三章 微笑みと、約束と、笑顔と

西へ

 台所から香ばしいにおいが届いてくる。
 すこし前に聖堂を訪れた巡礼者が無花果いちじくを置いていってくれたのだという。三日ほど外に干して、それからナッツと一緒に混ぜてパンを焼く。マザーの得意料理のひとつだそうだ。
 女の子たちはマザーの真似をして、粉を捏ねたり引っ張ったりたたくのを繰り返す。男の子たちは大騒ぎするので台所を追い出されて、それでも気になって何度も戻ってくる。固くて酸っぱい黒パンばかりを食べている子どもたちには、とっておきのご馳走だ。
 無花果を乾燥させているあいだに、修道院に役人たちが来た。
 穀物粉はたっぷりひと月分と牛酪バター、他にもニシンの塩漬けやソーセージなどの保存食に、突然の来訪者にマザーは真摯に対応しても届けられた食糧には驚いたらしい。でも、その理由はすぐにわかった。
 ここの子どもが一人亡くなった。役人たちはそれには触れずに勝手に納屋に置いていく。いきなり困ります。固辞しようとするマザーに、これは余り物なのですと冷たく言い放つだけ。これは売りものにならない粗悪品だよ。だから気にせず貰っておけばいい。騒ぎをききつけたデューイがマザーの肩をたたく。老女は複雑そうな表情をするだけだった。
 子どもたちはパンに夢中だけれど、いなくなった子のことを忘れてはいない。
 誰も子どもの名前を言わないのは悲しみを乗り越えるためだ。そう、デューイが言う。けれど、あの子が目覚めたらきっと兄の名前を呼ぶ。レオナはそれがこわかった。
 焼きたてパンの良いにおいがする。
 夕食がはじまる前に、レオナはここを去らなければならない。寝台には一人の少女の姿があった。熱もさがって起きられるようになったものの、顔に血色は戻っていないし痩せたように見える。
「マザーが手紙を書いてくださるの。すこし時間はかかるけれど、でも必ずオリシスに届くわ。そうすれば……」
 彼女を迎えに来てくれる。レオナは早くシャルロットをオリシスに返してあげたかった。望んでここにいるわけじゃない。マザーはやさしく接してくれるし、子どもたちもときどき来てくれる。それでも、ここは彼女の居場所ではないのだ。
 藍色の瞳がレオナを見つめている。
 これからのこと、ぜんぶを包み隠さずに話した。西の大国ラ・ガーディア。レオナも知らない国に行く。話しているあいだもシャルロットはずっと黙っていた。まるで声を忘れた子どもみたいに。無理はないと思う。彼女は目の前で養父を亡くしたのだ。
「もうすこしだけ、ここにいてくれる?」
 別れの時間が迫っている。台所ではルテキアがレオナを待っている。傍付きはすっかり子どもたちに懐かれていて、さよならを言ってしまえば皆泣いてしまうので、こっそりここを出て行かなければならない。
「ロッテ。きっと、また会えるわ。だから――」
 それ以上の言葉が紡げなかった。彼女を巻き込んでここまで連れてきてしまったというのに、置いていくしかないのだ。藍色の瞳が物言いたげにこちらを見つめている。ひどいことをしているという自覚はある。でも、連れてはいけない。幼なじみもその方がいいと、そう言ってくれた。これからレオナが行くのはイレスダートをもっと離れた西の国だ。
 少女の手がレオナの腕を掴んでいる。振り払うことはできずに、レオナは彼女の髪をやさしく撫でた。ちいさい頃に姉がそうしてくれるみたいに、落ち着くまで少女を抱きしめる。さよならの時間が来る。そのとき、少女の唇がかすかに動いた。
「シャルロット?」
 呼びかけたものの、薄い唇からは声は漏れない。
「あなた、もしかして声、が……」
 レオナはもう一度、シャルロットを抱きしめた。




 とにかくルテキアに先に知らせなければ。
 レオナは台所へと急ぐ。子どもたちが歌う声がきこえてくる。あれはりゅうのうた。教えてくれたのはキリルだった。
 最後に会って行くべきなのだろうか。アステアが調合してくれた薬は良く効いている。熱はあがったりさがったりを繰り返しているそうだが、これも治る兆候だ。ちゃんと話ができるかどうか、それでもレオナの心は決まっているというのに。
「お別れは済みましたか?」
 マザーだった。手には書き終えたばかりの羊皮紙が握られている。レオナはマザーの目をまっすぐに見れない。老齢の修道女はひとつため息を吐いた。
「もう、やめにしませんか?」
 レオナの肩がちいさく震えた。聖者は敬虔なる教徒の懺悔も悔恨もすべてを受け入れる。だから相対した者の目を見るだけで、心のなかを見ることが可能だ。
 いまでこそ元気に見える子どもたちも、一人が戻ってこないことを知ると、その晩はずっと泣いていた。皆がくっつき合って眠って、でも朝になると年長の女の子が姉さんらしく皆をたたき起こす。そうしていつもどおりの一日がはじまる。あいつらは強いんだ。デューイの声が耳の奥で残っている。
「自分を責めることは、自分を楽にするための手段に過ぎません。誰かのせいにするのは簡単で、でもそれであなたは納得ができますか?」
 きっと自分を許せなくなる。それでは弱い人間のままだ。涙が頬を伝わっていく。もう泣かないと決めたはずなのに、意志の弱い自分が嫌になってくる。
「わたし、わたしは……」
「どうか謝らないでくださいね。あなた方の事情はすべてきいております。でも、それでも子どもたちはここで生きていかなければならない」
 そうだ。彼らの居場所はここにしかない。
 許してくれるのだろうか。ちがう、そうじゃない。マザーはレオナをもっとひどい言葉で責めることもできたし、これ以上関わらないことだってできた。それなのにこれからの道を示してくれる。それはけっして同情などではなかった。
 マザーはレオナに一揖いちゆうして、寝室へと入って行った。キリルの様子を見に行ったのだろう。あの子がちゃんと目覚めたときに、マザーは彼の兄が帰ってこないことを告げなければならない。
「強い人だよ、あのひとは」
 いつのまにかデューイがそこにいた。
「あの人、イレスダートの出身なんだよ。いつから修道女をしているかなんて知らないけど、きっといろんなものを見てきたんだろうな」
 レオナはうなずく。薄藍の瞳はいつ見ても疲れた色をしていたし、白金の髪だってひどく傷んでいる。
「で? 俺には別れの言葉のひとつもないわけ?」
「ご、ごめんなさい。その……」
 失念していただなんて言えなかった。デューイはにやっとする。
「冗談だよ。でもさ、彼女どうするの?」
 シャルロットのことだ。そういえばデューイは以前から少女を気にしてくれていた。
「……知っていたのね?」
 赤髪の青年はどこか気まずそうに目を逸らす。もしかしたらマザーも、少女声を失ったことに気づいていたのかもしれない。だから、彼女をここに託したときに嫌な顔をしなかったのだ。
「どうしたらいいかなんて、わからないの。でも……」
 ここに残して行くことが正しいなんて、本当に言えるだろうか。置いていかないで。レオナにはそうきこえた。彼女はこの先の見えない旅にも自分の意思を示している。
「ま、そう重く考えなくてもいいよ。ラ・ガーディアも良いところだよ。フォルネに入ってしまえば安全だし、これだけの人数だ。野盗も襲ってこないだろ」
 デューイは片目を瞑ってみせる。
「行ったことがあるみたい」
「俺は西の生まれなんだ。だから安心していいぜ」
 きょとんとするレオナにデューイは頬を掻きながら言う。
「あれ? ひょっとして、きいてない? 旅には案内役が必要だろ?」
「いっしょに、来てくれるの?」
「旅は道連れって言うだろ? そろそろ西に戻ろうと思っていた頃だし。公子には話を付けてるよ。でもさ、あの人ちょっと変わってるよな」
「どうして?」
 デューイはたのしそうに笑っている。他人から見たら幼なじみはそう見えるのだろうか。
「変わってるよ。そもそも聖騎士だなんて、強面のおっさんか素手で人をくびり殺すくらいの大男だと思ってた。でも、案外ちいさいし細いし」
 ずいぶんと勝手な印象だ。イレスダートには聖騎士が三人にて、そのうちの一人が女性だと言ったらデューイはきっと驚くと思う。それに身長や体格だってデューイもそれほど変わらないのにと、レオナが口のなかでぶつぶつ言っていたところでまだつづきがきこえてくる。
「それにさ、あんたのもう一人の幼なじみには睨まれるし、褐色の剣士は口もきいてくれないし。まあ、そういうのが普通の反応だと思うけどな」
 ディアスとクライドだ。あの二人ならばよく知りもしない他人に対して、たしかにそういう反応をする。幼なじみはどうやってデューイの同行を二人に許したのだろう。そのときの会話が目に浮かんでレオナはちょっと笑う。
「やっと笑った」
「あっ……」
「あー、ほら! そのままでいいって。あんまめそめそするなよ。あいつらはさ、聡いんだ。あんたが落ち込んでたら、あいつらまた泣いちまう」
 ここに戻ってくることがこわかった。けれども、子どもたちはレオナを見て驚かなかった。女の子たちはレオナの手を握ってくれた。年少の男の子はレオナに抱っこをせがんだ。デューイは黙って傍に居てくれた。
 ありがとう、ごめんなさい。そう言うと、デューイは困ったように笑った。あんた謝ってばっかだな。
 
  
 
 
 
 

 
 
 うしろから呼び止められて彼は足を止めた。
 老婆が人好きのする笑みで見つめている。坊や、迷子かい? 表の大通りにも人の姿はほとんどなく、皆は午後のお茶の時間をたのしんでいるか、子どもは午睡ごすいしている頃だ。
 彼はにっこりと微笑む。買いもの帰りなのだろう。老婆の両手は塞がっていて、大きな袋のなかには白パンやら野菜やら果実が詰め込まれている。そこにちょうど孫くらいの少年を見つけたものだから声を掛けた。つまりはそんなところだ。
 少年の容貌は十歳くらいの子どもに見える。一人でおつかいには行ける年頃だ。けれども、老婆は家路を急ぐよりも少年を呼んだ。親切心からそうしたのかもしれないが、彼の形貌けいぼうに目を惹かれたのもまたたしかだろう。実際、彼がこの街に来てからというもの、声を掛けてきたのは一人や二人ではなかった。
 親切な老婆にやさしい娘たち、大工仕事を終えた男たちも巡回をする騎士も少年を呼び止めた。皆に害意があるのなら彼はいちいち立ち止まって微笑んだりしないし、騒ぎになる前にもっと多くの騎士たちがすっ飛んでくる。ここは西の大国ラ・ガーディア。南のフォルネを北上するとウルーグに入る。それより北東に進めば乾いた風と荒れ地が待つイスカに、最北にはサラザール。ラ・ガーディアは四つの国で成り立っているが、ここはそのなかでももっとも大きく、そして国力を持っているのがこのウルーグだ。
 マウロス大陸の東には聖王国イレスダートがあるが、中心地となる王都マイアに作りも良く似ている。南には露天商が建ち並び東には大聖堂が、彼はずっと南から歩いてきた。女商人がお菓子をくれて老爺が親の心配をする。いちいち呼ばれるのも煩わしくて、彼はにっこり笑って答える。それは氷のように冷えた微笑みでも皆はすっと引きさがる。青玉石サファイア色の瞳に見つめられると、そこで声を失うのだ。
 彼女の言うとおり、外套を纏ってくればよかった。
 少年は一人ごちる。肌を隠していればこの白肌も目立たずに、頭を覆っていれば白髪も見えない。そう、彼の姿は異端なのだ。白磁の肌は雪花石膏アラバスターさながらに白く、色の抜けた白髪もおなじく。その姿が人々の目に畏怖となるのか、それとも誑惑きょうわくしているのか。彼にはどうだっていいことだ。
 大聖堂へと着いた。彼のように余所の国の人間がここに訪れても誰も誰何しなければ、信者はおなじような格好をしている。白は教徒にとって神聖なる色である。待つことすこし、彼の前に白い外套を纏った女が現れる。とはいえ、美しい女だった。顔を隠しているのでその美しさは彼しか知らなかったし、神秘なる紫色をした髪だって見えなかったのだが。
 女は目を潤ませて彼を抱きしめる。
 母子ほどには年は離れていない。となると離れた兄妹か、あるいは貴人と従者の関係か。彼は女の抱擁を受け入れて、それから女の柔肌に口づける。はじめは頬に耳に、最後に唇へと。その行為は二人が連れ合いのようにも見える。
「まもなくこの国で戦争が起きる」
 彼は女の耳元で囁く。
「あの者たちを、放っておいて良いのですか?」
 女が動揺したのはこの国を憂いたわけではなく、声音は嫌悪を帯びていた。彼はくすっと笑う。子どもが悪戯をたのしむときのように。
「放っておけばいい。《《あれ》》は化けるのが上手い。東でも勝手に動いているんだ。好きにさせておく」
「あなたが、そうおっしゃるのなら……」
 女が彼を解放する。濃い薔薇のにおいが残っていたが、彼がそれを不快に思うことはなかった。
「しばらくここに留まる。お前はどうする?」
「もちろん、残りますわ」
 即答だった。女はいつもそうだった。
「ふふ。お前が戻らなくても、あの国はもうとっくに終わってる。それとも耄碌もうろく爺がくたばるのが先かな?」
「まあ……」
 女はくすくすと笑って、彼に応える。王室で生まれ育った女にはこんなところよりも、宮殿の華美かびな暮らしが似合っている。だが腐った王宮に佳人を留めておくには贅沢すぎるだろう。なにより、老人の枯れた手が女の肌に触れると思うとぞっとする。彼はひとつのものに執着するようなたちではなかったが、しかし気に入らないものはすぐに壊す。そうなる前に――。
「あれは、ここに来るのか?」
「きますわ。あの子は、かならず」
 午後の鐘の音がきこえる。女は彼をもう一度抱きしめて、そうして聖堂の奥へと消えて行った。
 


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