三章 微笑みと、約束と、笑顔と

白の静寂、黒の深淵

 扉をたたこうとして、ブレイヴは手を止める。そこがわずかに開いていたからだ。
 先客がいるのだろうか。それにしてはおかしい。宰相や他の侍従たちがオリシス公の邪魔をするとは思えないし、反対に彼をとっくに休ませているはずだ
 ブレイヴは耳をそばだててみる。話し声は届かずに、他にきこえるのは雨音と遠雷だけだった。
「どうしたの……?」
 幼なじみに問われて、ブレイヴは振り返る。レオナが不安そうに見つめるのも無理はない。彼女は城内の異変にいち早く気がついていた。
 途中で別れたクライドはまた追いついていなかったが、待たずに行くことにした。ブレイヴは幼なじみに向けて笑みを作る。違和を感じたのは、そのすぐあとだった。
 湿った風に混ざっているのはなんだろう。鉄の錆びたようなこの嫌なにおいは。次の瞬間、ブレイヴは勢いよく扉を開けた。
 机上の蝋燭の灯が頼りなく揺れている。しかし、そこにアルウェンの姿はなかった。ブレイヴはもうすこし視線を右へと滑らす。床のそこここに散らばっているのは羊皮紙だ。アルウェンが綴った書状だろうか。そこには染みが作られていて、誤ってインクを溢してしまったのかもしれない。けれどもブレイヴの思考はそこで変わる。思わず息を止めていた。この色は、赤。羊皮紙を染めているのは大量の血だった。
「アルウェン様!」
 うつ伏せに倒れている人物がはじめは誰かわからなかった。赤の色が羊皮紙を、絨毯を、オリシス公の衣服を濡らしている。彼の上体を起こそうとしたブレイヴの両手も、すぐに赤く染まった。 
「アルウェン様、アルウェン様……! しっかり、しっかりなさってください!」
 懸命に呼びかけようとも彼の反応はまるでなかった。ブレイヴの呼吸が浅くなる。オリシス公の側には彼の剣が落ちていた。誰かと戦ったあとなのか。だが、その剣は綺麗なままだ。
 なぜ、こんなことになったのだろう。
 物音、あるいは声。誰も気づけなかったとは思えない。アルウェンがベルを鳴らせば扈従がすっ飛んでくる。回廊にはアルウェンの悲鳴も届かなかった。まるで、この部屋だけが世界から切り離されているような、そんなことがあり得るのだろうか。
「ブレイヴ、だめ。離れて……っ!」
 幼なじみの声がするまで気づかなかった。気配はまったく感じなかった。けれども、そこには一人の子どもがいる。子どもの唇には笑みが描かれていて、しかしブレイヴと動かないアルウェンを見つめるその青玉石サファイア色の瞳は、無機質な鉱物さながらに冷たかった。
「おまえ、は……」
 白肌の子どもだった。真白い雪のような肌と、髪の色もおなじように白い。瞳の色だけが異様に青く、しかしうつくしい子どもだった。
 年は十歳くらいだろうか。まだ善悪の区別がちゃんと付いていないような子ども。その手に武器らしきものは掴まれてはいなかった。
 ぞっとした。こんな子どもがアルウェンを手にかけるなど不可能だ。だが、この子どもがアルウェンを殺した。そういう目でブレイヴを見つめている。
 ブレイヴはそこではじめて自分が震えているのに気がついた。どうにか剣に手を伸ばそうとするものの、己の意思とは反対に右手は動いてくれなかった。肌が粟立っている。冷たい汗が背を流れている。騎士として、戦場で何度も戦ってきたブレイヴだ。劣勢ともなれば敗北は当然で、死を意識したこともあった。
 それでもブレイヴは生きて戦場から帰ってきた。幼なじみや母親を泣かせることもなかった。自分は悪運が強い方だと、そう思う。これまではの話だ。
 これほどに恐怖したのは、はじめてかもしれない。殺される。その子どもからブレイヴは目を逸らさなかった。いや、逸らせなかったのだ。
 この力はなんだろう。ブレイヴはいま、自分の意思で身体を動かすことができずにいる。呼吸を奪われ、思考さえも封じられているような、その錯覚。目の前の子どもは何の武器も持っていないただの少年だ。でも、白の少年はまずブレイヴを殺す。そうして、次には――。
「ブレイヴ、だめっ……!」
「よせっ!」
 レオナとクライドの声が同時に響いた。
 どうやって動けたのかわからない。けれども、ブレイヴは飛びさがり、白の少年へと剣を向ける。息が苦しい。声が出ない。子どもはにっこりと笑う。身震いがするほどに美しいその顔で。
「彼は、ここで死すべき人間です」
 まだ声変わりのはじまっていない子どもの声だった。
「お可哀想ですが、仕方ありません。誰も、運命には逆らえないのですから」
 それなのに、吐かれた言葉は演者のようで寒気がする。
 イレスダートには女神イシュタリアがいる。ヴァルハルワ教会と、その信徒たちが崇める女神だ。ブレイヴは敬虔なヴァルハルワ教徒とはちがったが、神を軽視するような思考でもなかった。とはいえど、運命の車輪を司り、人の運命を決めるような神の存在を認めたくもない。
「そんなものが、アルウェンを殺したと、そう言いたいのか?……」
 女神を補佐するための子どもがいる。純真で穢れを知らないような子ども。神々に愛玩された神子がいるとすれば、この少年のような容姿をしているのかもしれない。神が気まぐれで創った人間とは別の、精巧で完璧な人形のような生きもの。だとしたら、この白の少年は人間とは別の――。
「それには目撃者が必要です。いえ、証人と言うべきでしょう。そして、もうひとり」
 白の少年の視線がブレイヴから他へと移った。幼なじみはブレイヴの腕を掴んでいる。震えているのが、わかる。当然だ。大量の血が撒き散らされた部屋、倒れているアルウェン。それから、異形の子ども。
「その目、気に入らないな」
「あ、あなたは……だれ?」
 白の少年はすっと笑みを消した。あの青玉石の色をブレイヴは見たことがあった。幼なじみと、レオナとおなじなのだ。けれど、彼女のやさしい色なんかじゃない。子どもの瞳に宿っているのは、激しい怒りと憎悪だ。
「ふうん、忘れてしまったんだ? いいよ、それでも」
 風を感じたかと思えば、頬に痛みが走った。つと、ブレイヴの右頬から血が流れる。風の魔法。いいや、そんな生やさしいものとはちがう。真冬の嵐さながらに強い風が吹いている。気がつけば、ブレイヴとレオナはその空間のなかに閉じ込められていた。
 これが、この子どもの魔力なのか。
 ブレイヴの目の前にいる子どもの足は床を離れて宙に浮いている。そのまま足を組み、ゆうらりと揺れながら、泰然とした眼差しでブレイヴを見る。生かすのも殺すのも自分であると余裕の表情で、しかしすこしでも機嫌を損ねればすぐに殺すのだろう。それこそ、与えられた玩具おもちゃに飽きてしまったときのように。
「殺しはしないよ。もっと苦しんでもらわないと、ね」
 白の少年の作った風が羊皮紙を巻きあげ、本棚からは次々と本が落ちてきた。その頃にはブレイヴにも魔力の渦が見えた。白の少年が声を発するたびに肌に鋭い痛みを感じる。ここに、自分一人だったならば、もうとっくに正気を失っていたと、ブレイヴはそう思う。
 ブレイヴのうしろにはレオナがいる。ブレイヴは絶対に彼女を守らなければならない。けれどもいまのブレイヴにはその余裕がない。だから、ブレイヴは気づけなかった。幼なじみが無意識のうちに魔力で対抗していたことも、自分を守っていてくれたことも。
「そう。すでに運命は動き出している。苦しめばいいんだ、お前なんて。どうせそこから逃れられはしないのだから」
 白の少年の目に憎悪が見える。そして、この子どもを取り巻くのは炎。激しい怒りの感情だ。きっと、自分はあの炎に飲み込まれるのだろう。
 レオナだけは――。
 かろうじて動かせた目を、ブレイヴは扉の方へと向ける。クライドが見えた。腕のなかにはアルウェンの養女シャルロットがいる。部屋に撒き散らされた大量の血、その中心にいるアルウェンの姿を認めて失神したのだろう。クライドがこの部屋に踏み込めないのはシャルロットを守っているだけではなく、閉ざされた空間に入れないからだ。ブレイヴはどうにか右手を動かそうとしたものの、意思に反して手は動いてはくれなかった。声も出ない。いいや、だめだ。助けを乞うための叫びをしたところで、他の人間を巻き込むだけだ。
 笑う声がする。あの少年が笑っている。
 ブレイヴは己の死を覚悟した。大丈夫だ。この身が焼き焦げようとも、白の少年が放つ魔力のすべてを受け止めればいい。そうすれば少なくともレオナは助かる。そして、ただでは死なない。あれだけの魔力を一気に放とうならば、必ず隙が生まれる。刺し違えようともその一瞬の隙さえ見つければ、幼なじみをここから出してやれる。
 ところが、白の少年が指を鳴らすと同時にブレイヴを縛っていた魔力が解けた。ぱあんと、破裂音のあとには空間が割れたのがわかった。なんのつもりだろう。息を整えるより先に、ブレイヴは白の少年を睨《ね》めつける。
「それでは、また会いましょう」
 白の少年は新たな魔力の渦を作る。そこには闇があった。深淵の闇。しかし、そのなかに子どもの姿は飲み込まれてゆく。そうして完全に見えなくなったあと、暴れ回っていた風も収まった。魔力が消え、ブレイヴがいるのは元のアルウェンの部屋だ。
「アルウェン様!」
 夢でも幻でもなかった。頼りなく揺れる蝋燭の灯、散らばった羊皮紙、薙ぎ倒された本棚、絨毯を染める赤の色。倒れたまま動かないオリシス公。
 ブレイヴは改めて彼の傷を見た。あまりの生々しさに震えが止まらなくなった。鋭利な刃物のようなもので刺された傷は複数に及ぶ。顔に、首に、腕に、胸に、腹に、脚に。皮膚の下の肉まで裂けていた。アルウェンの身体がどんどん冷たくなっていくのがわかる。けれども心臓の音が届く。彼は、まだ生きている。
「レオナ!」
 幼なじみはびくりと肩を振るわせたものの、恐るおそるアルウェンへと手を伸ばした。きっと間に合う。そうだ、レオナの力があれば彼は助かる。祈りにも似た希望の眼差しでブレイヴは幼なじみを見る。レオナはうなずき、そうして癒しの魔法がはじまった。淡い緑色の光。再生と生命の魔力だ。
「よ、せ……」
 それは声というにはほど遠かった。アルウェンが咳き込む。呼吸もひどく乱れていて、息をするのも苦痛なのだろう。それでも、彼は声を紡ごうとする。
「目が、もう、見えない。けれど、そこに……いるのは、ブレイヴだろう?」
「あ、アルウェン様、喋らないで。いま、助けます!」
 しかし、彼は癒しの手を拒んだ。緑の光が消えて、より濃い死の匂いがする。
「にげ、なさい。ここは、危険、だ」
「アルウェン様、大丈夫です。あの少年は、もう」
「そう、ではない。これは、はじまりに……すぎない」
 あの白の少年とおなじ声をアルウェンは吐く。
「は、はやく、逃げなさい……。動き出して、いる。何か、大きな、その力が……。君たちは、生きて」
 そこで声が途切れ、アルウェンは激しく咳き込んだ。アルウェンは口から大量の血を吐く。何度も、何度も。その顔にはもう生気は感じられなかった。
 どうして――。ブレイヴは口のなかで言う。こんなにも傷つき苦しみながら、それでもなおアルウェンはブレイヴに逃げろと言う。ブレイヴは彼の手をずっと握りしめていたが、どんなに力を込めたところでおなじ強さは返ってこなかった。
「アルウェン……」
 数多く見てきた。それは、ともに学んだ友だった。信頼の置ける部下だった。志をおなじとした仲間だった。でも、戦場で傷つき倒れた者は皆、最期はこうなった。
 どうして、自分に希望を託すのだろう。聖騎士に光を見るのだろう。ブレイヴは死んでいった彼らと何も変わらない人間だ。聖騎士だって騎士の一人に過ぎないのに。
「何をしてる! 早く来いっ!」
 クライドが呼んでいる。そのときにはもう遅かった。
 皿が割れる音がした。アルウェンに酒肴を届けるために来た侍女だった。ブレイヴは口内を噛む。運命なんて言葉は信じていなかったが、けれど彼の最期のときを見送る時間さえも自分には許されてなかったらしい。甲高い悲鳴がきこえた。まもなくここに衛士が訪れる。そうだ、侍女は見てしまったのだ。部屋を染める赤い色。傷つき倒れたオリシス公。それから、立ち会ったブレイヴを。
「待て、動くな!」
「いやっ! こ、殺さないで!」
 クライドの制止を振り切り、侍女は逃げてゆく。あの子どもは目撃者と言った。その意味がやっとわかった。
「くそっ。……いや、まだ間に合う。早く来い、ブレイヴ!」
 クライドはなおもブレイヴを呼びつづけている。
「ジークが馬の用意をしている。他の奴らは先に行った」
 まだ現実を見ようとしないブレイヴに、その決断をさせようとする。
「脱出するぞ! 迷っている時間はない!」
 にげる。ブレイヴはつぶやく。どこに行くというのだろう。この先には闇しかない。光はもう失われてしまっている。それに、アルウェンをこのままにしておけない。ここは戦場ではなかったけれど、それでも騎士として逝こうとするアルウェンの傍に最後まで。
「ブレイヴ……」
 はっとした。ブレイヴは幼なじみを見た。ガレリア、それからアストレア。ブレイヴはいつだって彼女の手を離さなかった。ああ、そうか。何度おなじ道を繰り返したとしても、ブレイヴが選ぶのはひとつだけだ。
「行こう」
 ブレイヴは幼なじみに向けて言った。
 その日、オリシス公アルウェンに密かに匿われていた聖騎士は、オリシスから姿を消した。
 公爵の妹ロアは騎士団に命じて行方を追ったが、しかし聖騎士はイレスダートから逃げたあとだった。


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