三章 微笑みと、約束と、笑顔と

あいを知るひと

「恋を知らずに育ってきたけれど、本当は恋をしていたのだわ」
 レオナに微笑みかけるそのひとは、やさしい声でそう言った。
 オリシス公爵の妻テレーゼとの会話はこれが三回目だった。アストレアから逃れた砂塵の街で砂嵐が収まるのを待って、それからオリシスへとたどり着いたのが五日後のことだ。長旅に疲れたレオナたちを、アルウェンとテレーゼがあたたかく迎えてくれたのが最初で、落ち着いた頃にお茶を運んでくれたのが二回目。そして、この日のレオナはテレーゼの部屋へと招かれている。ちょっとした茶会に誘ってくれたのはテレーゼで、けれどもここに侍女の姿は見えずに、テレーゼとレオナと傍付きのルテキアだけだ。
「ごめんなさいね。ロアにも声をかけたのだけど、他に用事があるのだって。断られてしまって……」
「いいえ、気になさらないで」
 レオナは陶器へと手を伸ばして口付ける。テレーゼが淹れてくれた香茶は果実の香りがしてほんのりと甘かった。円卓には焼き菓子が並んでいて、これもテレーゼが焼いてくれたものだった。趣味のひとつだと言う公爵夫人の笑みが自然ですごくやさしくて、レオナは安心とともに親近感を抱く。
「こういうのは、侍女や自分たちの仕事なのだって料理長はそう言います。でも、アルウェン様は許してくださるの。昔からアルウェン様は林檎のパイが好きでしたから、きっと自分が食べたかったのね」
 少女みたいに笑うテレーゼにつられてレオナも笑ってしまった。オリシス公爵は、兄アナクレオンの古い友人としか知らなかった。ちょっと可愛らしい一面もあるだなんて、その感想は自分だけに仕舞っておこうと、レオナは思う。
「ずっとむかしから、長いお付き合いがありますのね」
「はい。はじめてアルウェン様にお会いしたのは、私が八歳の頃でしたわ」
 レオナはまじろぐ。テレーゼとアルウェンは年が離れているときいていたからだ。
「ええ。あの方は十八歳で成人したばかり。だから私たちは、本当に大人と子どもみたいでした」
「でも……、その頃には婚約が決まっていらしたの?」
 今度はテレーゼが瞬く番だった。
「不安がなかったと言えば嘘になります。でも、こわくなんてありませんでした。だって、アルウェン様はちゃんと私を見てくださいましたから。もちろん最初は、子ども扱いされましたけれど……」
 そうして、彼女は言う。きっと私の方が先に恋に気がついたのだ、と。
 そわそわして、落ち着かないのはなぜだろう。アストレアでも女の子たちの恋愛話をたくさんきいた。どの娘の瞳もきらきらと輝いていたし、とっても素敵な笑顔が印象的だった。年上の姉さんたちが娘たちにあれこれと助言をする。みんながきゃあきゃあ言って騒いだり恥ずかしがったりと、でも本当にたのしそうだった。レオナの目の前にいるテレーゼという人の目も、幸せに満ちている。彼女はまっすぐなあいをアルウェンに向けていて、またおなじくらいの愛情を夫から受け取っている。そういう風に、レオナには見える。
 くすぐったいような気持ちになるのは、二人に憧憬しているからかもしれない。
 そもそも上流貴族同士のあいだでは政略結婚がほとんどだ。それが公爵家の人間ならばなおのこと、抗う術はない。だから、レオナは思わず失言してしまった。まだ幼い少女が勝手に決められた婚約者に、それも歳の十つも離れた相手を嫌ではなかったのかと。
 いずれ夫婦となる相手に対して、たしかに何らかの情を感じるだろう。けれど、そこから恋人とおなじ愛を育むことができたのは、アルウェンとテレーゼだったからだと、レオナは思う。同時に苦しくもなった。叶わない恋をしている。いま幼なじみは前よりもずっと近くにいるのに、いつか離れるときが来るのだ。いつかなんて来なければいい。独り善がりの声は外へと出してはならない。
 空になった茶器に香茶を注いでくれたのはルテキアだ。
 レオナの傍付きは、こういうときいつも居心地悪そうにしているのに、今日はなんだかやさしい。
「気に入ってくださったみたいで、よかったわ。レオナ様はお酒を嗜まれる方ですか? オリシスは葡萄酒も自慢の一品なのです」
「まあ……。すこし、残念だわ。わたし、お酒はあんまり得意じゃなくて」
「よかった。私もおなじです。大人になってもちっともお酒の良さがわからなくて。でも、アルウェン様もロアも毎年たのしみにしているみたいです」
 それからテレーゼはいろいろな話をしてくれた。
 オリシスの朝市はいつも賑わっていて、目当ての商品は早めに出かけるのがよいらしい。おすすめは焼きたてパンの店と果物屋さんで、特に後者はときどきおまけをしてもらえるとか、銀細工の装飾品の店主はちょっと変わり者で気をつけないと紛い物を売り付けられるだとか、とにかく朝市はたのしそうだ。今度、一緒に行きましょうねとテレーゼと約束をして、そうして次の話題はオリシスの兄妹へと移る。幼い頃からアルウェンを知っているテレーゼは、同時にその妹のロアのこともよく理解している。オリシスの公女としてではなく、ロアは一人の騎士として兄とおなじ道を歩んでいるのだと、テレーゼは言う。
 レオナがロアと会話をしたのは、道中で必要な一言、二言くらいだった。あの砂塵の街で会った異国の剣士クライドと知り合いようで、けれどもどういう経緯があるのかはわからない。幼なじみも特に何も言わないから、彼もそれ以上は知らないのだろう。
 やっぱり、女の騎士はみんな似ているみたい。レオナは隣で黙ったままのルテキアをちらっと見る。騎士はただ静かに見守っているだけだ。部屋の扉をたたく音がしたのはそのときだった。
「あの、私をお呼びだと、きいて……」
 半分だけ開いた扉の向こうには金髪の少女がいる。胸に抱いた分厚い本は、まるで自分自身を守っているみたいだ。 
「まあ、ロッテ。待っていたのよ。あなたも、こちらにいらっしゃい」
 少女もテレーゼに誘われていたのだろう。それなのにあたたかく迎えるテレーゼに対して、少女は急に表情を変えた。
「あ、あの……っ! 私、今日は大聖堂に行く約束を、しているんです。それに、本も返しに行かないと……。ごめんなさい。失礼、します」
 金髪の少女は矢継ぎ早に声を落として、テレーゼの返事を待つよりも早くそこから立ち去ってしまった。逃げたうしろ姿に向けてテレーゼはため息をする。沈黙の時間は数呼吸のあいだだけで、振り返ったとき彼女は微笑していた。
「ごめんなさい。すこし、人見知りなのです。普段から大人しくて」
「気になさらないで。でも、あの子は……?」
 興味本位ではなかったけれど、ふいにテレーゼの表情が曇った気がした。
「あの子はシャルロット。私の、娘です」
「え……?」
 思わず声が出てしまった。テレーゼはちゃんとレオナと向かい合ってから、つづけてくれる。
「ロッテは孤児なのです。縁があってアルウェン様が引き取り、養女として公爵家に迎えました。もう三年になりますが、あの子は私たちをなかなか受け入れてはくれなくて……」
 ごめんなさい、と。つぶやいたつもりが声にはならなかった。
 亜麻色の髪の毛を丁寧に編み込んだテレーゼと、先ほどの金髪の少女では容貌がまるで似ていないし、なによりもテレーゼの歳はレオナのひとつ上だ。本当の娘ではないことなんてすぐにわかるはずなのに、レオナは彼女に悲しい顔をさせてしまった。それに、シャルロットはオリシスの娘ではないのかもしれない。象牙色の肌、やわらかく波打った蜂蜜色の髪の毛に藍色の瞳は、オリシス人にはめずらしい色だ。
「あの子の母親を私は知っています。大聖堂で働いていて、いつも疲れた顔をしていました。あまり身の上を話さなかった人ですが、西のラ・ガーディアの生まれなのだと、それだけ教えてくれました。父親のことは、なにも……」
「そう、だったのですね」
 他に言葉が見つからなくて、レオナは視線をおろす。白の王宮で守られて育ってきたレオナは外のせかいを知らない。ずっと戦争ばかりを繰り返しているイレスダートの他にも、たくさんの国がある。西の大国ラ・ガーディア。レオナが知っているのは、名前くらいだ。
「戦争は、いつも奪ってしまう」
 独り言のように、落ちた。レオナの胸が早鐘を打ちはじめる。 
「あの子の生まれた国も、そうだったのでしょうか。イレスダートは、ずっと戦争をしています。こんなことを言ってはならないことなんて、わかってはいます。でも、私は……。避けられないのならば、早く終わってほしいのです。あの方は、もう戦えません。けれど、情勢が悪化すればどうなるかだなんて、誰にもわからないのです。このオリシスまで戦火が及べば……あの人は、また行ってしまう」
 テレーゼの手が所在なさそうに、陶器に触れたり離れたりをする。
「次はもうオリシスに帰ってこないかもしれません。私は、それがこわいのです。公爵の妻、失格ですね」
「そんなこと、ありませんわ。お気持ちはわかります。わたしも、おなじですもの……」
 皆、北の敵国をおそれている。いや、そうではない。人と人が憎しみ、戦い、殺し合う。戦場こそが騎士の場所だ。そのために、騎士は存在する。けれど、騎士ではないレオナには理解ができない。ルドラスはレオナから父親と姉を奪った国だ。
 涙を堪えているのか、テレーゼの手は震えていた。
 争いは、北のルドラスだけではない。戦争で国が乱れたときに、あちこちで争いが起こる。オリシス公はそこに巻き込まれたのだと、きいたことがある。そうだ。オリシス公アルウェンは、もう戦えない人なのだ。戦場で負った傷は完治していないために、アルウェンは利き手を自由に使えなくなった。歩行だって満足にいかない。腰と左脚に負担がかかるので、医者は未だにアルウェンに休養を要する。それでは公爵の仕事にならないとアルウェンは無理をして、テレーゼを泣かせてしまう。
「きっと、あの人は陛下の傍に居たいのです。王都マイアに行きたいのです。本当にアルウェン様が望むのなら、私は止めたりしません。でも……、どうしてかしら? そんなことはもう起こらないのだって、思ってしまっている。マイアは、白の王宮はオリシスを必要としていない。だから……」
 王都マイアで軍事会議が開かれたのは春先で、しかしそこにオリシス公アルウェンの姿はなかった。王に近しい人間だと認められたがために、元老院はオリシス公を危険視しているのだろうか。アルウェンは騎士として、一度失敗をした。それが理由で王都から離したのなら口実に過ぎない。けれど、レオナは知っている。兄の落とした声を。  
「ギル兄さまは、いつもアルウェン様を案じていましたわ。離れていても、ふたりはきっと友人のままだと、わたしはそう思いますもの」
 だいじょうぶ。アルウェンはちゃんとわかっている。戦争がアルウェンから剣を奪ったとしても、白の王宮がオリシス公爵を見限ったとしても、イレスダートの王はアルウェンを心のなかから追い出したりはしない。レオナの兄は、そういう人だ。
「ありがとう、レオナ様。だめね、私。はじめてお会いする方に、こんな弱いことばかり言ってしまって。アルウェン様に、叱られてしまいます」
 恥ずかしそうにうつむくテレーゼに、レオナは笑む。
「ほんとうに、あいしていらっしゃるのね。アルウェンさまのことを」
 テレーゼは自分を弱いと言ったけれど、その反対だとレオナは思った。あいするひとを案じて、そして守りたいと願うのは自然な感情だ。レオナの前にいるこの人は、アルウェンを信じているからこんな風に微笑むことができる。
「雨が……、また降ってきましたね」
 窓の外を見つめながらテレーゼが言う。オリシスに来てからというもの、雨がつづいてばかりだ。きっと、白の王宮も雨期に入っているはずだ。庭園の薔薇たちは雨に濡れてもいっそう綺麗に見えるけれど、ずっと部屋に籠もりきりになるからレオナは雨の日が好きではなかった。
 それなのにどうしてだろう。いまは、こんなにも懐かしく感じる。やがて雨が終わって、次の季節がはじまる頃に自分がどこにいるのかなんて、わからない。こたえが見つからないのではなく、求めることをレオナはおそれているのだ。


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