三章 微笑みと、約束と、笑顔と

嘘も、虚勢も、弱さも

 ちいさい頃に暗闇のなかで一人きりなのがこわくて、兄と姉をよく困らせた。
 子どもが眠る時間だからと灯りはすぐに消されてしまう。そうすると部屋に入ってくるのは月の明かりだけ、広い部屋のなかで一人きりで眠るなんてこわかったのだ。
 白の王宮の別塔、ちいさな姫君はそこから外には出られずに、レオナは許されたそこだけがせかいのすべてだと思っていた。
 夜になって辺り一面が暗闇になって、こうして泣いていてもレオナの母さまは来てくれない。乳母と守り役の老騎士と、それからわずかな侍女たち。みんなが代わる代わるにレオナを慰める。それでも泣き止まない王女に困り果てて、他の兄妹たちを呼びに行く。ギル兄さまは本を読みきかせて、ソニア姉さまはレオナを抱きしめてくれる。年に数回だけ王都に訪れる公爵家の子どもたちも、泣いてばかりの王女の傍に居てくれた。
 一人で眠れるようになったのはいつからだろう。
 暗闇のなかでレオナはぼんやりと過去を思い出していた。連れて行かれたのは来賓用の部屋で、一人用としては広すぎるくらいだ。長机には遅い夕食が用意されていたものの手を付ける気にもなれずに、レオナは寝台の傍でずっと座り込んでいる。思考は過去をぐるぐると回ってばかりだ。
 姉のソニアならば、どうするだろう。
 部屋の扉が施錠されていてもどうにかこじ開けようとするかもしれないし、大声で叫んで人を呼びつけて、それからもう一度あの男と対峙するかもしれない。自分におなじことができるとは、思わない。レオナの声なんてぜんぜん届かなかったのだ。
 後悔をしていることを自分で認めたくはなかった。ばかみたいだ。他に誰も居ない部屋でレオナはちいさく零す。もう幼い子どもではないので泣くことはしなかったけれど、どうしようもなく悲しくて孤独だった。ばかね、自分で決めたことでしょう。姉さまだったらこう言う。じゃあ、ギル兄さまなら――。
 たとえレオナが本当に自分の意思で王都に戻ったのだとしても、きっと兄は失望する。レオナは離れの別塔にまた閉じ込められて、アナクレオンはもう会ってもくれない。幼なじみはどうなるのだろう。アストレアは白の王宮に疑われたままで、彼は叛逆罪に問われてしまう。兄が動いたところでレオナが納得する結果にはならない。そのとき、自分は泣くだけしかできない。
 両膝に顔を埋めて、この震えは寒さのせいだと思い込む。胃がしくしくと痛むのも何も食べていないからで、ずっとおなじことばかり考えてしまうのも眠れていないせいだ。
 こういうときに、レオナの最初の傍付きは無理にでも横になるように言う。エレノアはあたたかい香茶を淹れてくれるし、テレーゼは良いにおいのする室内香ポプリをすこし分けてくれる。ムスタールに残してきたルーファス、それにアストレアにオリシス。たくさんの人の心を裏切ってしまった。
 ちがう、まだ終わりじゃない。レオナはつぶやく。王都に戻ったら兄に会おう。レオナの兄は、アナクレオンは間違わない。王都の騎士が幼なじみたちを見つける前にサリタを経つようにと、ランドルフに促す。そのくらいの演技ならばレオナにだってできる。レオナは顔をあげて呼吸を落ち着かせる。暗闇のなかでひかりを見た。月明かりの頼りないひかりだった。わたしにも光が見える。レオナは立ちあがりこのあとをどうするべきか考える。大騒ぎをして人を呼んでみるか、それとも窓を開けて飛び降りようとすればもっと大事になるだろう。物音がきこえたのはそのときだ。
 コツン、と。硝子に小石が当たったような音だった。
 最初は気のせいかと思った。なにしろここは三階だ。でも、それが二度つづけば思い過ごしではなくなる。レオナは窓へと近づく。そうして次に黒い影を見た。
 悲鳴はすんでのところで抑えた。それはたしかに人影であったし、暗がりのなかでも見知った顔だったからだ。
「デューイ、なの?」
 早く開けてくれ。彼は目顔でそう言う。レオナは慌てて窓を開けた。鍵が掛かっていなくて良かったと思った。部屋へと侵入してきた彼と窓の外を交互に見る。レオナの視線を無視してデューイはずれたカーチフを直している。
「ここ、三階なのよ……?」
 どうやってここまで上ってきたのだろう。レオナの質問には答えずに、デューイはいつもみたいに笑んでいる。疑問はそれだけでは終わらない。どうして彼がこんなところにいるのか、それにデューイはあのとき怪我を負ったはずだ。
「デューイ。顔をちゃんと見せて。あなた、怪我は」
「俺のことはいいから。脱出するぞ」
 レオナは瞬きを繰り返す。いま、彼はなんて言ったのだろう。
「ここから? そんなの……、それにわたし、わたしは……」
「心配してる」
 誰が、とは言わない。子どもたちはみんな泣いていた。ルテキアとアステアは悲しそうな顔をしていた。頬を張られたマザーだってそうだ。それから、レオナを呼びつづけていたのはルロイ。ひどいことをしてしまった。でも、レオナが最初に思い浮かべたのは幼なじみだ。
「わたし……」
「助けに来たのが俺じゃない方がよかっただなんて、言うなよ」
 レオナはとっさに顔を背けた。
「ち、ちがうわ。でも……、こうするしかないの。わたしが王都に戻らないと」
「自己満足。いいや、ちがうね。傲慢って言うんだよ、そういうの」
 息が止まった。デューイの笑みもいつのまにか消えている。
「あんたが何者かなんて、別にどうだっていいし俺には関係ない。でもさ、誰も喜ばないのに勝手にそうやって足掻くのって、みっともない」
 心のなかを見透かされている。嘘も、虚勢も、弱さも、ぜんぶ。だからデューイは、レオナを王女だと知ったあとでもちゃんと本当の声をする。
「それに、あんたの幼なじみも一緒だよ。修道院にいる。みんなあんたを待ってる」
「ほんとうに……?」
 涙が零れそうになった。レオナはデューイを見る。説教をしたあとだからか、デューイはカーチフがずれるのをお構いなしに頭を掻いている。だからもう、あんたがここに居る必要なんてないんだ。そういう目をしている。
「ほら、ぐずぐずしてたら夜が明けちまう!」
 デューイが手を差し伸べる。この手を拒否したら、きっと後悔するし戻れなくなる。まだ間に合うだろうか。レオナは自分に問いかける。こたえはあとから見つければいい。
「デューイ」
「うん?」
「……ありがとう」
「礼を言うなら、無事に逃げ切ってからにしてくれ」
 思わず笑ってしまった。デューイは肩をすくめて、それから窓をちらと見る。
「さすがにあんたを抱えては……無理か」
 想像しただけで足が震えた。足を滑らせてしまえば痛いだけでは済みそうもない。では、どうするのだろう。レオナはデューイを見つめる。彼はにやっとした。
 デューイは頭に巻いたカーチフから細い針のようなものを取り出す。そこから先はほんの数秒の出来事だった。レオナは目をしばたかせる。扉は施錠されていたはずだ。でも、デューイはいとも簡単に開けてしまった。魔法みたいとレオナはつぶやく。彼は片目をつむってみせる。ここから出るという合図だ。
 扉の向こうもやはり明かりは消えていたものの、目は暗闇に慣れてきた。
 しんとした廊下には人の気配はとんとなく、ここに王女を閉じ込めているというのに見張りの一人もいないようだ。好都合だよとデューイが言う。もっとも、彼は最初からわかっていたみたいに、どんどん先へと進んで行く。階段を下りて一階に着いてもおなじだった。デューイはまっすぐ奥を目指している。台所を抜けてしばらくしてちいさな扉が見えた。長く使われていないようでずいぶんと古びている。デューイはここでも造作なく扉を開けた。
「ここって……」
 その先は水路だった。けれども汚水の嫌なにおいは感じなかった。
「サリタのお偉いさんたちは、いよいよ危なくなったらここから逃げるってわけだよ」
 つまりは要人たちのために作られた抜け道らしい。では、レオナが閉じ込められていたここはサリタの市長の管理する建物ということ、もしも王女が逃げ出すことがあったなら、あの男は市長に責任を押しつけるつもりなのだ。それにしてもと、レオナは前を行く赤髪の青年の背中をじっと見つめる。
「ねえ、デューイはここに何度も」
「なあ、あんたも魔法使えるんだろ?」
 手燭に明かりを灯そうとして上手くいかないらしい。デューイは困った顔をしている。
「え、ええ……、でもわたし」
 魔道士にとって火を熾すのは初歩的な魔法のひとつだ。でもレオナに扱える魔法は癒やしの力だけで、できるかどうかの自信はない。正直に言うべきか、迷っているあいだに辺りが明るくなった。
 もしかしたら、誤魔化されたのかもしれない。デューイはここに何度か入ったことがあるのだ。レオナは彼と最初に会ったときのことを思いだした。彼の真似をする子どもも一緒だった。
「あの、みんなは……」
「みんなって?」
 意地悪な返し方だ。マザーと子どもたち、ルテキアにアステア、ルロイとキリル。それから幼なじみたち。
「熱はだいぶ下がったって、あの魔道士の坊やが言ってた。子どもたちはみんな疲れて眠ったよ。ルロイは、ずっとキリルの傍にいる。意地張ってるんだろうな」
 レオナが黙り込んでしまったので、デューイはぜんぶ答えてくれる。
「ともかくさ、あんたが無事に戻らないとみんな安心できないんだよ」
 いつか会いに行く。ルロイはそう約束してくれた。このまま別れてしまったらその約束も叶わなくなる。だからちゃんと会って、いっぱい謝って、そうしてお別れをしたい。もう自分に嘘は吐きたくはない。
 ありがとう。レオナはちいさくつぶやく。泣くのも謝罪するのも、感謝を告げるのもみんなのところに帰ってからだ。








 老朽化がはじまっている修道院では聖堂もおなじく、ほとんど手入れがされていなかった。
 ブレイヴは聖イシュタニアの像を見つめる。敬虔なヴァルハルワ教徒ならば夜が明けるまでずっと祈りを捧げるのだろう。ブレイヴはそうではなかったが、けれどもいまは神に祈りたい気持ちだった。
「眠れないのか?」
 うしろから声がした。ブレイヴはゆっくりと振り返る。異国の剣士はこっちを見ていた。
「休めるうちに休んでいた方がいい。たとえ眠れなくてもな」
 めずらしいと、ブレイヴはそう思った。普段のクライドはこういう声をしない。聖堂ではレナードとノエルがくっつき合って眠っている。その近くではルテキアとアステアが、毛布はひとつしかなかったので彼女たちが使っている。夜はただでさえ冷えるのに隙間風が入ってくるために、なかなか寝息もきこえてこなかった。寝付けないのは身体が冷えているからだと、そういう顔を作ってみたものの、彼には通じないようだ。
 最初にデューイという名の赤髪の青年が出て行った。よく知りもしない他人にどうして幼なじみを託してしまったのか、あとで考えてもわからなかった。ただ、あの青年の目に偽りの影は見えなかった。すこししてからもう一人の幼なじみの姿も消えていた。どこに行ったのか、なぜディアスがサリタにいたのか。ブレイヴの思考はそれ以上つづかない。ランツェスにいるはずの幼なじみがこんなところにいるのならば、きっとアナクレオンの力が裏で働いているからだと、そう結論付けた。
 それから何時間が過ぎたのだろう。
 いまブレイヴにできるのは待つことだけで、それがもどかしくて仕方がなかった。どんなに焦れても夜明けが来るまでは動けないのだから、彼の言うとおりにすこしでも眠っておくのが正しい。一人でここから抜け出したところで何になるのだろう。さすがにそのくらいには頭は冷えている。
「ジークのことは、俺を恨んでくれていい」
 ブレイヴはまじろいだ。ちょっと前にブレイヴが吐いた言葉と、おなじことを彼は言っている。無意識だと思う。自分の心に悔恨がなければこんな声は出てこない。
 それきりクライドは黙り込んでしまった。ブレイヴがいつまでも声を返さずにいるので彼はまた眠りについた。下手な励ましなんかじゃない。戒めと考えるべきなのだ。ブレイヴはありがとうと、ちいさく零す。その声は届いていなくともそれでもよかった。わかっている。ジークを探しに行くこともしないし幼なじみを迎えに行くことだって、しない。もっと昔の自分だったならばそうしただろうか。いまはもうききわけのない子どもとはちがう。エレノアが叱っている。アルウェンが嗜めてくれる。ジークが導いてくれる。彼らがブレイヴにひかりを与えてくれる。  


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