをすべて話したのが、そもそも間違いだったのかもしれない。とはいえ、セルジュに死を選ばせずに自分の傍に置いたのはブレイヴ自身だ。
「ウルーグはただでさえ不利だというのに、それも三番目が現れてしまっては勝てるものも勝てなくなる。あなたにだっておわかりでしょう?」
「白の少年がふたたび現れるとはかぎらない」
「そんな得体の知れない存在が、関わっていることがまず脅威なのです」
 相変わらず物をはっきりと言う軍師だ。しかし、あちらもおなじだったのだろうか。セルジュはずっと真顔でいる。
「甘いお方だと思っていましたが、ここまでとは。理想だけでは戦争は終わりません」
「オーエンもお前も、言っていることがおかしい。どうして彼女の力を利用する? なぜレオナでなければならない? 戦場になど、連れて行けるわけがない」
 あっ、と言う声がきこえたのはそのときだった。ブレイヴとセルジュは同時に振り返る。魔道士の少年と、うしろに隠れるようにしていたのはブレイヴの幼なじみだった。
「どうして……」
「ご、ごめんなさい。その、きくつもりはなくて」
 ブレイヴの声に先に答えたのはアステアだ。幼なじみはブレイヴの目を見る前にそこから走り去ってしまう。
「……早く追いかけた方がよろしいのでは?」
 最悪だ。誰のせいでこうなったと思っているのか。冷静に事を促すセルジュに、ブレイヴは愚痴を吐きたくなった。


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