三章 微笑みと、約束と、笑顔と

剣を持つ意味を

 雲のあいだから太陽が姿を現したのは十日ぶりだった。
 待ち望んでいた天気に、人々の表情もずいぶんと明るい。城下街では朝市が開かれていて、オリシスの特産品はもちろんのこと、異国の商品の物めずらしさに列は絶えずにいる。街路樹や庭園には雨のにおいがまだ残っているものの、濡れた草や木がより鮮やかに見える。子どもたちはやっと外で遊べるのがたのしいのかそこらを駆け回り、母親たちが悪戯っ子を追いかけ回す。騎士たちの見回りが朝と夕方の二回だけなのは、イレスダートの他の公国同様に治安が整っているからだ。
 オリシスは豊かな国だ。
 王都マイアより南西に、森と湖に守られたアストレアがある。そこからさらに西へと進めばオリシスへとたどりつく。つまり、イレスダートでもっとも西に位置するのが、このオリシス公国だ。温暖な気候と沃土に恵まれた土地では農業が盛んである。その他にも畜産業も有名で、オリシスのソーセージやハムは王都マイアでも人気の商品だ。オリシスの特産といえば忘れてはならないのが葡萄酒で、貴人たちが集まる晩餐会では欠かせない一品でもあった。
 北から遠いためか、静かで平穏な国に見えるが実はそうではない。北東のイドニアやムスタールに次ぐ軍事力を持っているのが、このオリシスである。
 祖国アストレアを追われたブレイヴは、そこから南下して砂塵の街へとたどり着いた。
 できる限りアストレアから離れたその選択は間違っていないし、目的もなくただ逃げたわけでもない。とはいえ、白の王宮に虚偽をかけられたアストレアだ。マイアは消えた聖騎士と王女を追うだろう。隣国オリシスを頼るのは簡単でも、それではオリシスを巻き込みかねない。しかし、ブレイヴにはその逡巡の時間さえも、残されていなかったのかもしれない。迎えにきた騎士は、オリシス公爵の妹ロアだった。
「おはようございます」
 ブレイヴは待ち人に向けて微笑む。よく手入れされた庭園は、白の王宮の薔薇園にも見劣りしない美しさだ。庭師が公爵に挨拶をする。侍従を伴って現れた彼はブレイヴの姿を認めると、おなじ笑みを返してくれた。
「おはよう。よく眠れたかな?」
「はい。アルウェン公には感謝しております」
「君は相変わらず真面目だな。長旅で疲れていただろう? すこしくらい寝坊したところで、怒る私ではないよ」
 冗談とも取れない返しにブレイヴは苦笑いに変える。オリシス公アルウェンは昔から変わらない。ブレイヴよりも九つ上で、年の離れた兄がいればこういう存在なのだろうと思う。
「ご無沙汰しておりましたので、早くお会いしたかったのです」
「仔細はきいている。実は、エレノア殿より手紙を頂いていた」
「母上が……」
 やっと繋がった。母はブレイヴよりもずっと冷静で賢い。ブレイヴが見ようとしないその先まで見ているし、疑う。
「そんな顔をしなくてもいい。……いや、本音を言えば、君にはもっと早くに頼ってほしかった。君は素直で正直すぎる」
「もうしわけありません」
「そういうところが、だ」
 今度は本当に冗談だったので、ブレイヴも彼につられて笑った。アルウェンというひとは、ブレイヴが尊敬する騎士の一人だ。幼い頃から彼を憧憬の目で見てきたけれど、成人して騎士となったいまも追いつけない。騎士の挙止に物の考え方、戦術や知識にしても遠く及ばずに、彼を見ていると聖騎士の称号がただの飾りのように思えてくる。そして、なによりもブレイヴはアルウェンの人間性に惹かれているのだ。
 初夏の薫風に木々が揺らめいている。
 ガレリアの乾いた風はいつも冷たくて、手足が冷えきっていた。ひと月前のことなのに、ずいぶんと前のように感じるのはどうしてだろう。ブレイヴが何から話すべきかを思考しているあいだに、アルウェンは庭師や侍従をさがらせていた。
「陛下に私から手紙を送った。国王陛下は慧眼に優れた方だ。すべてを知っているはずだが、それでも誤解があってはいけないからね」
「ありがとうございます。本当に、なんて言えばいいのか……」
 アルウェンは笑みでつづきを遮る。励ましてくれているのだろう。軍事会議からガレリア遠征にオリシスまでの短いあいだに、言葉では語り尽くせないほどの出来事があった。同時に、アルウェンはどこまで知っているのだろうと思う。
「君は、怖がっているように見えるな」
 心を、丸裸にされている気分になる。オリシスはブレイヴを保護してくれたが、アルウェンというひとがブレイヴの味方でいてくれるとは、まだ決まっていない。
「己の行動を悔やんでいるようにも見えない。ならば、何を思い悩む?」
「それは……」
「ルドラスの銀の騎士は信用に足る男だったか?」
「私は、そう感じました。ランスロットは偽りを口にするような騎士には見えませんでした」
「だが、銀の騎士にも主君がいる。君とおなじように」
 なにが、言いたいのだろう。まじろいだブレイヴにアルウェンは追及を止めない。
「聖騎士と接触し、密約を交わす。それによってアストレア公国は白の王宮に疑われる。イレスダートは乱れるだろう。機に乗じてルドラスが動き出すのだとすれば」
 だとしても、ブレイヴはランスロットを信じている。虚言だとも言えなければ反論もできないのは、自分のただしさに自信がなくなっているせいだ。アルウェンは、それを見抜いている。
「君は、なぜ銀の騎士の声をきいた?」
「彼の、ルドラスの真意を知りたかったのです。そこに可能性を感じたのです。一度は破棄された和平条約が夢ではなく、現実になるべきだと」
「なるほど。しかし、それは陛下の意思であって君の言葉ではない」
 そのとおりだ。けれど、ブレイヴの意思は王とともにあり、騎士はそのために存在する。アルウェンもおなじであるはずなのに、どうしてこんなにも冷たい目をするのだろうか。
「いまの白の王宮で、休戦を望む者がどれだけいる? 元老院派もとより王に味方する者は数えるほどだろうな。アナクレオンは理想家だ。これでは、敵を多く作りかねない」
「アルウェン様」
「気にする必要はない。ここは、白の王宮ではないからね。それに他に人はいない」
 勁烈けいれつすぎると、本人もわかった上で声にしている。しかし、ここまで王を悪く言える人間はアルウェンだけかもしれない。ブレイヴはオリシス公爵がイレスダートの王と気の置けない友人だったのを思い出した。
 王都マイアの士官学校では騎士の他にも特別な授業がある。公爵家の子どもをはじめとした爵位を継ぐ者は、そこで帝王学を教わる。それに退屈したアルウェンは士官学校を抜け出しては、王立図書館に通ったという。当時はまだ王子だったアナクレオンと友情を育んだのはその期間だと、ブレイヴはアルウェン本人からきいたことがある。嘘のようで本当の話なのは、そこにムスタール公爵ヘルムートの名前も出てきたからだ。三人の会話が目に浮かぶ。まるで、ブレイヴとレオナと、ディアスのように。
「そうだな、休戦という言葉を口にするだけなら簡単だ。だが、逆を考えてもらいたい。和平を望まない者たちは、何を求めているのか?」
 ブレイヴは呼吸を止める。戦争を欲する者などいないと、なぜ言えないのか。
「本当に、君は正直だな。そうだ、元老院たちの声もまた正しい。そもそも、この長き争いがどこからはじまったのかなど、誰も知らない。イレスダートとルドラス。人種の異なる人間同士が争うのは、たしかに理由のひとつにはなる。そして、長い戦争でふたつの国は敵となってしまった。戦場で友を、家族を、部下を失った者は嘆き、怒る。その感情は敵へと向かう。それが突然消えたとき、どうなるのだろうな」
 それは、アルウェン自身が己に問いかけているようでもあった。
 騎士は戦うことが仕事である。戦場で人を殺すのことを正当化するつもりはない。しかし、それが騎士なのだ。だから、五年前の休戦条約が交わされるはずだったその日のために、王とともにガレリアをこえた父親を敵地で失ったとしても、心に納得させるしかなかった。悲しみも怒りも、すべてを忘れる。そうだ。ブレイヴは、ルドラスという国が滅亡するのを、目で見たいわけではない。叶うのならば両国に平和が訪れるのを願っている。理想だとしても、だ。
「人は感情の生きものだ。一度敵だと認めた者と、共存など容易くはない。なによりも、敵国を制圧すればその国が手に入る。これでもう、イレスダートに敵はいなくなる。文字どおりマウロス大陸の覇者となるだろう。それに……、」
 アルウェンは呼吸のために、ひと拍を空ける。
「戦争が終われば騎士の仕事も減る。大貴族はそれでも困らないが、それを生業とする者も少なくはない。傭兵たちはたちまちに国内を荒らすだろう。ああ、困るのは他にもいるな。金貸しや商人もそうだ。あとは、北の城塞都市か。戦争がなくなれば、捨て置かれるかもしれない」
 このひとはこんなにも饒舌だったのかと、ブレイヴは自身の記憶をたどってみる。いつだってブレイヴの目には、アルウェンという騎士がただしく映った。いまは、どうだろうか。声を追うのに必死で、自分の感情がわからなくなる。
「ふむ。これは、極論だがね。戦争をしているからこそ、イレスダートという国が成り立っているのだよ。情勢が悪化すればそれだけ国は弱るのもまた真実だが、利点も残る。あぶれ者たちはそれで大人しくなるだろう。勝つことがわかっていたならば、ある程度は長引かせてもいい。つまりは、そういうわけだ」
「そんなことを、元老院は望んでいるのですか……?」
 声が、震える。あまりに独善的で、不潔な思考にブレイヴは吐き気を覚える。アルウェンが落として言葉だと思いたくなかった。外れた視線にアルウェンは微笑する。
「誤解しないでもらいたいのだが、私は軍国主義者ではない。ただ、それも理に適ってはいるというだけの話だ。ああ、そうだ。アナクレオンが嫌がりそうな思想だな。彼は理想を追いすぎるきらいがある。元老院とはたがえるはずだ」
「陛下は、すべてを知っている、と。でしたら、どうして……」
「時宜を待っているのかもしれないな。それこそ、手段は問わずに事を進めるつもりなのかもしれない」
 ブレイヴはアルウェンの言葉を口のなかで繰り返す。何を意味しているのだろう。彼は、そのこたえを教えてはくれない。思えば母もそうだった。叱責し、ちゃんと自分で考えるようにと言う。ブレイヴに現実を見せてくれる。
「私たちは見定めなければならない。そういう時が来ているのだろうな」
 けれど、それも正しくはないことをわかっていて、アルウェンは言う。まっすぐに目を見ることのできないブレイヴに、アルウェンは自嘲の笑みをする。
「安心しなさい。君たちは私が守ろう。とにかくいまは、休息が必要だろう?」
 そして、答えを見つける時間を彼は与えてくれる。ブレイヴは己の手を見つめる。この手が剣を持つための理由など、他にはなかったはずだ。それなのに、アルウェンは何を見せようとしているのだろう。


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