三章 微笑みと、約束と、笑顔と

やさしさであふれるように

「お断りします」
 最初にそう答えたのはオリシス公の妹ロアだった。アルウェンが皆まで話し終える前だった。
 年の離れた妹を父母の代わりに育ててきたのはアルウェンだ。ロアが自分とおなじ道を行くと決めたそのときから、妹ではなく騎士として扱ってきた。しかし、どこかでいつも甘さが出てしまうのかもしれない。ブレイヴの前でアルウェンは苦笑していた。
「すこし落ち着きなさい、ロア」
 まずはカウチに掛けなさい。アルウェンはそう促したのだが、ロアは兄の言うことをきかずに直立不動のままだ。
「私は至って冷静です。兄上はいつまでも私を子どものように扱う」
 アルウェンはひとつため息を吐いた。
「そうだな。では、お前は騎士として受け入れなさい。これは公爵の命令だ」
 気色ばんだロアの横顔をブレイヴは見た。
 オリシス公は騎士としても公爵としても優秀だし、人間的にもブレイヴは尊敬している。けれど、これでは逆効果だ。
 ブレイヴがオリシスへと身を寄せてからふた月が過ぎていた。長雨は収まったものの、夜になるとまとまった雨が降る。それが明けるとまもなくイレスダートに夏がはじまる。この日も朝から青空が見えていて、ブレイヴも騎士の合同訓練に参加させてもらうつもりだった。アルウェンに声をかけられたのはそのときだった。
 話があるからあとで私の部屋に来なさい。アルウェンはそれだけを言った。
 何か良くない予感がして、それは見事に当たった。王都に行く。君たちはこのままオリシスにいなさい。不自由があればテレーゼに言えばいい。私の不在のあいだ、来客は宰相が受ける。白の王宮はけっして君たちに接触できないから安心していい。それからロア。騎士団はすべてお前に任せる。有事の際の対応は分かっているはずだ。
 矢継ぎ早に話つづけるアルウェンにブレイヴは返事をする間もなかった。峻拒したのはロアだった。
「考え直しては頂けませんか?」
 アルウェンは微笑する。懇願は騎士としてではなく、妹の声だった。だが、これで留まるようなオリシス公ではない。ブレイヴはそう思う。
「いまの王都は危険です。兄上となれど」
「国王陛下からは未だ何の便りもない。おそらく、私の書状も陛下には届いていないのだろう」
「でしたら、尚更です」
 兄も妹もいないブレイヴには兄弟の喧嘩を知らなかった。けれども、これはそういった類のものではない。アルウェンは本気だったし、ロアだったおなじだ。互いの心は決まっているからこそ折れることはない。
「俺も彼女に同意見だな」
 皆の視線が一斉に彼へと向かった。クライドがここに居合わせていたのは偶然だ。彼は明日、オリシスを経つ。褒賞を受け取る、はじめはそれだけのためにオリシスに寄ったのだろう。しかしクライドがこれほど長くこの国にいたのも、居心地の良さを感じていたからだ。流浪の剣士でも黙って去るような不作法な人ではないらしい。別れの挨拶に訪れて口論に巻き込まれた、そんなところだろう。クライドの顔にはやや迷惑そうな渋面が作られている。
「オリシス公がアストレアを庇っている。下手をすればこの国も敵だと見做されかねない。そういう奴らだろう? 白の王宮は」
「敵か。なかなか手厳しいな、君は」
 だが、間違ってはいない。オリシスが大国であるから元老院も迂闊に手が出せないだけで、奴らは喉から手が出るほどにオリシスを欲している。
「私がいる限り、そんなことにはならない」 
 アルウェンという人はどこまでもアルウェンだ。止められるものならばそうしたい。ブレイヴも他の二人とおなじ気持ちだった。いまの白の王宮は元老院が跳梁していて、アナクレオンはこれらすべての動きを抑えきれてはいない。アルウェンはそう言った。そして、それが正しいからこそ、この人を行かせてはならない。謁見の許しがあるまで待つとは思えないし、アルウェンは白の間ではなくアナクレオンの私室を訪れる。それではアルウェンが騎士ではなくなってしまう。
 目が合った。アルウェンは微笑んでいる。ブレイヴは歯噛みする。きっと、それでもアルウェンという人はその道を選ぶ。そう思えてならない。
 先ほどから送られてくる視線をブレイヴは無視している。
 実の妹の声が届かないのに、ブレイヴの言葉だけでオリシス公は納得しない。そのうちに焦れたのか、ロアは部屋から出て行った。やはりこれは兄妹喧嘩だったのかもしれない。またアルウェンのため息がきこえた。
「出立はいつですか?」
「明日の朝には出ようと思う」 
 ブレイヴとクライドは顔を見合わせた。ロアが怒るのも当然だろう。これは、事後報告だ。
 机の上は綺麗だし、残りの羊皮紙の束もオリシス公はこれから片付ける。アルウェンの部屋をあとにしてクライドとも別れたブレイヴはその足で従者を探す。この時間にレナードやノエルは中庭にいるから、そこにジークもいるはずだ。クライドはレナードの剣を見てはくれるものの、基礎体力の向上には地道な努力も必要となる。目付役は厳しいから新米騎士たちに甘えを許さない。
「公子」
 ところが、回廊を行く途中で声をかけられた。先に退出していたロアだった。実直すぎる性格はこういうときに損をすると思う。ロアはまだ怒ったままで、その矛先が今度はブレイヴへと向いている。
「白の王宮はもとより陛下が何もご存知でないと、あなたもそう考えていますか?」
 これは、どう答えるのが正解だろう。ブレイヴは一拍を置く。その時間も惜しいのかロアが先につづける。
「アナクレオン陛下は慧眼に優れた方です。たとえ兄の書状が届いていなかったとしても、アストレアのこともあなたがオリシスにいる事実も、すべて存じているはずだ」
「なにが言いたいのですか?」
「皆まで言わねばわからないのですか? あなたは」
 本当に正直な人だ。焚き付けているつもりだろう。彼女のように感情のまま言葉を吐くのは簡単でも、そうしたところで何にもならない。王都マイアは遠い。何か起こってからでは遅いのだ。そう言っている。
 ロアの真っ直ぐな瞳はアルウェンと良く似ている。では自分はどう写っているのか。何の焦りも不安もないように見えるのなら、それは間違いだ。王都やアストレアのことを忘れてはいないし、本当はアルウェンに付いて行きたい。でも、ブレイヴにはそれができない。少なくとも幼なじみにとってオリシスは安全な場所だ。
「このオリシスにも王都からの使者は来ています。白の王宮から王女がいなくなったと大騒ぎです。レオナ殿下と幼なじみであるからこそ、アストレアは疑われている。それを陛下が知らぬはずがない」
 ずいぶんはっきり物を言う。こういうところが兄妹良く似ていると思うが、いま声にすることではない。それにロアはブレイヴに言わせようとしている。そんな目をしなくてもわかっている。
「陛下を疑え、と。あなたはそうおっしゃるのか?」
 ブレイヴは声を低くする。ロアはちゃんと騎士の挙止をしているが、物の考え方はまだそれに至っていないように見える。だから私は甘いのだ。アルウェンの声がきこえる。アナクレオンもきっとおなじことを言う。
「私は白の王宮を信用していない。それだけです」
 そこには王も元老院も含まれているのだろう。ブレイヴから目を逸らさないまま、ロアはそう言った。











「兄妹喧嘩は、ほどほどになさってくださいね」
 注いだ香茶を一気に飲み干した夫を見てテレーゼは苦笑する。アルウェンは熱い香茶が苦手なので、すこし時間を置くことにしている。そもそもお茶の時間に遅れてきたのはアルウェンで、紅茶を淹れ直すために席を立ったテレーゼに、このままでいいと言ったのもアルウェンだった。
 疲れた顔をしている。その理由を知っているからこそ、テレーゼは何もきかずにいる。
「あれは喧嘩などではないよ」
「まあ、そうでしたの? でも、お客様は困っていましたわ」
「彼がお前に苦情を言いに来たのか?」
「いいえ。ですが、顔にはしっかりと描かれていましたから」
 悪戯っぽく微笑んでみれば、観念したかのようにアルウェンはため息を落とした。
「それにロアは今日、ここには来てくれませんでしたわ」
 二杯目の香茶はゆっくりと味わっている。テレーゼは年の離れた夫がときどき子どもみたいに見えることがある。いまがそうだ。アルウェンは妻の視線から逃げている。
 家族でお茶をたのしむ時間を作ったのはアルウェンだった。
 食事の際に全員が揃うのは稀だ。午後のお茶の時間にはなるべく家族が集うようにと、アルウェンは言う。雨の日には騎士の訓練が休みになるのでテレーゼの部屋にアルウェンもロアも来てくれるものの、いつもそうだとは限らない。今日、ロアはここに来なかったし、アルウェンが遅れることもわかっていた。養女と二人でお茶をたのしむのもいいけれど、この日テレーゼは姫君を招いた。このところのシャルロットはちゃんとテレーゼの目を見てくれるようになった。それでも、二人きりだとすこし緊張するのだろう。
 お開きになる頃に姫君を迎えに来たのはアストレアの公子で、彼の顔を見てテレーゼは夫が遅刻する理由を察した。
「あの子はまだ子どもなのだ。父も母も大人しいたちの人間だったのに、まったく誰に似たのか」
 思わず笑ってしまいそうになって、テレーゼはちょっと視線を逸らせた。このひとはいつもこうなのだから。きっと、言ったところで夫は首を傾げるだろう。
「でも、ロアを子どもだと言うのでしたら、その子ども相手に大人げないのは誰でしょうね?」
 アルウェンが咳払いする。
「おいおい、ずいぶんと冷たいな。私の味方はいないのか」
 テレーゼはにっこりする。今日は朝からアップルパイを焼いた。テレーゼの作る焼き菓子のなかで夫の一番の好物だ。夕食の前なので出さなかったけれど、明日旅立つアルウェンに持たせてあげよう。きっと料理長が他にも焼き菓子を包んでくれているはず、もっとも新しい料理長はまだアルウェンの好みを熟知していなかった。
 ああ見えて、アルウェンは味にうるさい人だ。
 甘すぎるのも駄目で酸味が強いのも好きじゃない。オリシス公に文句のひとつを言われなくなってからが一人前。料理長はきっと大台所で格闘中だ。
「皆の気持ちは、よくわかっていますわ」
 昨晩、テレーゼはアルウェンから王都へ行くことをきかされた。驚きはしなかった。たぶん、心のどこかで夫がそうするとわかっていたからだ。遅いか早いかのどちらだけ。そのとき、自分はただ夫の声を受け入れるということも。
「お前は何も言わないな」
「ええ。私はもう子どもではありません」
「私は先にお前に謝るべきなのか。ひょっとして、怒っているのか?」
 いいえ。声の代わりに笑みで答える。アルウェンは右手で眉間を揉みほぐす。夫が困ったときに良くする仕草だった。
「でも、私の言葉だけであなたが留まってくれる方ならば、そうしています」
 はじめて会ったとき、テレーゼは十歳の子どもでアルウェンは成人した大人だった。十年という月日は長いようで短かったと、そう思う。アルウェンという人を全部知っているとは言わない。これからもずっと傍にいて、夫のことを知りたいと思うのは、わがままではないはずだ。
 戦場で戦って傷ついて、それでもアルウェンはテレーゼのところへ帰ってきてくれた。でも、夫は自分が長くは生きられないことを知っている。だから、多くのものを残そうとする。自分の生きた証を、テレーゼが忘れてしまわないように、と。
 きっと、大丈夫。
 テレーゼは自身の腹部へと手を添える。このところは無意識にそうしていて、本当はアルウェンが王都へ行く前に伝えようと思っていた。夫はきっと喜ぶだろう。テレーゼを抱きしめて、その次にはロアを呼ぶ。あとから遅れてきたシャルロットにもおなじ声をして、養女をきょとんとさせる。叔父や叔母には直接伝えられなかったことを、手紙のなかで謝罪する。公にするのは早過ぎるかな。ふた月は待とう。そう言って、夫はまた微笑む。
「アルウェン様」
 夫の手を取り、自分の手に重ねる。テレーゼはあまり泣かない子どもだった。けれども、どうしても不安で仕方ないときに、アルウェンはいまみたいにしてくれた。
「帰ってきてくださいね。オリシスに、私のもとに。約束です……、アルウェン様」
 強い女を演じているつもりはなかった。このひとを困らせたくはないだけの、ただの強がり。テレーゼはロアの義理姉でシャルロットの養母だ。強くなければいけない。
「安心しなさい。私はお前に嘘を吐いたことなどなかっただろう? もちろん、ロアにもだ。それにシャルロットもいる。私はまだ、あの子に父上と呼んでもらえていないからね」
「まあ」
 いつかきっと、そんな日も来るだろう。テレーゼは微笑む。
「そうだ、帰ってきたら絵のつづきを進めなければならないな」
「こちらの都合で作業を止めてしまいましたもの。お詫びをしなければなりませんね」
 家族の肖像画を飾ろう。そう言い出したのもアルウェンだった。しかし、このところは皆がなかなかそろわずに画家を待たせてしまっている。アルウェンの身体のことを考えると長く時間を取れないのもあるが、ロアも大人しく座っているのが苦手なようで何かにつけて逃げようとする。そういうところも兄妹はそっくりだ。
「なに、お前の焼き菓子が土産ならばすぐに機嫌が直る。よろしく伝えてほしい」
 テレーゼはうなずいた。あの絵が完成したときには家族がもう一人増えている。そうして、アルウェンはまた絵を描かせるだろう。額縁のなかのロアはいつもみたいに真面目な顔をしていて、シャルロットはぎこちない笑みを浮かべている。二人に挟まれたアルウェンは笑んでいる。テレーゼもおなじように。そこには幸福とやさしさが満ち溢れている。


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