三章 微笑みと、約束と、笑顔と

アナクレオンの怒り

 長雨の時期もようやく終わり、やわらかな陽射しが戻ってきた。
 ムスタール公爵ヘルムートは騎士の訓練を見届けたあと、執務室へと引き返す。午餐の時間はとっくに過ぎていたが、山積みの羊皮紙が彼を待っているからだ。
 連日の大雨はイレスダートの北部に甚大な被害をもたらした。
 山が崩れて村ひとつが無くなった。救援に向かおうにも道が寸断されたまま、ようやく土砂の撤去がはじまったばかりで、他にもまだ孤立している村がある。彼らを救うために必要なのはとにかく時間と人手だ。
 物資の支援は王都マイアから十分に届いているものの、民の要望は尽きない。ムスタール公爵はこれらに真摯に応えているとはいえ、しかし黒騎士ヘルムートはある懸念を消せずにいる。いま、ルドラスに攻め込まれたら一溜まりもない。
 ここよりさらに北、城塞都市ガレリアを思う。
 雨の被害は特に北に集中していた。沃土に乏しい北の大地はただでさえ貧しく、王都の支援なくして民は生きられない場所だ。こんな状況では北の敵国の攻撃に持ち堪えられないと、ヘルムートはそう思う。白の王宮はルドラスを軽視しているので、必要以上の兵力をガレリアには預けない。聖騎士が罷免されたためにアストレアの蒼天騎士団も不在で、代わりを務めているのがランツェスの炎天騎士団とホルスト公子だ。
 ヘルムートは眉間を揉みほぐす。羊皮紙に向かっていたのに、どうにも筆が進まないのも別のことを考えているせいだろう。ベルを鳴らして扈従こじゅうを呼ぶ。軽食を用意させているあいだに手紙を綴ることにした。宛先はランツェス公爵だ。
 ランツェスはムスタールよりも東にする公国だが、雨の影響を逃れている。
 豊かな土壌と鉱物が取れる土地に、北寄りでも城塞都市に比べたらずっと暮らしやすい国だ。いかに書面とはいえ、二回りも年下の小僧にとやかく言われたらランツェス公爵も怒るだろうか。彼は固陋ころうなたちだ。
 わかっていながらも、ヘルムートは筆を進める。
 北には城塞都市ガレリアと魔道士たちの国ルダ。けっして軽んじているわけではないが、ルダもアストレア同様に小国である。そして、アストレアは白の王宮より嫌疑がかかっているときく。南のオリシスからはさすがに遠い。となれば、危急の際に動けるのはムスタールとランツェスだけだ。
 扈従が戻ってきた。しかし手に持っているのは封書で、その顔もどこか緊張していた。
「白の王宮からです。公爵に直接渡すようにと言付けられました」
 白の王宮、つまりは送り主は元老院だ。こうやって頻繁にムスタール公爵に手紙を送りつけてくるものの、それはあの羊皮紙の束のどこかに挟まっている。奴らはヘルムートに無視されているのをわかっているので、わざわざそう命じたのだろう。普段はこのまま捨て置くヘルムートでもさすがに扈従が気の毒に思えた。封蝋を切って書面に目を走らせる。いくらかもしないうちにヘルムートは唸った。
「なに……?」
 そこにしたためられていたのは訃報だった。
「公? そこには、何と……?」
「オリシス公が亡くなられた」
「アルウェン様が?」
 信じられないという声を扈従はする。ヘルムートもおなじ気持ちだった。オリシスのアルウェンが病に伏せているなど耳にしたこともなかったし、戦死したわけでもない。なによりオリシス公は戦えない身体だった。不自由を強いられていたときく。それが悪化したのだろうか。そのつづきを見てヘルムートはさら眉を険しくした。
 ムスタール公の手が震えている。オリシスのアルウェンとは親しい仲だった。突然の訃報に悲しんでいるのだと、そう扈従の目には映っているのかもしれないが、しかしそうではない。驚愕と怒り。いま、ヘルムートの心を支配しているのはそれだ。
「コンスタンツをここに」
 感情を抑えた声でヘルムートは言った。扈従は余計な声をせずにすぐに従った。ヘルムートは意識して呼吸を繰り返す。アルウェンが死んだ。いかに元老院とはいえ、たちの悪い冗談で寄越すとは思えない。これは、たしかな事実だろう。だが、そのあとはどうか。ヘルムートは窓の外を見つめる。晴れ渡った空が見える。春が訪れていてもムスタールはまだ肌寒かった。聖騎士に会ったのはその時期だった。
 元老院は本気でアストレアを手に入れるつもりらしい。
 怒りを通り越して失笑しそうになる。聖騎士がガレリアを離れたのも下命ではなかったのかもしれない。アストレアは元老院に疑われている。公子がアルウェンを頼ってオリシスに身を寄せたまではわかる。それが、なぜオリシス公の死に繋がるというのか。
「お待たせいたしました」
 妻女はすぐにヘルムートのところへ来た。
「コンスタンツ。私はすこしムスタールを空ける」
「はい」
 余計な言葉は一切出さない妻だ。彼女は静かにヘルムートを見つめている。
「王都マイアに向かう。国王陛下に目通りを願いたい」
 代筆を頼むという意味だが、彼女はそこで怪訝そうな顔をした。
「どうした?」
「すぐに経つおつもりですか?」
 あらかじめ手紙を送っていれば、ヘルムートが王都に着いてからそう時間は要らずに白の間に入れるだろう。その算段だったが妻は理解しているはずだ。
「明日は、お約束があったのでは……?」
 ヘルムートは目をしばたいた。失念していたのは冷静さを欠いていたせいかもしれない。深く息を吐いて、しばしの時間を置く。来客すべての相手をしてしまえば公爵の一日はそれだけで終わる。だから扈従や妻女が取り成して、それからヘルムートの都合に合わせる。勝手に訪れてカウチで香茶をたのしむような元老院は別だったが。
 王都の騎士とは伺っていても名前まではきいていなかった。ヘルムートは口のなかで言う。コンスタンツが連れてきた女騎士は息子の教育係になった。二人いる息子たちの教育はすべて妻に任せているので、それが事後報告であってもヘルムートは承諾する。約束の時間を設けていたのも公爵への挨拶だろう。その女の生まれがただの貴族ではないということだ。
「新しい教育係の名は、何と言う?」
「イリア・クレインと申しました」
 クレイン、と。ヘルムートは口のなかで繰り返す。
 敬虔なるヴァルハルワ教徒の一族だ。だが、当主であったクレイン侯爵が病に倒れてしまってから、クレイン家は力をなくしている。他に兄妹は妹が一人、たしか王都のレオナ王女の傍付きだ。
 考えすぎだろう。ヘルムートは思考をそこで止める。レオナ王女は王都マイアの白の王宮にいる人だ。傍付きだけがこのムスタールにいるなどあり得ない。 
「火急の用件が入ったと、イリアにはそう伝えましょう。分別のある人間です。本人は自分が騎士だということ以外、喋りませんでしたが」
 ヘルムートは顎を引く。正直に身分を明かすくらいだ。クレイン家の未来は明るくないのかもしれない。助けてやりたいところでもいまはそのときではなかったし、ヘルムートがすべてに置いて優先するのはイレスダートであり、玉座にいる王だ。
 その日のうちにヘルムートはムスタールを経った。
 麾下も扈従も伴わなかったのは、彼自身すぐに帰るつもりだったからだ。ヘルムートは黒騎士としての名をイレスダートに轟かせている。優秀な騎士であり公爵としてもムスタールの民から慕われているし、至誠しせいな人間だった。
 ムスタール公爵に宛てられた元老院からの手紙にはこう書かれていた。オリシス公は病死などではなく暗殺された。それには聖騎士が深く関わっているにもかかわらず、国王陛下は公とせずにあろうことか聖騎士を庇うつもりだ。正せるのは黒騎士ヘルムート置いて他に誰がいようか。直ちに王都へと馳せ参じて王に直諫ちょっかんせよ、と。
 厭忌えんきしている相手の言葉を素直に信じたわけではなかったが、しかしヘルムートは王都へと行かねばならなかった。このような衆口しゅうこうが広がっているのが問題なのだ。ここまで元老院の力が強まっているのなら、末姫であるレオナ王女の身も危ぶまれるのではないかと、ヘルムートは思う。側室の子である末姫を奴らは軽視していた。
 ムスタール公ヘルムートは、まだ知らない。
 王女はすでに白の王宮の箱庭ではなく、イレスダートではない外の国にいることも、そこには聖騎士の姿があることも。そして、すべてを知る王女の傍付きがこのムスタールに身を置いていることも知らない。 
 黒騎士ヘルムートには光しか見えなかったし、彼は闇を信じようとしなかった。だからこそ危ういのだ。光が強すぎる者ほど、容易く闇へと呑み込まれてしまう。










 白の王宮には一部の上流貴族のみが集う談話室サロンがある。
 老爺や青年貴族まで身分は等しく、彼らは元老院議員と呼ばれている。王の諮問しもん機関とも言える彼らはイレスダートの国政を担う義務があり、彼らはその自負を持っている。そこで談笑される内容と言ったら苛烈かれつなこと、もっとも入室を許可された執事や侍女もまた元老院派の人間だ。
 そこには十人ほどが集まっている。
 円卓にはオリシス産の茶葉をたっぷり使った香茶に、最高級の牛酪バターや砂糖を使った焼き菓子が並べられている。なかには葡萄酒ワインを好む者もいたが時刻はお昼であったし、彼らはこのあと晩餐会で奢侈しゃしな夕食をたのしむ予定だ。
 先ほどから喋り通しているのは青髪の青年貴族だ。ひと月ほど前に爵位を継いだばかりの青年だが、ここにいるからには同等の立場であると思い込んでいる。年長の者たちはほとんど彼の話をきいておらず、相槌を打っているのは黒髪の男だった。こちらもまだ若い。
「ですから、いま一度国王陛下に建白けんぱくすべきだと申しあげているのです」
 唾を飛ばす青年貴族に黒髪の男が香茶のお代わりを勧める。若い彼は葡萄酒よりも香茶を好んでいたが、子ども扱いされているの誤解したのだろう。露骨にむっとした顔を作っている。
「聖騎士殿とアナクレオン陛下は昵懇の仲ですからねえ。庇うのは当然でしょう。しかしながら、アストレアの公子がオリシス公を屠ったとは……」
「なにを笑っておられるのです! これは、国を揺るがす一大事だというのに」
「いやはや、まったく以てそのとおり。ですが、その証拠がない」
「証拠など……」
 そこで青年貴族は押し黙る。黒髪の男は香茶と焼き菓子をたのしんでいる。
「証左などわかりきっておる。かの聖騎士はオリシスにいたのだぞ?」
「それは貴方方がアストレアを追い込んだからでしょう? 聖騎士殿がアルウェン公を心頼りとするのは当然です」
 援護射撃する壮年の貴族に、黒髪の男は不敵に微笑む。
「貴様、我らを愚弄しているのか……?」
「まさかそんな」
 両手をあげて降参の意を示す。得とならないものには手を出さないのが男のやり方だ。黒髪の男は裕福な商家の生まれであったが、ここまでのしあがってきたのはこの男の才能だろう。
「起こってしまったことを言い争ったところで、なんにもなりませんよ。儲けものだと考えるべきです。アストレアは楽に手に入ったし、オリシス公は我らが動かずとも退場したのですから」
 一同が顔を見合わせる。咳払いがきこえた。
「失礼。さすがに失言でしたね。オリシス公を誰が暗殺したのか……気にはなるところですが、問題はそこではない」
「さよう。陛下はこの件に関して黙秘をつづけている」
 皆の視線が初老の侯爵へと向かう。黒髪の男がにやっとする。
「そういうことです。アナクレオン陛下は殊に身内に甘い。たしかに見逃しては置けませんねえ」
「なあに、それこそ我らが動かずとも良い」
 老者はずっと彼らのなかにいたが、ここではじめて発言した。
「城塞都市はこのままランツェスの公子に預けておけば良いし、アストレアは問題なかろう。喪が明けたらすぐにオリシスのロアに接触する。サリタ攻略とてランドルフ卿ならば容易かろう。それから、」
「ムスタール公爵、ですね?」
 相槌を打った黒髪の男に向けて老者は笑む。この男はなかなか賢い。ガレリアは常に監視させているし、アストレアを任せているのも黒髪の男の配下だ。オリシスにもすでに従者を忍ばせているのだろう。そして、ムスタールの黒騎士にも。そう、何の問題もない。すべては我らが思うように動いている。
「お、お待ちください……!」
 扉の向こうが騒がしくなった。この部屋に入れるのは許された者のみだ。ところが、執事の制止を無視して扉は開かれる。目を瞠った一同はすぐさま立ちあがった。
「ずいぶんと興味深い話をしているな」
「こ、国王陛下……」
 先ほどまでの剣幕はどうしたというのか。青年貴族が上擦った声を出して、黒髪の男はばつが悪そうに顔を伏せている。
「どうした? 遠慮なくつづきを話すがいい」
 ただちにその場に跪くか、あるいは平伏するのが正しい相手であったものの、しかし彼らはそれさえ忘れてしまっている。青玉石サファイアの瞳が見つめている。その色はひどく冷えていて、目の奥に見えるのは怒りであり侮蔑でもあった。
「これは国王陛下」
 老者は臣下として正しい挙措をする。
「さぞご多忙のことと、きき及んでおりまする。突然のことにゆえ、ご覧のとおり下々が口にする茶菓子しか用意しておりませぬ。どうか、ご容赦を……」
 慇懃無礼な物言いに対して、アナクレオンは眉ひとつ動かさない。王とてそこまで暇ではない。だからさっさと帰れとそう言っている。青年貴族はすっかり縮みあがっているし、他の連中も声もなくしてしまった。まったく無様なことだ。
「お前たちにたしかめたいことがある」
「ほう……?」
 老者は他の貴族たちを押しのけるようにして王に相対する。
「ランドルフ卿をサリタへと送ったのはお前たちだな? 私は何も許した覚えはないのだが?」
「これは申しわけございませぬ。しかしながら、」
「黙れ。求めているのは謝罪でも言い訳でもない」
 老者の顔が凍りついた。
「貴様らに命じる。即刻サリタから兵を退かせよ。同様にアストレアからもだ」
「これは……異なことを仰る。サリタはイレスダートにとって危険な街でありますぞ。それにアストレア。すでに公子はイレスダートにおりますまい。それを野放しにせよ、と?」
「王の声に逆らうつもりか?」
「し、しかし国王陛下、我々は……」
 差し出し口をたたく壮年の貴族に対して、アナクレオンは片手をあげた。王が本気ならばその場で馘首する。相手が元老院であろうとも。
「すこし、落ち着かれてはいかがかな? 我らはイレスダートの明日を憂いております。こうして陛下をお諫めすることもございましょうぞ。すべてはイレスダートのために。そして、レオナ殿下の御身を案じてのこと」
「何を持ち出すかと思えば、あれを疎んじていた貴様らの言葉とは思えないな。何より思い違いも甚だしい。あれは元よりこの王都から外には出ていない」
「ほう? これはおかしいですなあ。王女をアストレアで見た者もオリシスで見た者もいるというのに」
 冷笑を浮かべていたアナクレオンの顔からすっと表情が消えた。
「それは、貴様の目で見たことか?」
 なにを、と。問う前に手はもう老者の顔へと伸びていた。骨張った老者の頬にアナクレオンが触れる。
「へ、陛下……」
「それは、貴様がその目で本当に見たことか?」
 そして、次の瞬間だった。
「ぎゃあ!」
 老者は王の手を振り解く。異物感と強い痛みに何が起こったのか、はじめはわからなかった。老者は左目を覆いながらうずくまる。王は、本気だった。本気で老者の眼球を抉り出そうとしていた。目から流れ落ちるのが涙なのか血なのかわからない。激痛に喘ぐ老者を王は逃さない。
「貴様らはよほど私を怒らせたいようだな」
 声音は先ほどよりもずっと穏やかにきこえた。だが、そうではない。アナクレオンは彼らを許すつもりなどないのだ。胸倉を掴んで王は老者を立ちあがらせる。細い枯れ木のような首が露わになった。そうして老者は息ができなくなった。
「へ、陛下!」
「何をなさるのです!」
「お、おやめください! どうか……」
 老者には周りに声など届いていない。最初は抵抗していた老者も呼吸ができない苦しみに意識が朦朧としていた。それでも身体は必死に生へと縋りついている。老者の唇からは泡が拭きだしている。目からは滂沱ぼうだの涙が流れている。息をすることも声を出すことも叶わない。腕や足が動いているのも自分の意思ではなかったし、垂れ流した尿の熱さにも老者は気がつかない。皆が王へと懇願の声をするものの、しかし本当に王を止められる者などここにはいなかった。殺される。老者はそれが恐怖だと、生まれてはじめて知った。
 突然、身体が楽になった。桎梏しっこくから解放された老者は何度も咳き込んでは、とにかく肺へと酸素を送り込むのに必死だった。宥めて身体を気遣う周りの声がはっきり届いた頃には、すでに王の姿は消えていた。
 老者の唇が呪詛を繰り返している。
 このときの一件から、元老院は嘘のように静かになった。軍事や国政に関わる会議に置いて発言もほとんどなく、イレスダートを統べるのはまさしく王だった。老者は周囲が止めるのも無視して、そこへと居座りつづけている。以前のような饒舌さはなくなり、いまみたいにずっと呪いの言葉を吐いている。皆は老者に隠居を進めるもののきき入れずに、あるいはその声さえも届いていないのかもしれない。そうしたあの日、黒髪の貴人が老者の元に医者を連れてきた。
「すこしお疲れなのでしょう。彼の腕はたしかですから、安心して休まれたらいい」
 彼、と称したものの容貌からは男か女か判断が難しい相手だった。白肌と青の瞳。アナクレオンの青玉石色の目を思い出して、老者は急に暴れ出した。
「お可哀想に。でも、心配は要りません。上手くいかないのであれば、ちからを貸してあげますよ?」
 それが黒髪の貴人の声であったのか、それとも彼が連れてきた医者の声であったのか。老者は覚えていない。しかし、老者はたしかに見たのだ。闇のなかに光が見える。あれは、イレスダートを導くひかりだった。  


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