四章 ラ・ガーディア−四葉の国−

月の見えない夜

 レナードが大衆食堂を出たとき、日はすっかり暮れていた。
 国境の集落でもこれまでの村や町と比べて広く、東には立派な建物が並んでいる。辺境を任された貴族の邸宅のようで、この街に駐在する騎士も多い。ここがなぜ無事だったのか、レナードはやっとわかった気がする。下手に手を出せばあとには引けなくなるし、何よりもここには監獄があるからだ。
 非番の前の日以外は酒を飲まないと決めていた。
 アストレアにいた頃からずっとそれを守ってきたのに、今日はどうしても一杯だけ飲まずにはいられなかった。自分の懐から出すわけではないので、デューイは麦酒エールをどんどん注文する。隣でノエルは塩漬け豚とレンズ豆の煮ものをつついている。ウルーグの名物料理を一通りたのしんだあと店を出た。けっきょく、レナードが飲んだのは一杯だけでノエルは酒に手を付けず、遠慮知らずのデューイだけが盛りあがっていた。
「ったく、俺はちゃんと止めたからな」
「お前が先に飲もうと言ったんだろ? ここは同罪だ」
「ちょっと待った。勝手に巻き込むのはなし。飲んだのはお前たち二人だろ」
 レナードがぼやき、デューイがにやにやして、ノエルが反論する。同郷のレナードとノエル、そこにデューイがくっ付いてくるのは面白いからという理由だけだ。
「ああ、もう。お前なんか連れてくるんじゃなかった」
「それ俺の台詞! お前らとちがって俺は騎士じゃないのに……」
「仕方ないよね。人手が足りないんだもの」
 ごちる二人にノエルがあっさりと返す。愚痴を零すデューイの言い分もわかるし、ノエルの声も正しい。この街にはたくさんの騎士が集まっていて、けれど皆はそれぞれの仕事で忙しくしている。
「まあ、こういうのはね。俺たち下っ端の仕事だと諦めるしかないよね」
 とはいえ、レナードたちが向かっているのは監獄だ。酒場で一杯引っかけてから来ましたなんて言えば、あとで間違いなく処罰されるだろう。酒精アルコールのにおいが残っていないか、レナードは嗅ぐ。我ながら軽率だったと諦めるしかない。
「でもさ、見張りを任されるってことは、お前たちは留守番役ってことだ」
 ぴたりと、レナードは足を止める。
「おいおい、そんな睨むなよ。俺が決めたわけじゃないし……。ええと、誰だっけ? アステアの兄さん?」
「セルジュは軍師だからね。彼の言うことをきかないってことは、公子の言葉を拒否するっておなじ意味」
 べつに公子に逆らうなんて、そんなつもりじゃない。レナードは独りごちる。
 いま、この町には俘虜となったイスカの戦士たちが収監されている。彼らを率いていたのはイスカの族長であるシュロ、獅子王の右腕と呼ばれた男だ。すでにシュロと公子たちとの話は付いているようで、他のイスカの戦士たちも大人しくしている。彼らの仲間だったイレスダート人が一人、そこから抜けたことも騒いでもいないようだ。
「でもさ、よかったよな。アステアは兄さんとちゃんと会えて」
「ずっと捜していたからね。偶然だっていうけど、奇跡みたいなはなしだよね」
「よくなんかないよ」
 泣いているアステアの姿を思い出した。あれは嬉し泣きだった。レナードはかぶりを振る。
「軍師かなんだか知らないけど。あいつ……、いきなり入ってきてえらそうに」
 デューイとノエルが顔を見合わせた。 
「なあんだ、お前って案外根に持つ奴なんだなあ」
「アストレアにいたのにエーベル家を知らなかったくらいだしね」
「ちがう! そうじゃない」
 拳に力が入ってしまうのは酒を飲んだせいだ。
「だって、あいつジークを知ってたくせに、あんな言い方って……」
 その場にいなかったデューイはともかく、ノエルもきいたはずだ。アストレアの公子ブレイヴには麾下のジークがいつも傍にいる。アストレアの鴉が公子から離れることはない。けれど自由都市サリタでマイアの追っ手から逃れるために、しんがりを務めたのはジークだ。他に適任者などいなかったと、公子も認めている。
「ジークは、生きてる。勝手に決めつけるなっての」
 目が熱くなってきて思わずレナードは空を見あげた。禍々しいほどの赤が空を染めていた。デューイが肩をたたいた。麦酒をあれだけ飲んだくせに完全には酔っていないらしく、どこかやさしい。
「まあ、でもさ。軍師の言うことは素直にきいとけって」
「そうだね。イスカを知っているセルジュが道案内してくれるんだもの。エディ王子も、公子も。帰ってくるまで俺たちはここを任されたんだから」
 レナードはうなずく。俘虜は殺さない。それが、ウルーグの王女エリンシアの出した答えだ。シュロはウルーグで預かり、そのあいだにエディがイスカに行く。こちらにシュロという人質がいる限り、ウルーグの鷹は無事にここに戻ってくるはずだ。
「それにまだ油断はできないよ。獅子王とは関係のないイスカの戦士だっているんだもの。ここを襲ってこないとも限らない」
「そういう仕事はごめんだな。俺は騎士じゃないし」
「そんなの、知ってるよ」
 レナードは鼻を啜る。泣いているわけではなく、単に外が冷えるからだと二人の前で意地を張る。
「でも、そうだよな。まだ終わりじゃないんだよな」
「そうそう。囚人に食事を届けるくらいなら、俺にだってできるけどな」
「さっき、あれだけ文句言ってたくせにね」
 そうして三人で笑い合う。北風の冷たさに震えながら、監獄へと近づく前にレナードはちゃんと騎士の顔を作る。まもなくウルーグにも冬がやってくる。あたたかな季節が来る頃には、ウルーグとイスカの関係も修復しているだろう。
 北の監獄が見えてきた。それまでじゃれ合っていたデューイもさすがに静かになった。洋灯を用意していて正解だ。すっかり空を覆い尽くしてしまった闇のなかに月は見えなかった。
 衛士は不在で、おそらく食事の時間を手伝っているのだろう。深い地下へとつづく階段をおりるのはすこし緊張する。ちょっと足を滑らせてしまえば奈落の底へと真っ逆さま、足を折っただけでは済まされない。監獄という場所だからか、おしゃべりなデューイも声を出さずにいる。レナードは一段ずつたしかめながらゆっくりと降りていく。
 最下段に着いた。見張りの騎士たちとはここで交代だったが、しかし姿が見えない。ここでの食事は固くなった黒パンと冷たいスープ、それに果実が一切れ。それほど時間がかかるようには思えず、他の二人も不審に思っている。
「なんだか、嫌なにおいがしないか? 血生臭いっていうか」
「ここは監獄だよ。血のにおいくらいしてもふしぎじゃない」
 地下はいっそう冷えるために二人の顔も強張っている。いや、これは緊張からかもしれない。レナードの手が震えるのもそのせいだと思い込む。
「やっぱり、こんなところ来るんじゃなかったなあ」
 デューイがぼやく。ノエルはもうデューイを無視してレナードを見ている。手燭で辺りを照らしながら慎重に進んでいく。レナードたちよりも先にここに入った者がいたのだろうか。いや、それにしてはおかしい。投獄されているのはイスカの戦士たちだけで、面会など来る者はいないはずだ。それなら、彼らの仲間たちはどうか。ありえない。他の集落とはちがってこの街は軍備が整っているから潜り込むのは不可能だ。
「レナード」
 ノエルが囁いた。生唾を呑み込んで、とにかく緊張を抑える。デューイの言うとおり、こんな場所じゃなかったらもっと冷静でいられた。
「デューイは先に戻れ」
 嫌な感じがする。けれどもそれを上手く形容できない。
「はあ? お前なに言って」
「いいから、早く。たぶん、俺たちの他に誰かいる」
「誰かって……」
 デューイはそこで声を止めた。監獄の衛士、あるいは囚人たちの見張り役の騎士。でも、そうじゃないことをデューイだってもうわかっている。
「レナード!」
 ノエルが急かしている。言うことをきかないデューイに焦れたのか、それにしては切迫した声だった。視線に導かれてレナードは鉄格子の先を手燭で照らす。三人の息が同時に止まった。
「な、なんだよ。これ……」
 まず視界に入ったのは切り落とされた四肢だった。それが人間の手足だと理解するまでに時間が掛かった。赤いインクでもぶちまけたように床を塗らすのは血、そのなかに人間だった生きものの身体が転がっている。そこまで見届けたところでレナードは嘔吐した。
 ノエルがレナードから手燭を奪って走り出した。囚人たちに武器は許されていなかったが、相手はイスカの戦士たちだ。得物がなくてもその気になれば鉄格子など簡単に壊せる。それくらいの膂力の持ち主だ。囚人同士の会話を防ぐためにそれぞれ離れて収監させているのはそのためだ。レナードはしばらく嘔吐き、それからのろのろと上体を起こした。腰を抜かしているデューイを無視してノエルを追う。立ち尽くしているノエルを見て、レナードもすぐにわかった。
 そこにあるのは、ただの殺戮だった。
 顔の判別ができないほどに顔面が潰されていた。次の囚人は喉を掻き切られている。激しくいたぶられたのか、白目を剥いて絶命している姿を見てレナードは思わず目を逸らした。その次も、その次も鋭利な刃物でずたずたに切り刻まれた死体を見た。一番奥に収監されているのはイスカのシュロだ。獅子王の右腕と謳われた戦士、牢屋の前で横たわっている三つの死体はウルーグの騎士たちだった。
「まさか……」
 レナードの声が震えていた。牢屋の扉は開いていた。ただし、彼は武器など何も持っていなかったはずだ。なにより、殺されているのはウルーグの騎士たちだけではなく、イスカの戦士たちもそうだ。レナードは恐る恐るシュロへと近づく。彼の身体には指も耳もない。順番に切り落とされたのだろうか。切断された四肢の横には首が転がっている。
「な、なんで……」
 こんなことができるのだろう。レナードの唇がそう動く。ガレリア遠征の際に敵国であるルドラスの騎士と戦った。人を殺すのははじめてだったし、そうしなければ殺されるのもはじめてだった。けれど、戦場でもこんなにひどい死に方はしない。レナードの両目から涙が勝手に出てくる。吐き気が治まらなければ頭痛もする。早く戻って報告しなければならないのに、足が動かない。隣で震えているノエルを見た。レナードとおなじくらい顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「戻らないと……」
 ノエルを促したそのとき、やっと《《それ》》に気がついた。
 いつからいたのだろう。レナードたちよりも頭ふたつ分ちいさい子どもがそこにいた。迷い込んで来るようなところじゃない。なにより、子どもの唇には笑みが描かれている。
「なあんだ。まだ、いたんだ」
 白髪の少年だった。無邪気に響くその声に身体が震える。その瞳に宿る青玉石サファイアのような青がおそろしい。白の少年が近づいてくる。
「デューイ! 逃げろ!」
 それが最後だった。闇はもうすぐ傍までレナードのところに迫っていた。










 夜になると街には霧が広がっていた。
 ウルーグの中心部から離れたこの地では夜間や明け方に霧がよく出るという。モンタネール山脈から伝わっている冷気がそうさせているらしく、乳白色の霧はずっと遠くまで広がり視界を遮っている。
 着込んだ外套だけでは、これから冬は乗り切れないかもしれない。
 ここはイスカとウルーグの国境近く、ここよりもっと北のイスカの冬は厳しい。本格的な冬が訪れる前に幼なじみたちはイスカへと旅立つ。ブレイヴと彼の軍師のセルジュ、それからエディも。彼らのことを思いながら、レオナは空を見つめた。闇のなかで月は見えなかった。
「ごめんなさい、待たせてしまって」
 レオナはシャルロットとルテキアとともに、街の南東部にある教会へと赴いていた。朝の祭儀を終えて修道女たちの手伝いをする。教会では身寄りのない子どもたちを何人か預かっていて、朝の勉強から戻ってくる子どもたちはお腹をぐうぐう鳴らしている。
 午後の祭儀のあと、クリスに呼ばれて司祭に会いに行く。街の人々は突然引き渡されたイスカの戦士たちに怯えているようで、しかしこれでイスカとの戦争が終わるのだときいて喜んでいる。王子と聖騎士殿にはぜひお礼を伝えて頂きたい。司祭は皺だらけの顔をもっとしわくちゃにさせて微笑んだ。
 その頃にはとうに日も沈んでいて、迎えに来てくれたのはディアスだった。だいたいの予想は付いていたらしく、もう一人の幼なじみはレオナの謝罪にあきれ顔で応える。きっとブレイヴたちも心配しているだろう。
「明日にはここを発つ」
 レオナはうなずく。ブレイヴたちのことだ。
「エリスがイスカの族長に会いたがっていたみたい。手紙が届いて、エディが苦笑いしていたって」
「シュロはむずかしい男だ」
「ディアスは会ったの?」
「いや、だが交渉は難儀したはずだ」
 レオナとディアスがブレイヴたちと合流したとき、すでに話は付いていた。けれど、幼なじみもエディもその顔は疲れているように見えた。
「明日も教会に行こうと思うの。ロッテが、もっと司祭さまのはなしがききたいって」
「そうか」
 手燭を持つディアスを先頭に、ルテキアとシャルロットもつづく。オリシスの少女の声は戻らないままで、それでもクリスは根気よく対話をつづけてくれる。おなじヴァルハルワ教徒同士、なにかと通じるものがあるのだろう。シャルロットはクリスに心を許している。
「もう一人はどうした?」
「クリスのこと? 今日は泊まり込みの仕事があるって。フレイアもいっしょだから、きっとだいじょうぶ」
 ウルーグの後衛部隊として、レオナはクリスとフレイアともずっと一緒だった。白皙の聖職者の仕事はすごく丁寧で、そして優れた治癒魔法の使い手でもあった。
「負けていられないわ。わたしも」
「お前はそのままで十分だ」
 レオナはちょっと笑う。無理はするなと忠告されているのかもしれない。イスカの戦士たちに襲撃された村の人たち、それに戦いのあと俘虜となった戦士たち。そのどちらもレオナたちは治療した。現場は思っていたよりもずっと凄惨で、レオナはすぐに動けなかったしシャルロットは震えていた。ウルーグの王城に残らなかったのは自分たちで、危険な場所へと来てしまったのならそれ相応の働きをしなければならない。逃げ出さずにいられたのも半分は意地だ。
「ディアスは、どうしてきてくれたの?」
 問いかけるのならいましかないと、そう思った。
 いまだけのはなしじゃない。自由都市サリタにディアスがいたのは偶然でも、それから先は幼なじみの意思だ。ブレイヴと彼の傍にいたレオナはイレスダートを追われてここまで来てしまったけれど、ディアスにはその理由がない。レオナはディアスの顔を見あげたものの、視線はすぐに逸らされてしまった。
「約束をしたからだ」
 それは誰のことなのだろう。きっと、これ以上は答えてくれない。そんな気がする。
 霧のせいか外を出歩いている人はほとんどいなかった。大衆食堂や酒場もそうそうに店仕舞いしたようで、すでに明かりも消えていた。レオナは寒気がするのもこの霧のせいだと思い込む。それとも早く戻って幼なじみに伝えるべきなのだろうか。この予感はあのときとおなじ、あの日オリシスのアルウェンは――。
「誰だ?」
 鋭い声が響いてレオナははっとした。急に足を止めたディアスの視線は路地裏を向いている。足音が近づいてくるとともに、手燭に照らされてぼんやりだった人影も次第に鮮明になった。
「デューイ……?」
 声は返らずにデューイはその場で倒れ込んだ。ディアスが止めるより早く、レオナはデューイの身体を抱き起こそうとする。レオナの両手はすぐに赤く染まった。
「デューイ、しっかりして! あなた、いったい……」
「無理に起こしてはなりません! この傷は、ただの怪我ではありません」
 ルテキアに叱りつけられてやっとレオナは冷静になった。どうして気づかなかったのだろう。剣や槍などの刃物による攻撃ではない。デューイの身体から強い魔力の名残を感じる。
「こいつはレナードたちとともにいたはずだ。それがなぜ、ここにいる?」
 幼なじみはどこまでも冷静だった。それよりも、早くデューイを助けなければならない。頬や首、さらに下にたどって胸や腹、手足も裂けた皮膚から血が止まらず、レオナは震えた。
「お、俺のことは、いい。それより……、はやく、レナードたちを」
「デューイ! しゃべらないで、いま助ける!」
 癒やしの力を発動させる。緑色の光がデューイの全身を包み込む。しかし、デューイは無理やり上体を起こしてレオナの手を撥ねのけた。
「たのむよ。はやく、行ってくれ。ふたりが、このままじゃ……!」
「デューイ!」
 それが最後の力だったのかもしれない。デューイは意識を失い、それきり動かなくなった。レオナはルテキアを見て、ディアスを見た。たしかにデューイはレナードとノエルと一緒だった。イスカの戦士たちを収容する監獄へと行っていたはずで、気まぐれに先に抜け出すことも彼の性格を重んじれば考えられる。でも、この傷はちがう。誰かに遭遇して、攻撃されなければこうはならない。
「ロッテ……! デューイを、おねがい」
「レオナ! なにを……?」
 少女はただ震えていた。レオナもシャルロットも、前におなじ光景を目にしたことがあったからだ。
「おねがい、ロッテ。デューイを救って」
「無理を言わないでください! 彼女はまだ」
「いいえ。あなたなら、できる」
 レオナはシャルロットの目をまっすぐに見た。薄藍の瞳は涙で潤んでいる。おそろしいのか象牙色の彼女の頬が青ざめている。あの夜、オリシス公の部屋を訪ねたときのように、またすぐに倒れてしまうかもしれない。それでもレオナは繰り返す。
 教会に残っているクリスを呼びに行っていたらきっと間に合わない。いまここで、彼を救えるのは彼女だけだ。
「ディアス、きて」
 レオナは立ちあがり、幼なじみを見た。眉間に皺を寄せて、ともすればため息を落としそうなディアスの顔はすべてを悟っているようだった。
「わたしはレナードたちのところへ行く。デューイを、お願い」
 デューイをルテキアとシャルロットに託して、レオナは北の監獄へと行く。どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。この霧は自然現象ではない。魔力のにおいを辿れなかったのは、レオナが弱いからだ。この力はあのときとおなじ、この魔力は、あの白の少年の力だ。


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