三章 微笑みと、約束と、笑顔と

ふたりにとってはじめての

 かつてそこは焼け野が原だった。
 木造の家も、聖者が集まって祈りを捧げる塔も、宮殿もぜんぶ燃えてなくなった。戦争は人々から何もかも奪っていった。
 勝ち目のない戦いだと、嘆く老爺の背中を娘がさすってやる。母親たちは苦労して産んだ子どもの未来を思って涙を流した。男たちの姿はほとんど見えない。みんな戦って死んで、ここには戻ってこなかった。相手がおなじ人間だったなら、よその国に連れて行かれても俘虜ふりょとして扱われたのかもしれない。背中の曲がった老婆が言う。でも、彼らが戦った相手は異形の獣、竜だ。
 かつてそこは竜の縄張りだった。
 人間たちは子を産んで育てて、その子が大きくなったら子を産んで、そうやってどんどん数を増やしてゆく。家を作り村ができると、何年かすればもっと大きくなって街になる。国と呼ばわる大きさになった頃、土地が足りなくなってそのうち人間は禁断の地へと手を出してしまった。
 竜の怒りは凄まじかったという。
 人間よりも大きく、強く、それから賢い。逃げるかそれとも戦うか、そのどちらかしかなかった。そうして、みんな死んでいった。親のいない子どもばかりになった。女子どもと老人と、そんな集落がこの辺りにはいくつもある。でも、最後に勝ったのは人間たちだ。だから、みんなここで生きている。
 復興がはじまって十年が過ぎた。
 子どもが一人、街のなかを歩いている。木造の家が立ち並び、東には聖者の集まる教会ができた。南には市場があって、ちょうど買い物客でごった返している頃だ。雑踏のなかを子どもが一人で行くにはちょっと危ない。悪い大人に騙されて、遠くの国へと売り飛ばされることなんてしょっちゅうだった。けれども子どもは我が物顔で行く。子どもは街が再建されるその前からここにいたし、ここで生まれ育った。
 うつくしい子どもだった。
 そこらを駆け回る子どもたちはしっかり日に焼けた健康的な肌をしているのに、純白の雪さながらに色が白い。彼なのか彼女なのか、判別が付かないのもまだ子どもであるからで、しかし大人となった暁にはさらに美しく育つだろう。そう、目だ。子どもの目は青玉石サファイアの色をしている。この瞳に見つめられたら、きっと誰もが虜になる。誑惑きょうわくされた者は道を踏み外す。それも、一人や二人にすまない。
「やっと、みつけた」
 街の外れには誰も近づかない区域がある。
 街は本来の形を取り戻しつついたが、けれども貧困窟はまだ残っている。子どもが呼んだ相手もまた子どもだった。二人はよく似た容貌をしている。白皙の肌に青玉石の瞳。一人は笑っていて、一人は怒っていた。
「ああ、なんだ。やっぱり見つかっちゃたんだ」
 悪戯が知られたときみたいに、笑った子どもは舌を覗かせる。悪いだなんてちっとも思っていないくせに。怒った子どもは相手を睨みつけている。
「どうしても、いくの?」
 二人はおなじ日に生まれて、おなじ血が流れている。育った場所もこの街だ。それなのに、どうして置いていこうとするのだろう。
「いくよ。もうここにはもどらない」
 うそつき。子どもは口のなかだけで言う。声に出したならば相手はきっと怒るだろうし、ひどいときには暴れ出す。いつ戻ってくるのかきかなかったのも、どうせそのうち戻ってくるとわかっていたからだ。
 荒屋から他の子どもたちが出てきた。いつもみたいに喧嘩がはじまるのを待っている。でも、今日はそんな気分じゃない。別れの言葉を言わないまま、子どもはそこから立ち去った。もう一人の子どももしばらくしていなくなった。決別したのはいつが最初だったのだろう。引き留めてさえいたらこんな風にはならなかったのかもしれないと、子どもはときどきこの日のことを思い出す。









 瞼を開ければ、まず知らない天井が目に入った。
 レオナは瞬きを繰り返す。いつのまに眠ってしまっていたのだろう。身体を動かそうとしても力が入らずに、レオナはため息を吐く。喉も渇いていたし頭もぼんやりするから、それだけ長く眠っていたのかもしれない。それとも、さっきまで見ていた夢のせいなのか。レオナはもう一度、肩で息をする。
 知らない子どもだった。でも、あの子どもはレオナとおなじだった。そう、ずっと前にレオナもおなじ声をしたことがある。どうしても、行くの? 問いかけたとき、姉は微笑んでいたような気がする。そのうつくしい顔で。
 あれは、わたしとソニア姉さまだったのだ。レオナは口のなかでつぶやく。あんな夢を見たくらいだ。ここはイレスダートの王都マイア、白の王宮。離れにある別塔がレオナの居場所だ。
 そう思って身体を起こしてみても、やっぱり覚えのない部屋だった。わたしは、どうしてこんなところにいるのだろう。混濁する記憶を必死に呼び起こそうとしたとき、部屋の扉が開いた。入ってきたのはルテキアだった。
「気分は、いかがですか?」
 そう言った傍付きの方が疲れた顔をしている。ルテキアが用意してくれた香茶を受け取る。飲むとすこしだけ気持ちが落ち着いた。
「ここ、は?」
「サリタの市長の邸です」
「市長の……?」
 傍付きはただうなずくだけだ。レオナは自分でランドルフの元に行った。そのあと閉じ込められたのは、サリタの市長が管轄する宿舎だった。夜中にデューイが来てくれて、そこから抜け出したまではちゃんと覚えている。
「ルテキア、あの……わたし」
「何も言わないでください。とにかく、無事でよかった」
 傍付きはレオナの頬に触れる。まだ、痛みますか? そうきかれてレオナは首を横に振る。どうして、こんな顔をしているのだろう。怒っていると思っていたし、会えば責められるとも思った。レオナはみんなを裏切って、傍付きを置いて行った。
「ブレイヴは? それに、ディアスもいたわ。他のみんなは……? 無事、なのね?」
「はい。皆、ここにいます」
 記憶の糸をすこしずつたどってゆく。でも、まだ曖昧ではっきりとしない。
「わたし、どのくらい眠っていたの?」
「二日です」
「二日、も……」
 だからきっと、ルテキアはこんなに心配してくれているのだ。レオナは笑みを作ろうとして失敗した。まだ心のなかにいくつもの不安が残っている。
「そうだわ。迎えに行かなきゃ。ロッテを、」 
 そこで途切れた。レオナは息を止める。あいつらは大丈夫だ。こっちが思っているよりずっと強いんだ。あのとき、デューイはたしかにそう言った。子どもたちの待つ孤児院にはもう戻れない。けれども悲しむ必要はないと、レオナを励ましてくれたのではなかったのか。それに――。
「ルロイ、は?」
 言って、すぐに後悔した。ルテキアの方が先に目を逸らした。そうだ。レオナだって見たはずだ。赤い色が見える。あれは、血の色だった。
「ルロイ、ルロイは、どうしたの? ねえ!」
「彼、は……」
 レオナも必死だった。傍付きの手を掴んで、こっちをちゃんと見るまで離さない。ルテキアの声が震えている。ちいさな声で紡がれたその言葉をレオナは信じたくなかった。
「うそ、よ。だって、あの子、笑っていたのよ?」
 まぼろしなどではなかった。笑っていたのだ。本当の笑顔で。
「レオナ。落ち着いてください。ともかく、いまは」
 どうして落ち着いてなんかいられるのだろう。レオナはルテキアを睨みつける。傍付きはレオナの目をちゃんと見てくれない。
「うそ、うそよ。だって、あの子はまだほんとに子どもで。そんな、そんなのいや。いや、いやだっ……!」
 癇癪を起こした子どもみたいにレオナは暴れ出す。もう、傍付きの声も届かない。うそだ。こんなのは嘘だ。レオナは繰り返す。あのとき、起こったすべてが夢だったのだ。レオナはそう思い込む。そうだ。自分はこんなイレスダートではない知らない土地になんていないのだ。王都マイアの白の王宮。その離れの別塔だけがレオナの――。
 それからどれくらい時間が過ぎたのだろう。
 膝を抱えるようにして、レオナはただぼんやりと窓から見える空を眺めている。まるで幼い頃のようだ。ときどき、遊びに来てくれる幼なじみたちは外のせかいを話してくれる。そのたびにちいさな姫君は自由になって外に出たいと願っていた。窓の近くにいるのも、幼いあの日の名残なのかもしれない。
 空の色が青から橙に変わっている。傍付きの姿もいつのまにか消えていた。ちいさな子どもみたいに暴れて、ひどい言葉も吐いたような気がする。きっと嫌われただろうし、失望されただろう。でも、そんなのはもうどうだっていい。
 扉をたたく音がした。傍付きは真面目で律儀な性格だから戻ってきたのだろうか。それとも、他の誰かが来たのか。反応をしないレオナを無視して勝手に入ってくる。
「レオナ」
 幼なじみだった。声をきいても彼が近くまで来ていても、レオナは見ようともしなかった。
「レオナ」
 二度目の声はもうすこし強かった。こっちを向けと、そう言っている。白の王宮の箱庭でレオナはずっと孤独だった。ときどき拗ねてみたりわがままを言ってみたり、そんなときでも幼なじみはずっと傍にいてくれた。
 沈黙がつづいている。いまは慰めも励ましも要らないし、どんな声だってききたくない。どうでもいいから早く一人にしてほしかった。それなのに、彼はレオナを待っている。
「どうして、」
 掠れた声が届いた。レオナは幼なじみを見た。彼は疲れていたし、傷ついた顔をしていた。
「どうしてあんなことをしたの?」
 レオナは目を瞬かせる。何のことを問われているのかわからなかったのだ。
「なに、を」
「勝手なことをした自覚はあるよね? ないとは、言わせない」
 ブレイヴは言葉を選びながら喋っている。ゆっくりと、レオナを落ちつかせるときみたいに。けれども、彼は怒っていて自分の感情を抑えているのがわかる。
「一人でどうにかなると、そう思った? きみがランドルフのところに行けば、それで奴らがここから退くと思った?」
「そんなの……」
 反論しようとしても声はつづいてくれなかった。息が苦しくなるくらい胸が早鐘を打っている。
「奴らは元老院の命令で動いているから、王女の声なんてきかない。あの男は、きみとまともに話なんてしない」
 本気の声だ。彼は本当に怒っている。
 でも、こんな風に責められるとは思わなかったし、否定されるとも思わなかった。涙が込みあげてくる。レオナは下唇に歯を立てる。覚悟はしたはずで、疎まれるのもわかっていた。それでも、あのときレオナにできたのはひとつしかなかったのだ。
「ブレイヴには、わからないわ。わたしの気持ちなんて……!」
 言ってすぐに後悔した。幼なじみの顔から表情が消えている。こんなのは、やつ当たりだ。ずっと堪えていた涙が次から次へと頬へ落ちてくる。
「そうだね。……わからないよ」
 先にひどいことを言ったのは自分なのに、返ってきた言葉は容赦なくレオナの心を抉った。視界が滲む。嗚咽を堪えていても感情が邪魔をして、涙は止まってくれない。見放されてしまった。手を離してしまったのはレオナだ。それでも、本当に望んだわけではなかった。いまさら、後悔しても遅い。
 幼なじみの手が伸びる。レオナはとっさに目を閉じていた。それを拒絶と受け取ったのか、ブレイヴは行き場のない手を力なくおろした。
「でも、わかりたいと思った。嘘じゃない。きみが、こんなになるまで追い詰められていたのに、気づけなかった。……そんな自分が、心底嫌になる」
「ちがうわ、わたし」
「言ってほしかった。自分の気持ちをぜんぶ。オリシスでもそう言ったのに、でもレオナは自分が一人ぼっちだって、そう思い込んでる」
 本当はぜんぶ言いたかった。幼なじみはいつだってレオナの傍にいてくれるし守ってくれる。でも、そうじゃない。それではただ彼の足枷となるだけだ。レオナは幼なじみの目を見た。彼は怒っているのではなくて悲しんでいる。やっと気がついた。
「俺には、力がない。イレスダートに帰るための力も、きみを守るための力も」
 ちがうの。レオナはもう一度言う。
「守られるだけなのは、いやなの。わたしにだって、できることが……」
 でも、一人ではだめだった。ブレイヴの言うとおりだ。王女なんて関係がない。ランドルフはレオナを軽視していた。言葉では何も勝てなかった。それだけじゃない。レオナは光の方へと手を伸ばしてしまった。己の感情のままに力を解き放ってしまった。それでも――。
「わたし、まもれなかった。守ることができなかったのよ、あの子を」
「レオナ」
「力なんて、要らない。こんな力、持っていてもなんにもならない! あの子をまもれなかったのに! わたし、わたしは……」
 最初から出会わなければよかった。あの子と関わらなければ、仲良くならなければよかった。呪いのように、レオナは繰り返す。言わなくてもいい言葉を吐いて、レオナは幼なじみの胸を力任せにたたきつける。逃げることだってできたのに、ブレイヴは黙ってレオナの拳を受けている。ちいさな子どものときのままだ。声をあげて泣きつづけるレオナを、幼なじみは落ち着くまで抱きしめてくれる。あの頃とちがうのは、その力強さだ。
「そんなこと、ない」
 耳元でそっと呟いた幼なじみの声はすこし震えていた。ブレイヴの指がレオナの目をぬぐう。頬を撫でて、髪に触れるその指は、壊れものを扱うときみたいにやさしかった。レオナを呼ぶ声がきこえる。唇にあたたかさを感じたのはそのときだった。青い瞳がレオナを待っている。彼は笑っていて、レオナもそれに答えようとして、それからもう一度唇を重ねた。
 レオナが泣き止んだのはもうすこしあとだった。
 幼なじみはそのあいだ、何も言わずにずっと抱きしめていてくれた。鼻の奥が痛くて目と喉がひりひりする。泣きすぎだよ。ブレイヴがそう言う。ひどい顔をしているのかもしれない。幼なじみは苦笑している。離れてしまった唇が恋しくなる。
「レオナ?」
 やわらかい感触を思い出して、まともに彼の顔が見れなくなった。レオナはごしごしと乱暴に目をぬぐう。きっと目も腫れているだろう。
「はじめて、けんかした」
「そうだった、かな?」
「うん。そう、よ」
 レオナは幼なじみの胸に額を押し付ける。いまの顔を見られたくはなかったけれど、彼を離したくはなかった。もっと望んでもいいのだろうか。レオナはふた呼吸を空ける。
「ブレイヴ。あの、ね」
「どうしたの?」
 心臓の音がうるさい。でも、もう隠しておきたくはないから、あとは声に乗せるだけだ。
「もうすこしだけ、傍にいて……?」
 幼なじみはレオナの声をきいてくれるだろう。彼の目はいつもやさしい。彼の腕のなかはいつもあたたかい。
「言われなくても、離さない」
 幼なじみは笑っていた。彼は笑うとちょっと幼く見える。でも、レオナの一番好きな表情で、幼なじみはそう言った。  


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