三章 微笑みと、約束と、笑顔と

ルーファスの焦り

 例年この時期にはとにかく雨が降るとはいえ、こうもつづけば奇禍きかを疑いたくもなる。
 民衆はまず騒ぎ立て、教会は信徒たちを集めて祈りを捧げよと謳う。ちょうどおなじ頃に質の悪い感冒が流行したせいもあり、ヴァルハルワ教徒たちはひどく怯えている。我先にと大聖堂に駆け込んで、大司教に金貨を手渡す者も一人や二人だけではなかった。
 よくできた脚本のようだと、ヘルムートは思う。
 ムスタール公ヘルムートはこの混乱を鎮めるために力を尽くしていたものの、やはり信仰に勝るものはなく、今日も信徒たちは大聖堂に列をなしている。彼らにとって祈りの時間はなにより大切である。三つ目の鐘の音が鳴るその前に、妻コンスタンツも子どもらを連れて大聖堂へと行った。妻女の父親は大司祭だった。信仰を妨げるつもりはない。けれども、どこか冷えた目で見てしまうのは、ヘルムートが敬虔なヴァルハルワ教徒ではなかったからだ。
「お疲れのところ恐れ入ります。心中、お察しいたします」
 無意識のため息だった。しかし、待たせている客人にはしっかりと届いてしまっていたようだ。ヘルムートは意識して表情を作り替える。
「いや、謝罪すべきなのは私だ。これをどうか国王陛下に届けて頂きたい」
 客人は立ちあがり、ヘルムートの書状を受け取った。王都からの使者はまだ若いが、白い軍服を纏っている。マイアが誇る白騎士団の騎士だ。
「かしこまりました。ところで、物資は足りましたでしょうか? 必要とあればもうすこし、」
「いや、それには及ばない。高配を痛み入る。……しかし、それよりもガレリアを優先して頂きたい」
 使者はすこし困ったような顔をして、これが失言であったとヘルムートは気づく。若い騎士はガレリアからの帰りなのだ。北の城塞都市には定期的に物資が届けられている。糧食はもとより、ガレリアの民の生活に必要なものもすべてがそうだ。
「ムスタールは心配なさそうで、安心いたしました。さすがは黒騎士ヘルムートの治める国です」
 今度はヘルムートが苦笑する番だった。意趣返し、というわけでもなさそうだ。彼は若くとも実に堂々としている。良い騎士になるだろう。使者を見送りながら、ヘルムートはそう思う。
 客人が去ったはずの執務室には、しかしもう一人が残っている。
 ムスタール公爵はこのところ公務が立て込んでいて、あと回しにした雑務に忙殺されていた。机上の羊皮紙の束がそれを物語っているが、嘆息したのはまた別の理由からだった。
「ムスタール公はかくも正直な方ですな。嘘が吐けないというのは長所とも短所とも言える」
 老者は完爾かんじとして笑い、カップを円卓に置いた。客人が二人ともあれば、一人を追い返すのは不可能だ。ヘルムートは眉間を揉みほぐす。若い騎士が帰って来るまでここに居座るつもりだろうか。使者は大聖堂へ、つまりヴァルハルワ卿の司教に会いに行ったのだが、また戻ってくる。この老者の護衛なのだ。
「先日、ガレリアに行って参りましてな。いやはや、なかなかにひどい場所だ。しかしながら、さすがは城塞都市。よく持ちこたえているようですな」
 だが、ガレリアに兵力を注ぐのを躊躇したのも元老院だ。あの軍事会議の場では多数に無勢だった。援軍は認めない。けっきょく、アストレアの聖騎士がガレリアに行くことになった。その彼は半年もせぬうちに帰還する。白の王宮が罷免ひめんしたのかそれとも王命だったのか。いずれにしてもガレリアの守りは薄いままだ。
「アストレアの蒼天騎士団を帰還させたのならば、新たな変力も必要だろう。なぜ、そうしない?」
「代わりにランツェスの炎天騎士団がおりますゆえに
「ホルスト公子で務まるのか? それは」
 赤い悪魔の異名を持つ弟ならば知っていても、その兄に関してはさほど詳しくはない。ホルストをけっして過小評価しているわけではないのだが、しかしアストレアの公子の代わりとなれば力不足だろう。ヘルムートはそう指摘する。聖騎士の名はそれだけで意味を持つし、味方の士気にも関わるはずだ。
「御気に召されるな。ホルスト殿はああ見えてなかなかの……」
 そこで老者は声を詰まらせる。元老院がこれほど他者を買うのもめずらしい。はじめからまともに相手をするつもりのないヘルムートは、老者の目をちゃんと見ていなかった。だから、老人の目に厭悪えんおの闇が宿っていたのも気づかなかったし、会話を早く終わらせたいと思っている。
「いや、失礼。しかしガレリアは、ランツェスの小僧に任せておけばよろしかろう。それよりも……」
 ヘルムートは机上で山積みとなっている羊皮紙と老者とを交互に見た。退出を促す目顔のつもりだったのだが、老人は素知らぬ顔で香茶をたのしんでいる。カップが空になったなら侍女を呼び、焼菓子まで用意させる。ヘルムートは嘆息した。
「こんな与太話をするためにムスタールに来たのか?」
「いえいえ、やはり公にはお伝えすべきだと思いましてな」
 眉を顰めたヘルムートに老者は笑む。どうせろくでもない話ばかりだ。ヘルムートは扈従こじゅうを呼ぼうとしたが、それよりも先に老者はつづけた。
「噂などではございません。レオナ殿下の所在が掴めずにいるのです」
「なに……?」
 この老人と前に会ったのは大聖堂の地下だった。あの日、ヘルムートを待っていたのは父親ではなく元老院だった。無駄話ばかりをする老者の話を、ヘルムートは皆まできかずに追い返した。だが、たしかに老者は最後におなじことを口にした。
「きけばレオナ殿下の傍付きも消えたというではありませんか。騎士はかのクレイン家の娘だとか」
「それと何が関係がある?」
「クレイン家は教会と所縁ゆかりがございましょうぞ」
「何が言いたい?」
 問いながらもヘルムートは鼻白む。クレイン家は敬虔なヴァルハルワ教徒が多いイレスダートの名家だ。消えた騎士が大聖堂に匿われていると、老者はそう指摘している。そこには当然王女も一緒に。
「わかりました。公には包み隠さずに申しあげましょうぞ。レオナ殿下はアストレアの公子と共にいると、そう我々は考えているのです」
 相槌を打つのも面倒になってきた。ヘルムートはだんまりをつづける。
「聖騎士がアストレアの蒼天騎士団と共にガレリアを発った。そしてレオナ殿下が白の王宮から消えた……このふたつの時期はちょうどおなじく。しかしながら、王女は城塞都市におりますまい」
「わざわざガレリアにまで出向いたのか。ご苦労なことだな」
 ヘルムートの揶揄やゆに老者はにやっとする。
「ガレリアからアストレアまでは遠い。アストレア湖を迂回し、さらには森を進むには難儀するでしょう。いやはや、蒼天騎士団ならそれでも真っ直ぐに祖国を目指すところ……、しかし馬車でそれは不可能、それもマイアから離れたことのない王女を連れて」
 三度目の嘆息をしたヘルムートに老者は相好を崩さずに言う。
「となれば、馬車を乗り継ぐためにもどこか大きな街に寄る必要もあるでしょうなあ」
「それが、ムスタールだとでも?」
 老者は首肯する。
「青髪はムスタールでは目立ちましょうぞ。それも要人ともあれば尚のこと」
 ヘルムートは首を振る。このくだらない茶番にいつまで付き合えばいいのだろう。けれど、老者の言葉が虚言ばかりを重ねているとも思えなかった。ムスタール人に黒髪が多いのは事実でもあるし、ヘルムートは聖騎士に会っているのだ。
 あれは、ちょうど九つの鐘の音が鳴り終わった頃だった。人通りが少なかったのも、ヴァルハルワ教徒たちが大聖堂へと出向いていたからだ。巡礼者や他の旅人もおなじように。
 偶然、だったと思う。彼の姿を認めたのも。老者の言う通り、アストレアの公子が青髪だったからこそ、ヘルムートは気が付きそして足を止めた。だが、それをあえて老者に教えなくてもいい。
「これ以上話すことはない。出て言ってもらおう」
 今度こそ、ヘルムートは扈従を呼んだ。老者はやおら立ちあがり、しかしその目は微笑んでいる。白騎士団の若者が戻って来るまでにまだ小一時間は掛かるだろう。
「待て。ひとつだけ、問いたい」
 好奇心や関心ではなかった。老者を呼び止めたのは、何か形容のできない違和感がヘルムートをそうさせていた。
「アストレアの公子に兄弟はいたものか? たとえば……弟は」
 なぜ、そんなことをきいたのか。それも厭忌えんきするような相手に向かって。答えはヘルムート自身が知っている。そうだ。聖騎士はあのとき麾下きかだけを連れていた。ヘルムートはそのなかに騎士ではない人物を見ていた。弟です。聖騎士は、そう言った。彼は嘘の吐けない人間だった。
「はて……? おかしいですなあ。アストレアの公子は聖騎士殿お一人だけ。そのはずですが」
 老者は底意地の悪い笑みを見せながらも、それ以上は答えなかった。










 ルーファスは来る日も来る日も不安と闘っていた。
 自分との戦いにはとにかく果てがない。己の軽率さを悔やむならばいつからだろう。やはり教会には気を許してはならなかったのだ。
 いや、慢心していたわけではない。ルーファスはけっして甘言には乗らなかったし、必要以上の言葉を吐いたりはしなかった。ただあの修道女シスターがしたたかな女であっただけ、それに味方であるはずのクレイン家が裏切っていたがために、ルーファスはここに閉じ込められている。
 あの日からルーファスに自由はよりなくなった。
 常に監視されている。それは慣れさえすれば害はなくとも、しかし外からの情報は途絶えたに等しい。許されているといえば祈りの時間で、ルーファスは今日も聖イシュタニアの前で膝を突く。
 まるで罪人みたいだ。
 修道女はあれから姿を見せなくなったものの、他のヴァルハルワ教徒たちはルーファスを凶徒のように扱う。己が罪を認めよ。そして、悔い改めよ。神の存在を疑わないその目が、ルーファスにそう言いつづけている。
 耐え難い時間ではなかった。ルーファスは騎士だ。詰問されようともルーファスは黙したままだし、どんな拷問にだって口を割らない。もっともイレスダートではそうした責問は禁じられている。それが、教会ではどうか。 
 ともあれ、ルーファスは王女に関する言葉のひとつも喋るつもりはなかった。だからこれは時間との戦いである。レオナ王女はこのムスタールで保護されている。教会は元老院と通じているから是が非でもその痕跡を追うだろう。懸念すべきなのはクレイン家だ。すでに白の王宮が動いているのならば、奴らはどこまで掴んでいるかどうか。逆に考えればルーファスが軟禁されているのは、王女の所在を掴めていない証左しょうさとなる。それならば、耐えればいい。
 ルーファスは聖イシュタニアの前で祈る。
 口のなかで唱えたのは懺悔ではなく、姫君の無事を願った。本物の王女レオナはアストレアで守られている。ルーファスは若い聖騎士の目を見た。曇りのない真っ直ぐなあの瞳は、偽ることのできない人間のする目だった。アストレアの公子の傍にいればレオナに危険はないと、ルーファスは疑わない。しかし、敵はルーファスが考えている以上に手強い相手である。
 慧眼に優れたアナクレオンは、妹姫を守るために手を尽くしているはずだ。それなのに、こんなにも苛立つのはなぜか。
 ルーファスは意識して呼吸をする。この日も大聖堂は人の波でごった返していた。ムスタールに降りつづける長雨が災いだと、信徒たちは騒いでいる。大司祭は要人たちの相手をするのに忙しく、助祭や修道女、見習いたちまでも教徒らを鎮めるのに出払っている。けれども、ルーファスが人々に紛れて大聖堂の敷地からと行くことは叶わなかった。神殿騎士がルーファスを誘導する。だからルーファスは掘りから外へと出られずにいる。
「ご気分が優れないのですか?」
 よほど顔色が悪く見えたのか、彼は声をかけてきた。神殿騎士はルーファスよりも若い。聖騎士とおなじくらいの歳か。普段は余計な声など一切しないが、ルーファスは彼が敬虔なヴァルハルワ教徒ではないことも知っていた。神殿騎士はいつもすこし離れたところからルーファスを見ているものの、退屈を覚えた頃にうたを口遊む。それはルーファスになじみのないうただった。
 騙せるかもしれない。
 けれども、ルーファスは彼の顔を見て出そうとした声を喉の奥に留めた。内心でため息をする。巻き込んだところで何になるのだろう。ここから出てもそれ以上、行く術もなければ王女の傍付きの存在が明るみに出てもならないのだ。
「すこし喉が渇いた。水を貰ってきてはくれないか?」
 彼はしばし躊躇ったものの、うなずいた。ルーファスが逃げないことを知っていたのだろう。神殿騎士を待つあいだに、ルーファスは何げなく中庭に目をやった。雨あがりの庭は濃い緑のにおいがする。彩りに溢れた花々を見て白の王宮を懐かしく思った。ルーファスの姫君の庭園には、いつもたくさんの花が咲き誇っていた。
「それは、本当なのですね……?」
 花園の向こうから声がした。円卓には二人の姿が見える。高齢の修道女と黒髪の貴婦人だった。上流貴族の要人だろうか。声音は年齢よりもずっと落ち着いていたし、挙措もそうだった。
「ええ。誠に残念でなりません。彼女は良き信徒でありました。真面目でやさしい少女でしたから、ここの者たちも皆が悲しんでおります」
「たしか、クレイン家の令嬢でしたね? ムスタールで青髪はめずらしいですもの。わたくしもよく覚えております」
 ルーファスの身体が震えた。クレイン家の娘。それは他ならぬルーファス自身だった。しかし、彼女らの話題は別の人間を指している。父母を亡くして、唯一の兄弟だった兄にも先立たれたルーファスには他に近しい親類はいなかった。では、傍系の親族ならば――。
「その話、詳しくお聞かせください……!」
 考えるより先にルーファスの足が動いていた。無礼ではありませんか。高齢の修道女はそう言い放ち、黒髪の貴婦人は片手をあげて制する。やはり、ただ者ではない。
「私は、イリア・クレインと申します」
 ルーファスは自身の勘を信じて、己の身分を明かした。訝しげに見つめるその瞳、そのうちの一人がムスタール公爵の妻コンスタンツだと知らずに、ルーファスは接触する。


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