三章 微笑みと、約束と、笑顔と

遠雷

 雨の音がきこえる。
 夜になって降りはじめた小雨は、だんだんと強くなっている。温暖な気候のオリシスでは雷を伴うような激しい雨は稀だ。それでもときおり、灰色の雲は嵐を連れてくるという。
 朝には止んでいるだろうか。
 そのままいつまでも雨音に耳を傾けている自分に気がついて、ブレイヴは息を吐いた。寝付きは良い方だったが、いまみたいに考えごとをしていては、眠りも遠くなる一方だ。
 アルウェンの笑顔、ロアの声。どちらも正しいとブレイヴは思う。けれども、こうしてオリシスで守られているブレイヴに何ができるのだろう。ただ待つということが、これほどもどかしく感じるのもはじめてだった。
 風が出てきた。窓をたたく荒っぽい風は北の城塞都市を思い出す。
 あちらでも長雨がつづいているときいた。ガレリアでは僻村へきそんも多いので、孤立してしまえば民は困窮する。けれども総指揮官ランドルフは救出や援助のために騎士を動かすのを嫌がるだろう。では、新たに派遣されたランツェスの公子はどうか。ホルストは幼なじみの異母兄だ。
 ディアスはきっと怒るだろうな。いや、笑うかもしれない。あの日、王都マイアの白の王宮で幼なじみはブレイヴを案じる声をした。ディアスは怒っていたからこそ厳しい物言いだったし、現実的な声を吐いた。それは間違っていないと思う。聖騎士であろうとも騎士の一人に過ぎない。つまりは、白の王宮の道具だ。
 もしもあのとき、レオナがガレリアに来なかったならば、ブレイヴはそのまま城塞都市に残っていただろうか。王命が届かずとも元老院は聖騎士の行いを見逃してはおかない。そうして、奴らはアストレアを――。
 先ほどから栓なきことばかりを考えてしまっている。ブレイヴは眠るのを諦めて、寝台から降りた。雨はまだ止みそうにもなかった。
 寝間着から着替えて部屋を出たのは水を分けてもらうためだ。この時間に大台所は閉まっていても、離れの台所ならば人がいる。オリシス公に酒肴しゅこうを届けるからだ。実際、アルウェンの部屋には明かりが灯っている。
「ブレイヴ?」
 呼び止められたのはそのときだった。彼女の気配に気づかなかったのも、考えごとをしていたせいだ。
「どうしたの? こんな時間に」
「それは、きみもおなじだよ」
 幼なじみは傍付きも伴わずに一人きりだった。ここがいくらオリシスの城内だからといって不用心がすぎる。そういう顔をしてみるとレオナはうつむいた。
「眠れないの?」
 別に責めているわけじゃない。アルウェンが王都に行く。それを伝えたときに彼女はオリシス公をひどく案じていたし、何の挨拶もできなかったことを気にしていた。まさかアルウェンの私室に向かうつもりだとは思えなくとも、幼なじみも寝間着ではなかったし羽織も着ている。
「ごめんなさい。ルテキアを起こすべきだったわ。でも、誰のところに行けばいいのかわからなくて」
 夜半に喉が渇いたわけではなさそうだ。それに、先ほどからずっと幼なじみは自分の腕を摩っている。
「寒いの?」
「ううん。でも、空気が冷たくて。なにか、よくない感じがする。うまくは、言えないのだけれど……」
 魔力を宿さないブレイヴはそのにおいを嗅ぎ取るのは不可能だ。けれど、レオナの声が杞憂だとも思えず、ブレイヴは異変を見逃さないようにと神経を使う。オリシスの城内にも名うての魔道士がいる。彼らは王都マイアで魔力の使い方をちゃんと学んだ熟練者たちで、それに他の騎士たちも危機を察して集まってくる。でも、回廊にはブレイヴとレオナの二人きり、他は止まない雨音と遠くできこえる雷だ。
 部屋まで送るよ。そう言いかけて、しかしブレイヴは声を止めた。中庭を挟んだ向こうの回廊には人の姿が見える。
「あれは……」
 クライドだ。異国の剣士はこちらに気がついていて、しかし視線はすぐに外れてしまった。ブレイヴは彼を追いかける。夜の散歩にという天気ではなかったし、何より勝手気ままに城内を行くような人ではない。それも、こんな時間に。
「驚いたな」 
 最初の声がそれだった。クライドはちゃんとブレイヴを待っていてくれたものの、どこか居心地悪そうにしている。
「逢い引きをするならもっと人目につかないところでやってくれ。いや、いい。俺はなにも見なかったことにする」
 ブレイヴはまじろぐ。何か誤解をされているようだが身に覚えがないので、返答にも困ってしまった。ブレイヴのうしろから幼なじみが出てくる。目を合わせようとしない彼に、幼なじみは言う。
「あなたは、どうしてここに?」
「あんたたちとおなじ理由だ」
「じゃあ、あなたも?」
「いや、そうじゃない」
 クライドの声が変わった。
「俺はあんたみたいな特殊な力は持ってない。だが、あえて言うなら勘だ。それに、静かすぎる」
 そうだ。他に誰の姿もないのが不自然なのだ。
 ここはアルウェンの治めるオリシス公国。そのもっとも安全ともいえる城内でも、やはり夜間ともなれば衛士が巡回する。オリシス公の妹ロアは、白の王宮の使者がたびたび訪れていると、そう言った。とはいえアルウェンという人がいる限り、ここで間諜が自由に動き回れるとは考えにくいし、凶手にしても簡単には入り込めない。そのはずだ。
 それなのに、この違和感は何だろう。レオナもクライドも気がついている。ブレイヴはもっと意識して呼吸をする。あるいは、すでに何者かがここに侵入していたとすれば――。
「行こう。アルウェン様のところに」
 二人は同時にブレイヴを見た。騎士団長に知らせるには別塔まで行く必要がある。もしも何かが起こっていたのなら、それでは遅い。ブレイヴはレオナの不安もクライドの直感も本当だと思うし、疑わない。
「もう一人、いる」
 ブレイヴはまじろいだ。
「途中で見たが声はかけなかった。怖がられても困るからな」
 その理由はすぐにわかった。上の階へと向かう途中に一人の少女を見つけた。アルウェンの養女シャルロットだ。
 いきなり呼び止めれば驚かせてしまう。幼なじみはにっこりして、それから自分が先に行った。もしかしたらクライドはブレイヴを待っていたのかもしれない。アルウェンの養女は内気な性格をしているし、彼もどちらかといえば口下手なたちだ。
「先に行ってくれ。あとで追いつく」
 どこへ? とは問わなかった。クライドの姿が消えて、ブレイヴは彼女たちへと視線を戻す。ちょうど話し終えたところだった。
「アルウェンさまの部屋に行く途中だったみたい」
 こんな時間にという声は飲み込んだ。それならば全員がおなじだ。
「お昼に、ちゃんと会えなかったから……」
 アルウェンの妻テレーゼの部屋で午後のお茶を楽しむのが一家の決まりごとだ。けれど兄妹が口喧嘩をしているうちに、アルウェンは間に合わなかった。明朝、王都へと旅立つ養父に別れの声をできなかったのだろう。半月ほどで戻るとアルウェンは言ったものの、足止めされないとも限らない。そうすれば白の王宮にすら近づけなくなるし、最悪の場合はオリシス公が幽閉されてしまうこと。そこまで思考してブレイヴはかぶりを振った。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。あまり遅くなると、アルウェン様が心配する」
 それに、こんなにたくさんで押しかけたらびっくりする。
「ごめんなさい……。迷惑、だった?」
「そんなことはないよ」
 ブレイヴは微笑する。
「よかった……。私、ほんとうは一人で行く勇気がなかったの。でも……」
「大丈夫。アルウェン様は怒ったりしないよ」
「ほんとうに?」
 ブレイヴはうなずく。幼なじみは少女の手を握っている。きっと、アルウェンは笑ってくれる。ちょっとあきれたようなそんな顔をして、でも次には皆の顔を見て微笑む。君たちは心配性だな。私は子どもみたいだ。これではテレーゼに叱られてしまうな。そういう声が、きこえる。











 蝋燭を変えるのも、これが三本目だった。
 今日は早めに休んでくださいね。十歳年下の妻テレーゼは、ときどきアルウェンを子どもみたいに扱う。そのアルウェンもちゃんと返事をしたものの、しかしこれでは約束を破ってしまいそうだ。
 左手の小指には黒のインクがこびりついている。羊皮紙に綴られている文字は乱れていて読みにくい。いずれも近しい者へ宛てた手紙なのでアルウェンの癖を知っているはず、愚痴愚痴と文句を言いながらも、皆まで読み取ってくれるだろう。
 書き終えるとベルを鳴らして扈従こじゅうを呼ぶ。
 封蝋を押すあいだに扈従が欠伸をするものだから、四度目は呼ばなかった。それほど急ぎでもあるまい。朝にまとめて届けさせればそれでいい。アルウェンは肩でひとつ息を吐き、それからカップへと手を伸ばしたものの、中身はとっくに空になっていた。扈従を下がらせる前に酒肴を命じるべきだったと一人苦笑しながら、次の仕事へと取り掛かる。羊皮紙の山もあと半分といったところか、これではやはりテレーゼに叱られてしまうだろう。
 何を焦っているのですか。
 無遠慮な声を妹のロアはする。そうなのかもしれない。妹はまだ若いせいか感情のままに言葉を吐くが、それでもアルウェンよりもずっと現実を見ている。わずかな瑕疵かしも見逃さなければ、オリシスに害となるものを許さない。だから白の王宮も、元老院も、王でさえも敵だとはっきり物を言う。
 まったく、誰に似たのだろう。しかし、妹の声はアルウェンの心の声でもあるのだ。
 アルウェンだって本当はわかっている。アストレアの公子の前で言ったことにしても紛れもない本音であったし、主君を非難していることには変わりない。でしたら、行くべきではないのです。そう、ロアは言う。きっとそれが正しい。頑固な兄妹は良く似ているから困るのだと、テレーゼがちょっとあきれたような顔をして笑う。それでも、アルウェンは明日王都へと行く。公爵としての務めよりも騎士の矜持きょうじよりも大事なものがあるとすれば、それはアナクレオンとの繋がりなのかもしれない。
 アルウェンは友を信じている。しかし、その友が道を間違えそうになったとき、正しい方へと導いてやるのが自分の役目だと疑わずにいる。たとえ、それが傲慢であったとしても。
 ふっと、蝋燭の火が消えた。つい先ほど、明かりを灯したばかりだった。
 雨音は絶えずに、風も強くなる一方だ。遠くできこえているのは雷だろうか。不可解に思いながらもアルウェンは手探りで火を灯す。黒の世界がふたたび光を取り戻す。そのとき、だった。
 扉をたたく音もなければ、また人の気配も感じなかった。
 しかし、アルウェンの視線の先には一人の子どもがいる。少女、いや少年だろうか。純粋で無垢な青玉石サファイア色をした瞳が、アルウェンを見つめている。
「何者だ?」
 アルウェンの問いに子どもはくすりと笑った。その髪も肌も、病的なまでに白い。まるで雪花石膏アラバスターのようだ。
「オリシスのアルウェン公ですね?」
「そうだ。お前はなんだ?」
 意味のない質問だとわかっていながらも、あえて問う。その容貌からオリシス人ではないことはたしかで、そもそもアルウェンの顔を知らない者だからこそ吐かれた台詞だ。
 もう何年も前の話になるが、城内にもっと衛士を増やすように忠言したのはアルウェンの叔父だった。叔父上は神経質が過ぎる。オリシスは王都マイアから離れているし、この大国に迂闊に手を出すほど元老院も馬鹿ではないと、そう返したのはアルウェンだ。だが、年長者の声は素直にきくべきだったのだ。
 雨の音がきこえる。雷が近づいてくる。何の騒ぎも起きていないのは幸運だったのか、それともその逆で衛士はとっくに殺されているのだろうか。侵入者は誰にも気づかれずにここに来た。酷い殺された方をしたのかもしれない。心のなかで騎士と家族に謝罪をする。けれども、それすらもう意味のない行為だろう。この次に殺されるのはアルウェンだ。
 子どもはずっと微笑んでいる。
 うつくしい子どもだった。身分は明らかではなくともその場で跪き、そうしてかしずくべき存在に思えた。そういう笑みを子どもはしている。
 いまアルウェンの心を支配しているのは恐怖だ。騎士ではなくただの貴族の一人であったなら、誇りを捨てて命乞いをする。それが無駄だと知っていながらも、人間の本能に従うしかなかった。あの子どもの目は見た者の心を奪う。畏怖、もしくは嫌悪。両方を感じていながらもアルウェンは、すぐ側に立てかけてある剣へと手を伸ばそうとする。騎士として利き腕がほとんど使いものにならないアルウェンが戦える時間など、ほんのわずかだ。けれども、相手に剣の切先が届くその前に、アルウェンは死ぬ。
 だとすれば、逃げなければならない。
 アルウェンの肌が、髪が、心臓が、全身が、そう警告している。これは危険だ。こいつは危険だ。逃げなければならない。逃げられやしない。
 あるいは、もうすでに攻撃をされているのだろうか。ひどい頭痛がする。耳鳴りがして眩暈がする。息苦しさにアルウェンは胸元を抑えている。そのあいだも子どもはずっと笑っていた。
「目的は、何だ?」
 暗殺者を寄越さずともアルウェンを殺すことなど簡単だ。白の王宮に入る前に捕らえればいい。こんな子どもを使うよりも早く事が収まる。子どもはきょとんとし、けれどもまたすぐに笑った。お気に入りに玩具おもちゃを前にしたときのように、無邪気な笑みだった。
「あなたは何か誤解している。白の王宮でも元老院でもない。あなたと必要としていないのは歴史……、いや運命だ」
「運命、だと?」
 アルウェンの一番嫌いな単語だ。子どものなりをしているが老獪ろうかいな人間の使う言葉。ちがうと、アルウェンの唇が動く。こいつは人間などではないのだ。既視感がある。どこかであったような覚えもなくとも、これとおなじにおいを持つ者がいる。似ているのだ。目の前にいる子どもと。
 アルウェンの思考はそこで終わりとなる。この時間に飽きたのだと、そういう顔を子どもはする。
「さあ、はじめましょう。目覚めにはあなたの死が必要なのです」
 闇は、アルウェンのすぐ側まで迫っていた。


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