三章 微笑みと、約束と、笑顔と

再会、そして…

 東の空が白んでいる。
 いつのまに夜が明けたのだろう。けれども、街が完全な眠りから覚めるまでにはもうすこし、その前にはみんなのところへと戻らなければならない。
 デューイはときどきこちらを振り返ってくれる。だいじょうぶ。まだ、歩ける。レオナの強がりなんてお見通しなのに、デューイは黙っている。励ましと叱咤の両方だと、レオナはそう思う。
  水路を抜けてようやく地上へと出たそこは街の外れだった。
 そのままサリタを脱出するのは叶わない。外へと繋がる八つの門は封鎖されているし、門番だっている。欠伸を噛み殺している役人を殴りつけて力尽くで押し通ったとしても、すぐに騒ぎになってしまう。幼なじみたちも修道院から出たところだろうか。合流地点はどこになるのか。あれこれ考えているような余裕がいまのレオナにはない。デューイがどこへと向かっているのかわからなかったものの、いまは赤髪の青年を信じるしかなかった。
 薄明が訪れている。
 あのまま暗闇の部屋に閉じ篭もっていたら見えなかった光だ。後悔と懺悔と罪悪感が綯い交ぜとなった心に、希望を与えてくれるひかり。レオナは大きく息を吸う。ずっと動いているからか朝の寒さも心地良いくらいだったし、すこしだけ元気も出てきた。
 路地裏をしばらくまっすぐ進んでいたかと思えば右へと曲がる、そうして次には左へと入ってまた右を選ぶ。遠回りをしているみたいに、デューイはでたらめな道を行くものだからレオナは不安になってきた。どこからかパンの焼けるいいにおいがしてきた。商業区からは離れているはずで、このあたりは中流層の家が並んでいるのだろうか。そういえば外観も変わってきたような気がする。
 修道院へとつづく道ではオレンジ屋根の家が連なっていたここは白壁に緑や青といった色が見える。サリタの街は思った以上に広いのかもしれない。レオナは王都マイアを思い出す。白の王宮と東には大聖堂があり、反対には士官学校がある。白亜と大理石で造られたうつくしき王都。しかしレオナは自分が生まれ育った王都でさえも、その全景を知らない。
 デューイの足が突然に止まった。
 王都の騎士に見つかってしまったのだろうかと、レオナは緊張する。けれども次にレオナが見た色は赤だった。赤銅の色。レオナの幼なじみは日が沈むときの色だと言っていたけれど、黎明の空の色にも似ている。
「ディアス?」
 名前を呼んでみてもにこりともしないところがディアスらしい。とはいえ、イレスダートにいるはずのもう一人の幼なじみが、なぜこんなところにいるのか。
「ディアス、なのね? ほんとうに……? でも、どうして?」
「お前たちはおなじ反応をする」
 レオナは目を瞬く。この物言いはブレイヴとディアスが会っているということだ。でもききたいのはそうじゃない。それなのにディアスは無視してさっさと行ってしまった。デューイがにやにやしている。
「ほら、もうすこしだから。がんばれ」
 励ますように肩をたたかれて、レオナはうなずいた。疲れていたし足も限界だったけれど、そうするしかなかった。もっと以前のレオナだったならば下ばかりを向いていただろう。いまはちゃんと前を向いていられる。だから自分の足で歩くことができる。
 整然と建ち並ぶ建物ばかりが見えてきた。こちらの姿を認めて男が二人近づいてくる。役人だろうか。中年の男と青年の二人は軍服に似たような揃いの服を着ている。ディアスは役人の一人と話し出す。そのあいだも若い役人は無遠慮な視線をこちらへと寄越してくる。レオナは息を殺して見守っていたが、やがてディアスが戻ってきた。不安そうに見つめるレオナに幼なじみはいつもの表情でいる。
「どう、なったの……?」
 レオナの声にもこたえてはくれない。ぽんと肩をたたいてくれたのはデューイだ。そのまま役人たちを通り過ぎていく。レオナは目を合わせないように努めつつも、しかし男たちが懐へと何かを忍ばせたのを見た。金貨か銀貨か。どちらにしてももう役人たちはこちらに関心がないみたいに、元の仕事へと戻っている。
「それで? ここから当てはあるのかい?」
 小声だったが、デューイの声音はどこか面白がっているようにもきこえる。
「あんた市長に話をつけてたんだろ? けどなあ、ここの連中の扱いはむずかしいぜ。ま、何が必要かってことくらい、あんたは知ってそうだけどな」
「俺は忠告をしただけだ」
「へえ。忠告、ねえ?」
 デューイはずっとにやにやしている。あの役人たちはこちらの正体に気づいている。ここをやり過ごせても次はどうなるかわからないというのに、まるで他人事だ。でも、それは正しいのかもしれない。デューイはレオナを助けてくれたけれど、ここから先は他人であるべきだ。これ以上、巻き込みたくない。レオナの視線にもデューイは知らんぷりをしている。
「金持ちの奴らはサリタの外には興味も関心もないんだ。金儲けさせてくれるならばともかく、戦争をしている国には関わりたくないのが本音だよ」
 耳打ちされてレオナはあらためて周囲を見回す。大きな建物が見える。宮殿には遠いが貴人の屋敷のようだ。つまりここは上流階級の人間が住まう場所らしい。
「じゃあ、ここから出られるの……?」
 デューイは片目を瞑ってみせる。
「北の門が開いていたら、な」
 思わず足を止めて振り返っていた。もう、戻れないんだ。目の奥が熱くなった。どこかでわかっていたことだとはいえ、レオナはあの子どもともう一度会って話したかった。ちゃんとお別れを言って、そうしてルロイは約束をしてくれる。いつか弟のキリルと一緒にイレスダートにも行く。そう言ってくれる。
「大丈夫だよ」
 レオナの心のなかの声を読んだみたいに、デューイがつぶやく。
「あいつらはさ、大人が思っているよりもずっと強いんだ。別れは悲しいものなんかじゃない。忘れなければいいんだ」
「そう、ね。そうだね……」
「それにさ、あんたを迎えに来てくれてる」
 視線で促されて、レオナは目をしばたかせた。こちらへと走ってくるのはレナードとノエルだ。やや遅れて来るのはルテキアと魔道士の少年、異国の剣士はゆっくりと、そうしてそのあとには――。
「レオナ……!」
「ブレイヴ……」
 それ以上、声はつづかなかった。彼に会ったら、言いたいこともききたいこともたくさんあった。それなのに、うまく言葉にならないのはどうしてだろう。
「無事で、よかった……」
 それはあなたの方だと、そう言いたかった。その胸に飛び込んで、彼がここにいるのだとたしかめたかった。でも、後悔と後ろめたさがレオナを留めている。みんな笑っているけれど、疲れた顔をしている。自分は彼らを裏切ってしまうところだった。
「感動の再会、といきたいところだけど。どうやら、雲行きが怪しくなってきたぞ」
 デューイだ。さっきまでの声が変わって緊張している。レオナが現実へと戻されたのもそのすぐあとだ。いきなり数人の男に取り囲まれた。
 レオナがブレイヴと引き離されたとき、男たちはまず武器を持っていないアステアを羽交い締めにしていた。
「なにをするっ!」
 次に狙われたのはルテキアだったが、彼女は騎士だ。喉元に刃を突きつけられても臆さずにいる。
「う、動かないでください」
 ルテキアに短刀を向けていた男の手が震えていた。見ればまだ少年だった。レオナの腕を掴んでいる男も若く、貴人に仕える従僕じゅうぼくのようだ。
「ま、まず、武器を……捨ててください」
 従僕が上擦った声で言う。
「彼女から手を離せ」
 懇願ではなく命令だった。幼なじみが従僕を睨みつけている。
「言うことを、きいてください」
 抵抗するのは簡単でも幼なじみが動けないのは理由がある。アステアとルテキアが捕まっているし、レオナも身動きが取れない。なによりも、この少年たちはサリタの市民だ。
「おやおや、イレスダートの騎士様は子どもに手をあげるおつもりですかな? 我々は善良な市民ですよ?」
 従僕のうしろから初老の男が出てきた。声も落ち着いているし、清潔で整った身なりをしている。
「いきなり襲っておいて、言うことか?」
「ずいぶんと血の気の多い騎士様だ。ですが、ここで手を出せばあなた方はただの犯罪者ですよ?」
 ブレイヴは歯噛みする。しかし、クライドもディアスも剣を手放している。屋敷からは他の従僕たちも出てくる。武器を触るのがはじめてなのか、おっかなびっくり剣を抱えた。
「レオナに触れるな」
 ブレイヴはようやく剣を捨てた。初老の貴人はにっこりとしたものの、レオナの腕を掴んでいる従僕はそのままだった。仲間たちが次々と連行される。なかなか歩き出さないデューイは従僕に責付せつかれている。
「ひどい裏切りだな」
 従僕に対してだったのか、それとも先に行ったディアスに対して言ったのか。レオナにはわからなかった。
 噴水広場へと連れて行かれた頃には、街に朝が訪れていた。
 早朝にもかかわらずたくさんの人が集まっている。母親に手を繋がれている子どもはまだ眠たそうにしていて、少年少女たちはくすくす笑っている。老爺たちもがレオナたちを好奇の目で見つめている。待ち構えていたのは王都の騎士たちだ。そして、騎士を率いているのはあの男。
「サリタの諸君、安心されよ。叛逆者の身柄は確保した」
 遠い戦地から戻ってきた勇者さながらの声をランドルフはする。レオナを騎士へと引き渡すと従僕たちは逃げるように去って行った。初老の貴人の姿もいつのまにか見えなくなっている。レオナは幼なじみを探す。しかし見つけるよりも先にランドルフの前へと連れて行かれた。
「これはレオナ殿下。サリタの宿舎は居心地が悪かったようですなあ」
 その笑みを見るたびに吐き気がする。レオナは男を睨みつけた。
「皆を解放しなさい。これは、何のつもりですか?」
「おやおや、殿下はご自分の立場をわかっておられないようだ。では、なおのこと処刑はこの場で行うのが正しかろう」
「なんですって?」
 視線の先を追う。武器を奪われ手を縛られている幼なじみが見えた。抵抗をせずに大人しくしている彼を、騎士は引き摺り出すようにしてランドルフに差し出す。頬には殴られた跡がある。
「離しなさい! これ以上の暴力は許しません!」
「あれは危険な男だ。国王陛下に剣を向けかねない。なによりも、これで殿下も大人しくされよう」
 殴りつけてやりたい。身体の自由がきくならばレオナはとっくにそうしている。
「そんなことは、許しません! 絶対に、」
 言い終わる前に頬を張られていた。倒れ込んだレオナを騎士はなおも押さえつける。目を合わせないようにしているのは罪悪感からだろうか。
「ランドルフ! 貴様!」
「静かにさせろ」
 幼なじみの背が踏みつけられるのが見えた。口のなかが不味い。砂と鉄の味がする。でも、いまはそんなものどうだっていい。灰色の長衣ローブを纏った刑吏けいりが現れた。深くフードを被っているために年齢もわからなければ性別も不明だ。罪人を処するこの者たちが声を出すのは禁じられている。だが、レオナはフードの下から翡翠色の瞳を見た。無機質な石のように冷え切っていた。
「処刑人の手を借りるまでもない。この私自らが断罪してやろう」
 ランドルフは刑吏から剣を奪う。仕事を横取りされたというのに刑吏たちはまるで無反応だ。
 こんなひどいことが許されるのだろうか。
 他の皆の姿はわからない。デューイは最初に抵抗をしていた。レナードとノエルも主が傷つけられて大人しくしているとは思えない。ルテキアにアステア。それにディアスは。
 もう誰も助けてはくれない。じゃあ、誰が幼なじみを守ってくれるのか。レオナは無意識に呼びかけていた。いま要るのは力だ。たたかうための力。すべてを終わらせるための、力。レオナは祈りを唱える。いや、呪いの言葉だったのかもしれない。しかし、それはすぐに止まった。
 傍観者だったはずの市民たちが騒ぎ出している。人々は武器など何も持っていなかったが、騎士に向かって石を投げつけたりと、とにかく暴れている。
「出て行け!」
「そうだ、お前たちは出て行け!」
「サリタは自由都市だ!」
「イレスダートの奴らは、みんな出て行け!」
 揉み合いがはじまっていた。
 子どもたちの泣き声がする。罵倒しているのは男たちで、そこに少年少女も加わる。老爺たちまでも王都の騎士に殴りかかっていた。その混乱のなかでレオナは自分を呼ぶ声をきいていた。幼なじみだろうか。いや、ちがう。もっと幼い声はあの子どもだ。
「レオナ!」
 きき間違いならよかった。けれども、大人たちのあいだを掻い潜って栗毛の少年はこっちに走ってくる。
「レオナ!」
 ルロイが呼んでいる。はじめて見た気がする。あの子はいつも怒っていたし大人たちをひどく憎んでいた。でも、いまはちがう。ちゃんと笑っている。きっとあれが本当のルロイなのだ。
「ルロイ! だめ、きては――」
「いま、助けるから!」
 だめ、ルロイ。懸命に呼びかけているのに子どもには届かない。ランドルフが騎士たちに痛罵つうばしている。しかし、相手は市民です。最後まで逆らっていた騎士もけっきょく剣を抜いた。
「レオナを、はなせっ!」
 ルロイが石を投げつける。騎士が怯んだ隙にレオナはその手から抜け出す。しかし更なる強い力がレオナを押さえつける。ランドルフだ。レオナは男の目を見てぞっとした。なんて凶悪な色をしているのだろう。人を殺すのをなんとも思わない。こんな目は人間のする目じゃない。
「殺せ」
 命じられた騎士が動揺するのが見えた。やめて。レオナの唇が動く。相手はまだ子どもです。こんな混乱が起きていなかったなら、この騎士の上官がランドルフではなかったのなら、きっとそう言っただろう。白銀の刃が弧を描いた。
「ル、ロイ……?」
 子どもの身体から大量の血が噴き出した。声を発することもなくそのまま崩れ落ちると、レオナが呼んだ名の子どもは動かなくなった。
「う、そ……」
 こんなのは嘘だ。これは、夢だ。レオナはそう思い込もうとする。でも、ルロイはもう起き上がることもなかったし、レオナを呼びかけることもなかった。濃い血のにおいがする。頭が割れるように痛い。熱いのか、それとも寒いのかわからない。けれどもレオナの身体は震えていて、声を出すことも忘れてしまっている。気持ちが悪い。目眩がする。うそだ。レオナはそう繰り返す。こんなのは嘘だ。
 そのとき、せかいから色が消えた。
 黒のなかにただ一人だけレオナはいる。意識を失ってしまったとすれば耳鳴りはきこえない。では、どこかに閉じ込められたのだろうか。いいや、そうじゃない。解放されたがっているのは、レオナではない《《誰か》》だ。
 レオナは無意識に手を伸ばしていた。その先には光の粒が見えた。白い光。前にはおなじものを見たような気がする。そうだ。あの日も望んだのは力だった。そして、光を待つ。レオナのなかで何かが目覚めたのは、そのときだった。  


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