三章 微笑みと、約束と、笑顔と

自責の念

 ブレイヴたちがオリシスへと身を寄せてからひと月が過ぎた。
 空は鈍色ばかりがつづき、日中だけではなく夜になってもしつこく雨が降っている。晴天の日には城下街を散策できても、そうではないときにはやはり城内に留まるしかない。そのうちに時間を持て余すようになってしまった。
 ブレイヴは回廊で少年騎士たちとすれ違った。少年たちは聖騎士を憧憬の目で見る。さすがに話しかける勇気はなかったらしく、背後から青年騎士が責っ付く。彼らはこれから騎士の訓練があるのだろう。
 回廊の向こうでは霧雨が降っている。でも少年たちは、まだすこし身体よりも大きい軍服を泥だらけにしても逃げたりはしない。オリシス公はそんなにやさしい人ではなかったし、代理を務める騎士はもっと厳しいのだ。
「そういえば、公女に手合わせをしてほしいと、そう頼まれていたな」
 独り言のつもりだったが、ジークは苦笑する。
「断ったのではなかったのですか?」
「いや、公女は真剣だったし、アルウェン様も止めなかった」
 オリシス公の妹ロアのことだ。実直な性格をした公女は兄とおなじように騎士の道を選び、そうしてアルウェンからオリシスの騎士団を任されている。公女が成人するまではオリシス公が補佐するものの、一人前と認められた暁には騎士団をロアに託すのだろう。妹の話をするとき、アルウェンはいつも目を細めていた。
「良い騎士団だと思います。一体感がありますし、少年騎士たちの成長も早い」 
 ブレイヴはうなずく。騎士の訓練に参加させてもらったときにおなじことを感じた。彼らは謹直きんちょくであり誠実であり、何よりも余所者を拒まないたちのようだ。若いレナードやノエルなどはすっかりオリシスが気に入ったらしく、騎士たちの行きつけの酒場も教えてもらっただとか。穏やかな気候がそうさせるのだろう。北のガレリアでは、ブレイヴたちや他の国の騎士が来ても人々はまるで無関心だった。あの目を思い出すとやるせない気持ちになる。
「あれは……」
 ジークがつぶやいた。その視線の先には異国の剣士が見えた。クライドがまだオリシスに留まっているのも、この国に居心地の良さを感じているのかもしれない。中庭を挟んだ回廊で異国の剣士は誰かと話をしている。いや、言い争っているようにも見える。
「レナードとノエルですね」
 嘆息するジークにブレイヴも苦笑いする。
 レナードはクライドから剣の指導を受けているそうだが、あの様子だとそれ以外の時間も一緒のようだ。子犬に懐かれて迷惑そうにしている。
「まったく、あれでは彼も困っているでしょう」
 自身を目付役と称するくらいにジークは同郷の騎士らに厳しい。それもあの二人に期待をしているからで、きっとたっぷりと絞られるだろう。向上心があるのは良いことだ。そう言ってしまえばこっちが説教をきかされる羽目になるので、ブレイヴは黙っておく。ところが、あちらへと向かっていたジークの足が止まる。公子、と。呼ぶ声は低かった。
「すこし、いとまを頂きたいのですが」
 ブレイヴは眉をひそめる。無思慮な声ではない。騎士は時宜《じぎ》を待って申し出ている。
「承諾はできない」
「十日、いえ……七日でもお許し頂けませんか? それまでには戻ります」
 無言で肩をすくめて見せれば、騎士はそれ以上を言わなかった。わかっている。それでも許すわけにはいかない。
「アルウェン公は私にすこしの時間をくれと、そう言った。待て、ということだ。このオリシスにいる以上、従うべきだと思う」
 ブレイヴはここで守ってもらっているのだ。勝手な言動はアルウェンへの裏切りとおなじだ。
「配慮に欠ける発言でした。お許しください」
「お前の考えはよくわかっている。それでも、俺にはお前が必要だ。傍にいてほしい」
「仰せのままに」
 ジークは一揖いちゆうし、異国の剣士のところへと行った。ブレイヴは彼らを見届けずにまた回廊を歩き出した。頼りのない主だ。口のなかでつぶやく。ジークをここまで短慮にさせたのは他でもないブレイヴだ。アルウェン公に保護されている以上、ここが安全な場所であっても心はずっと落ち着かないまま、時間だけが悪戯に過ぎてしまっている。母エレノアを信じていないわけではなかったし、アストレアが強い国だということもちゃんとわかっている。それでも、ときどきどうしようもない焦りをブレイヴは感じている。
 ため息ばかりしている気がする。ブレイヴは意識して顔をあげた。そのとき、一人の少女と目が合った。
 蜂蜜色の髪の毛はオリシスではそう多くない。少女の生まれは西のラ・ガーディア、縁があってアルウェンが養女に迎えたのだとそうきいた。それから、人見知りが強くて内気な性格なのだとも。
「シャルロット、だよね?」
 少女はただ黙ってうなずいた。本当はそのまま逃げてしまいたかったのだろう。でも、書物庫に行くにはここを通らなければならないし、知らんぷりをするには遅すぎた。
「私のことは知っているかな?」
「アストレアの、ブレイヴ公子……」
 答えてはくれたものの、少女の目から警戒心は消えてくれない。ブレイヴは少女を怯えさせないように気をつけて微笑む。
「正解。父上からきいたの?」
「いいえ。レオナが……、あなたのこと、よくおはなししてくださるから」
 なるほど。少女が逃げずにちゃんと話をしてくれる理由がわかった。
「そっか。仲良くなれた?」
「はい。他にもたくさん……、白の王宮のことも、お兄様のことも、それからアストレアのことも」
 やっと笑ってくれた。きっとレオナのおかげだ。シャルロットは腕に数冊の本を抱いている。読書が好きならば趣味も合うかもしれない。ブレイヴは舌で唇を湿らせて、次の話題を考える。ところが次の声は少女が先だった。
「あの、おふたりはおさななじみ、なのでしょう?」
「うん、そうだよ。最初に会ったときにはまだ二人とも小さかったから、よく一緒に遊んでた。マイアに雪がたくさん降った日には、雪うさぎを作ったよ」
「王都マイアはすごく寒いのね……」
「そう。オリシスもだけれど、アストレアも暖かいから王都で雪を見るのがめずらしかった。たくさん遊んで、でも次の日には熱を出してしまったけれど……」
「まあ」
 少女はくすくすと、可愛らしく笑う。
「レオナはすごく心配してくれて部屋に入りたがってた。でもソニアが――彼女の姉上に追い出されたんだ」
 いま思えばあれは体のいい口実で、幼い彼女は邪魔になっていたのだろう。王家の人間は竜の血を受け継ぐ家系だ。大病にはまず罹らないし、普通の人間よりもずっと生命力が強いから熱で寝込むなんて稀な話だ。
「なかよし、なのね」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、すき……?」
「うん?」
「好き、なの?」
 少女の声はとてもちいさくて、ききちがいかと思ってブレイヴはまじろいだ。でも、シャルロットの視線は外れずにいて、その瞳も星みたいにきらきら輝いている。
「うん。好きだよ」
 期待していた返答だったのか、それともその逆だったのか。少女の頬がたちまちに赤く染まった。言葉はそれきり途切れてしまって、けれどシャルロットとの会話が終わる前に、ブレイヴはひとつだけ問いかける。
「そうだ。レオナのことを探しているんだけど、どこにいるのか知らないかな?」










 雨が止んでいるのも、きっとわずかな時間だけだろう。
 それでも、彼女は庭園へと足を運ぶ。王都マイアの白の王宮、その離れの別塔にはいつもたくさんの花が競い合うように咲いている。純真なる白の色、情熱の赤にやさしさを感じる薄紅色、神秘的な青や紫の薔薇の栽培はむずかしいのだと、年嵩の庭師がいつも口にしていたのを思い出す。姫君のために用意された庭園は、いつだって訪れた者の目をたのしませてくれた。オリシスの城内でも白の王宮に見劣りしない見事な庭園がある。庭師の腕が良いのだろう。よく手入れされていて、どの花も美しい。
 ブレイヴが幼なじみを見つけたのは西の外れの庭園だった。
 傍付きも伴わずにここに来たのは、彼女が一人になる時間を望んでいたからだ。働かざる者食うべからず。それが持論の母エレノアは王女だからといって遠慮はしない。アストレアの女たちのところで働き、日中はそうして過ごす。しかし、オリシスではアストレアのようにはいかないから、あくまで幼なじみは客人の扱いだ。
 オリシス公もその妻テレーゼも城内を好きに使ってくれていいと、そう言う。でも、それが却って息が詰まるのかもしれない。だからレオナの傍付きであるルテキアも、幼なじみをちゃんと一人にしてくれる。
「やっと見つけた」
 急に声をかけられたせいか、幼なじみの肩がびくりと跳ねた。
「あ、ブレイヴ……。どうして、ここに?」
 まるで来てほしくなかったみたいだ。彼女の視線はすぐ外れてしまったし、他人のようなよそよそしい声をする。
「シャルロットにきいたんだよ。きみがここにいるって」
「そうなの……。でも、わたし行かなくちゃ」
「どこに?」
 そっちには花園しかない。ブレイヴは目顔でそう言う。それなのに幼なじみはまだ逃げようとする。
「花を、見るつもりだったのよ」
「ふうん。じゃあ、教えてもらえるかな? 俺は、あまり花には明るくないから」
「それなら、わたしよりもテレーゼさまの方が」
「今日は朝から出かけているそうだよ。アルウェン様もきっと一緒だ」
 何が彼女をそうさせているのだろう。知らない人に話しかけられて早く立ち去りたいときみたいな、そういう顔をいま幼なじみはしている。
「アナベルよ」
 短く、それだけ。それが花の名前のようだ。そこで話も終わらせたいのか、幼なじみはにこりともしない。ブレイヴはレオナのうしろに咲いている白の花を見る。アストレアでも白くてちいさいリアの花が有名だが、それよりももうすこし大きい。砂糖菓子を集めたような、白の大ぶりの花はオリシスにしか咲かないのだろうか。他の国では見たことがない。
「北から来た旅商人が、わけてくださったそうよ。テレーゼさまがあの花を、気に入ったみたいだから」
 それだけじゃ説明に足りない。沈黙をそう捉えたのか、幼なじみはぽつりぽつりと声を落とした。
「そうなんだ。可愛らしい花だね」
「うん……」
 いつものレオナならもっとたくさんつづきをきかせてくれる。自分もあの花を好きになっただとか、兄にも見せたいとそう言う。不自然なだんまりの時間が長くなればなるほどに、二人の距離が広がる。そういう気がする。だから、ブレイヴはレオナの目をしっかり見る。幼なじみはブレイヴとは反対のことを考えているのかもしれない。それが、歯痒くてつらい。
「どうして逃げるの?」
「逃げてなんか、ないわ」
 ほら、またそうやって嘘を声にする。
「でも、レオナは目を合わせようとしないよね?」
「そんな、ことは……」
「ちゃんと俺の目を見て」
 彼女の手を取ったのは逃がさないためだった。卑怯者だと罵られてもいい。嫌われてしまったのだとしても、その理由が知りたいからブレイヴはこの手を離さない。
「わたしの、せいだから」
 幼なじみの声は震えていた。泣かせるつもりなんてなかった。こんな顔をさせたくはなかった。それでも、レオナが自分の前で偽りの声を落とすのは嫌だった。苦しみも悲しみも弱さも、全部を隠さずにいてほしいと思うのは、わがままなのだろうか。
「それはちがう」
 ブレイヴは幼なじみを抱きしめる。彼女は、逃げなかった。
「きみのせいじゃない。そんなこと思わなくて、いい」
 腕のなかで嗚咽がきこえる。幼なじみはずっと一人で抱え込んでいたのだ。アルウェンもテレーゼも彼女にやさしい。でも、幼なじみがここにいるのはアストレアを追われたから、その理由が自分にあるのだと思い込んでいる。そんなものは誤りだ。
「そうじゃない。アストレアが安全じゃなかっただけだ」
 そうだ。レオナのせいなんかじゃない。そもそもアストレアは疑われていたのだ。たしかに城塞都市ガレリアにて銀の騎士と接触したのはブレイヴだ。それも大義名分だとブレイヴは思う。最初から元老院はアストレアを欲していた。そう考えると辻褄が合う。
「奴らは何だって利用する。だから、陛下はきみを」
「兄上は……ギルにいさまは言ったの。その目で見なさいって」
 幼なじみの目からまた涙が溢れた。
「自分の目で観て、耳で聴いて。王都マイアの外を知りなさいって、そう言ったの」
 ひとつ一つをたしかめるように、幼なじみは声を紡いでゆく。
「わたし、言うとおりにしたわ。北のガレリアは、すごくこわかった。あの城壁の向こうには、父上と姉上を奪った人たちがいる。そう思うとこわくて、わたし……あなたがいるのがわかっていても、行きたくなんてなかった」
 彼女は無理して笑みを作ろうとする。笑わなくてもいいよ。ブレイヴは先に微笑んで見せる。
「アストレアでは、みんながやさしかった。わたしのこと、王女だって知らないから。むかしからの知り合いみたいに、なかよくしてくれて。ここだって、そう。守られているって、わかってはいるの。でも、わたし……」
 人のやさしさがつらく感じるときがある。それは自分を責めているときだったり、自分の心に余裕がないからだ。
「わたし、いまもこわいの。オリシスにいればだいじょうぶって、アルウェンさまもテレーゼさまもそう言うわ。でも、ギルにいさまはそんなことのために、わたしをマイアから離したんじゃない」
「レオナ……」
 じゃあ、何のために? 幼なじみの目がブレイヴに訴えている。けれどブレイヴには答えられない。アナクレオンは慧眼に優れた王だが、妹姫をもっとも安全なその場所から引き離した。いや、そうではない。白の王宮はもう安全な場所ではないのだ。彼女が、あるべき場所からいられなくなるほどに。
「ねえ、ブレイヴ。わたし、どこにいてもなにもできないわ。わたしには、なにもないもの……」
 たとえレオナが身分を公にしていても要人として動く力はない。彼女は側室の子として生まれて、白の王宮の外れに閉じ込められていた。早くから公人として表の舞台で生きてきた姉のソニアとはちがう。
「レオナ」
 彼女を落ち着かせるために、もう一度呼ぶ。
「レオナ、大丈夫だよ。俺がいるから。傍にいる。約束する、必ずきみを守るから」
 青玉石サファイアの瞳はまだ不安そうにブレイヴを見つめている。
 何を声にすれば幼なじみを安心させられるのだろう。どうすれば幼なじみを守れるのだろう。言葉だけでは足りない。それが、もどかしい。
「わたし、むかしのままだね」
「うん?」
「ちいさい頃、泣いてばかりだったでしょう? だからいつもあなたやディアスを困らせていたし、ねえさまには怒られてしまった」
「そうだったね……」
 レオナはブレイヴよりも二つ下の女の子だった。男の子は簡単に木に登れるのに自分だけがうまくできなくて、幼い姫君は大泣きをした。ブレイヴとディアスが白の王宮を訪れるのは限られていて、数日ともに過ごした幼なじみが国に帰るとき、やっぱり姫君は泣いた。
 泣いてもいいよ。ブレイヴがそう伝えるよりも前に、彼女はもう泣き止んでいた。衝動的に抱きしめていた。どうにか落ち着かせようとして、力を込めすぎていたのかもしれない。一人分の距離を空けると、レオナはとっさにブレイヴの袖を掴んだ。
「まって、ブレイヴ。わたし……まだあなたに、言っていないことがあるの」
「言っていないこと?」
 幼なじみはうなずく。
「白の王宮には王しかいない。わたしだけじゃない。義理姉様も、マリアベル王妃も王都にはいないの」
 ブレイヴはまじろぐ。レオナ同様に王妃も王都の生まれだ。他に縁のある場所が思いつかないし、内密にする理由もわからない。
「隠していて、ごめんなさい」
「いや、謝らなくてもいいよ。でも、だとしたらマリアベル殿下はどこに……?」
「ルダ、よ」
 ルダ。ブレイヴも口のなかで繰り返す。城塞都市とおなじく、イレスダートの北に位置する公国だ。春や夏が短く、一年でもっとも冬が長い。国として機能しているのはそこに魔道士が多く生まれるからであり、しかし他国の人間には耐えられまい。王妃マリアベルは身体の弱い人だった。なぜ、そんな場所に送ったのか。いくら考えてみても王の真意は読めない。
「ねえさまは、子を身籠もっているの。それなのに……」
 ブレイヴには声が紡げなかった。王妃が懐妊したのはこれがはじめてだった。いまがもっとも大事な時期だというのに、アナクレオンという人は何を考えているのだろう。
「もしかしたら、兄上はひとりで戦おうとしているのかもしれない」
 近しい者を王都から遠ざけた理由は、北のルドラスとの戦争がそれほど逼迫しているからか。あるいは、外からの敵よりも内の敵を警戒しているのか。 
「だから、わたしたちを王都から離して」
「もし、そうだとしても、陛下は一人ではないよ」
 そうだ。イレスダートには、王都マイアには白騎士団がいる。彼らは王の盾であり、何があっても王を守る。
「だいじょうぶだよ、レオナ」
 気休めの声なんかではなかった。動揺しているのはブレイヴもおなじだった。けれど、この形容のできない違和感はなんだろう。アルウェンの声が蘇る。王もまた、ただの人なのだと。道をたがえることもあるのだと、そう言う。
 大丈夫だ。ブレイヴは口のなかで繰り返す。アナクレオンはけっして間違ったりはしない。


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