三章 微笑みと、約束と、笑顔と

白であること、善であること

 孤児院の台所はとてもちいさくて、子どもたちが五、六人集まるとすぐに窮屈になる。
 食事の用意をするのはマザーで、年長の女の子たちも手伝ってくれる。朝と晩の二回だけでは食べ盛りの男の子たちには足りないので、マザーたちは先に自分たちの食事を済ませるという。今日も黒パンと玉葱のスープ。どっちのパンが大きいだとかスープに具がたくさん入っているだとか、子どもたちは喧嘩したりはしない。ちゃんとした食事が出されること、それがどれだけ大事なのかここの子どもたちは知っているし、マザーたちがもっとちいさい黒パンと、ほとんど具の入っていないスープを食べていることもわかっているからだ。
 朝ごはんを終えたら子どもたちはマザーのお手伝いをする。
 食器を片付けたり床掃除をしたり、洗濯をするのは年長組の仕事で、今日みたいな良いお天気の日にはシーツもすぐに乾く。でも、お日さまが高くのぼったこの時間でも、子どもたちはまだ台所に籠もっている。
 早朝に礼拝に訪れた老夫婦が木苺を置いていってくれた。
 籠一杯に詰め込まれた木苺に子どもたちは夢中になり、思わず手を伸ばした男の子の手を、年長の女の子がたたく。悪戯っ子の男の子は、いつもこうやって姉さん役の女の子に叱られている。だめよ、これはジャムにするんだから。
 ちょうどそのとき、マザーが奥から大きな鍋を抱えてやって来た。子どもたちのジャム作りのはじまりだ。
「それでね、できたてよりも時間を置いた方が、おいしいんだって」
 たのしみだなあ。大鍋でぐつぐつ煮込まれた木苺のジャムはきっと絶品だろう。にこにこするキリルにレオナもうなずく。台所からちょっと離れた聖堂にも、甘酸っぱいにおいが届いてくる。
「キリルは、行かなくてもいいの?」
「うん。ぼくはいいや。だって、見ていたらおなかがすいちゃうもの」
 キリルはぺろっと舌を出す。なにか子どもたちにお土産でも持ってくればよかった。レオナの心を読んだみたいに、キリルはまた笑顔になる。
「ルロイもね、出かけちゃったの。だから、ぼくはおるすばん」
 弱視のキリルはちょっとした段差にもつまずいてしまうので、孤児院の外にはほとんど出ない。元気いっぱいの他の子どもたちが遊んでいるときも隅っこの方にいたり、空を眺めてたりして一日を過ごす。レオナがキリルを見つけたのは、彼が歌を口遊んでいたからだ。
「そうだわ、さっきのうたって……」
 キリルはきょとんとする。レオナが聖堂で祈りを捧げているあいだキリルは大人しくしていたけれど、そのあとすぐにお喋りになった。木苺のことで頭がいっぱいなのだろう。
「ええと、りゅうのうたのこと?」
 今度はレオナがまじろいだ。
「りゅうのうた、って?」
「他の子たちがうたっていたんだ。ずっと前にね、すっごくきれいなひとが来たんだよ。しさいさま? ううん、ちがう。ああいうひとのこと、めがみさまって言うんだって」
 めがみさま。レオナは口のなかで繰り返す。
「めがみさまがね、女の子たちにこっそりおしえてくれたんだって。みんなすごくよろこんでた」
「それが、りゅうのうた?」
 キリルはうなずく。でも、あれは――。レオナは唇を閉じる。そう、きき覚えがあったのだ。あのうたを口遊んでいたのは姉のソニアだった。
 レオナには母親のちがう兄妹が二人いる。一人は国王アナクレオン。そしてもう一人がうつくしい姉のソニア。しかし、姉が消えてから五年にもなる。和平条約さえなかったなら、父王は存命で姉も王都にいただろうか。レオナはときどき、そんなことばかりを考えてしまう。果たされなかったふたつの国の和平条約。いまさら、戻れないというのに。
「レオナ?」
 顔をのぞきこむキリルにレオナはにっこりする。作り笑顔になっていなかっただろうか。
「ちいさなおねえちゃんのこと、心配?」
「えっ?」
「ずっと寝込んでいるから、しんぱいだよね。でも、もう熱はさがったんだって。マザーが言っていたよ」
 ここで預かってもらっているシャルロットのことだ。そうだ。ねえさまじゃない。ソニアは城塞都市ガレリアと北の敵国ルドラスとの国境で消息を絶った。レオナは姉が生きていることを信じているけれど、こんなイレスダートではない他の国にいるはずがない。
「ちいさなおねえちゃんは、レオナのだいじなひと、なんだよね?」
 ぽつりと、つぶやくようにキリルは言う。
「ぼくのいちばんだいじなひとは、ルロイだよ。たったひとりの、にいさんだもの」
 レオナはキリルの手をぎゅっとする。子どもの体温はあたたかかった。
「でも、ルロイはすぐに、ぼくをおいて行っちゃうんだ。もうすぐぼくのびょうき、なおるって、そう言うの」
「それって……」
 椅子に座って足をぷらぷらさせていたキリルは、えいと飛び降りた。
「ぼく、もう行くね。そろそろジャムもできたころだし」
 ところが、歩きはじめたキリルの身体が突然崩れ落ちた。
「キリル? どうしたの……?」
 抱き起こしたレオナは蒼白となる。あたたかいのではなく、熱いのだ。彼の身体は。
 どうしてもっと早く気づけなかったのだろう。レオナは子どもの身体を抱えて走る。聖堂を出れば、キリルを呼びに来たマザーとかち合った。





 寝室から出てきたマザーはレオナと目が合うと微笑した。
「安心してください……というのもおかしな言い方ですが、そんな顔をなさらないでください」
 いつものことですから。そうつづけるマザーはやはり疲れて見えた。最初に会ったとき、キリルは自分がちいさい頃に病気になったのだと言った。けれど、その病はいまも治っていないのかもしれない。頻繁に熱を出す。目が弱っていく。完治しているのだとすれば、他の子みたいに自由に遊べているはずだ。子どもたちがマザーを呼んでいる。木苺のジャムができたらしい。レオナはいま、自分がどういう顔をしているのだろうと、思った。
 ここの子どもたちと変わらない年のルロイが、レオナからお金を盗もうとした理由がはっきりわかった。あの子は、もうそんなに長い時間が許されていないのだ。
「なんだ、また来てたんだ」
 振り返れば、そこには赤髪の青年デューイがいた。そのうしろからキリルとおなじ栗毛のルロイが出てくる。子どもは泥だらけだった。
「キリルは……?」
 微笑むつもりが失敗した。それなのに、ルロイは安堵したかのように肩で息を吐いた。
「ちゃんと、キリルの傍に居てやりな。お前、あいつの兄ちゃんだろ?」
 デューイがルロイのちいさな肩をたたく。しかし、その手を煩わしそうに払って、ルロイはレオナを睨みつけた。
「おまえのせいだ」
 子どものつぶやきは呪いの言葉みたいだった。
「おまえがここに来るから、キリルは無理をしたんだ」
「おい、やめろって」
「おれは、大人なんか信用しない。今日来た奴らだっておんなじだ。おれたちのためなんかじゃない。あんなの、情けでも優しさでもない。自分たちの都合だけでやってる」
 ルロイの口を塞ごうとしたデューイをレオナは目顔で止めさせる。ルロイの目には炎が宿っている。あんな目は、子どもがする目じゃない。
「かみさまは、にんげんのする行いをちゃんと見てるってマザーは言う。でも、そんなのはうそだ。だって、かみさまはおれの弟を助けてなんてくれない。みんなだって、そうだ。他人だから、かわいそうって言って、それだけ。知らんぷりをする」
 声を忘れてしまったみたいに、レオナもデューイも黙りこくっている。ルロイの吐く言葉は間違っていない。なにひとつとして。
「おれは、誰も信じない。かみさまなんて、いるもんか!」
 デューイを押しのけて、ふたたびルロイは出て行ってしまった。大きなため息がきこえたのはふた呼吸あとだ。
「あんたさ、もうここには来ない方がいいよ」
 慰められるとは思わなかったが、突き放されるとは思わなかった。憐れんでいるのだろうか。デューイはそんな目をしている。
「それにあの子も、治ったなら早く連れて帰ってほしいんだよね」
「でも、シャルロットはまだ……」
「熱はさがったんだろ? マザーに頼まれて何度か食事を持って行ったけど、あの子ぜんぜん食べないんだよ」
 それはまだ体力が回復していないからだ。庇うつもりでも、声が出てこない。
「正直さ、これ以上増えると困るんだよ。あいつらを見てたらわかるだろ? みんな素直にマザーの言うこときいてる。困っている人や病人にはやさしくしなさいって。でもさ、これ以上なにかを強いるのはあいつらには酷だよ」
 言いたいことは痛いほどわかる。面と向かって迷惑だと言われた方がずっと良かった。
「あの子、どこかの令嬢だろ? 親は何してるんだよ? なあ、あの子はどこから――」
「貴様には関係ない」
 ルテキアだった。デューイとレオナのあいだに割って入ると、傍付きはレオナをうながした。長居しすぎたのかもしれない。きまりが悪そうにデューイは頭を掻きながら出て行く。さあ、参りましょう姫さま。耳元でルテキアが囁く。姫と呼ぶのはやめて。その約束も忘れてしまっている。
「まって、ルテキア」
 頭のなかがぐるぐるする。みんなの言葉がレオナを責める。でも、幼なじみは自責の念に駆られなくてもいいと言ってくれた。それから自分に正直でいてほしいと、レオナにそう願っていた。己の心に嘘を吐かない。わたしにできることは――。だから、レオナは本当の思いを声にする。
「すこしだけ、寄ってみたいところがあるの」











 レナードの報告は公子をひどく動揺させた。
 自由都市にイレスダートが介入しようとしている。そんなものを国王アナクレオンが許すはずはなかったが、白の王宮が動いているのは紛れもない事実だ。そうして、マイアの騎士を率いているのは、あの男。
 ジークは歯噛みする。城塞都市ガレリアでランドルフは、自身が総指揮官だという理由だけで公子を頤使いしした。ランドルフは聖騎士をただの一介の騎士だとしか思っていない。自分の主があの男の前で頭を低くするのを見るたびに、ジークは例えようのない怒りを覚えるのだった。
 その男がいま、このサリタにいる。
 レナードは一度見た顔を忘れないし、絶対に見間違えたりしないと言い張っている。公子にしてもジークにしても、レナードを疑ったわけではなかったが、しかし報告をそのまま受け入れるまでには時間が要った。ここはカナーン地方の最大の都市である自由都市サリタ。イレスダートの手が届かないこの街に、白の王宮は接触しようとしている。つまるところ侵略だ。
 ジークはブレイヴの横顔を見た。上手く感情を隠しているようでも、ずっと傍に居たジークにはわかる。公子は信じようとしていない。白の王宮は公子にとってその名のとおりに白であり、善でもある。いま、それが覆されようとしているなど、どうして受け入れられようか。だが、ジークは主に声を落とさなかった。公子はこの街に来てからというもの、口数がめっきり減ってしまった。深く考えごとをしているときに黙り込んでしまうのは主の癖だったが、これはあまり良くない兆候だと、ジークは思う。
 やはり、公子は甘い。聖騎士であるならばなおのこと、その目で見てきたはずだ。白の偽りの色でしかない。なにより、イレスダートは北と戦争をしている国だ。聖王国を北の蛮族たちに蹂躙されるくらいならと、手段を選ばない。必要とあらば他国にだって手を伸ばす。元老院は嘯く。たしかにそれもまた戦争のやり方だろう。
 それに、と。ジークの唇が動く。これはまたとない機会ではないかとも、そう思う。すでにサリタの八つの門は閉ざされてしまった。事が終わるまで身を潜めるしかないが、それもいつまでつづくものか。逆に言えば混乱が起こってしまった方が好都合であると、ジークは考える。自由を謳う街がどうなろうと関係がない。そうだ。いま、そんなことを気にしている場合ではないし、サリタからの脱出を優先するならば、それが一番早いのだ。 
 裏路地を抜けたと思ったら、また次も小道を選ぶ。旅人や巡礼者の姿もなければサリタの住民すらほとんど見えない。迷っている風でもないのは、この街をよく知っているからだろう。彼の歩調も一定だ。
「おい」
 しかし、さすがに気づかれたようだ。ジークはとっさに笑みを作る。
「なんのつもりだ?」
 異国の剣士は不快感を隠さずに言う。正直な人だ。そういうところが公子と良く似ている。
「意外だな。あんたはブレイヴから離れないと思っていたが」
「公子はちいさい子どもではありませんので」
 とっくに成人を迎えた大人でもあるし、騎士でもある。だが、納得をしていないのか彼の眉間に刻まれた皺は消えずにいる。
「あんたがそこまで警戒する男だ。そのランドルフとか言う奴は、よほど危険な男らしい」
「ええ。けっして、公子に近づけるわけにはいきません」
「それでこの俺をも疑っているというわけだ」
 ジークはにっこりとする。嘘偽りのない笑顔で。
「俺はそんな奴を知らない」
 怒ってはいるものの、彼の口吻にも嘘は隠されていなかった。ジークはさして驚くような顔もせずに、素直にきき入れる。想定内とでも言えば、彼はジークに食ってかかるだろうか。そんな人じゃない。だからこそ、ジークは彼を自分の目で見極めた。
「非礼をお詫びいたします。どうかお許しください」
 主にそうするように、ジークは頭をさげる。舌打ちかため息か、どちらかで返されると思っていたがクライドは相好を崩さなかった。
「悪いがお断りだ。あんたの考えていることなんて、大体わかる」
 そうして、思ったとおりの声が返ってくる。でも、それでいい。それきり行ってしまったクライドの姿が見えなくなっても、ジークはまだ微笑んだままだった。  


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