二章 アストレアに咲く花

レオナのともだち

 心地のいい疲労感は夕方になるとよくわかる。
 最初の頃こそは腕や足が痛んだものの、それも慣れてしまえばどうってことない。エレノアは先生としてレオナにもルテキアにも厳しかったけれど、根気強く教えてくれた。すこしは成長したはずだと、レオナは思う。失敗もはじめの日以来で、今はほとんどなくなっていた。
「ふたりとも、だいぶ上手くなったよね」
 レオナにチーズタルトを切り分けてくれた娘が言う。鼻の周りに雀斑の跡が残っているためか、ちょっと幼く見える。
「うんうん。ほんとうに」
「そりゃあそうさ。エレノア様が直々に教えてくださったんだもの」
 同意する娘の隣には、もうすこし年上の女性がいる。妙齢の娘たちに比べてちょっと身体がたくましく、子どもは息子が二人いるそうだ。ここでも皆の母さんとして(皆は姉さんと呼んでいるけれども)時に厳しく時にやさしく、今日も朝から元気な声で迎えてくれる。そうして一日の仕事を終えた夕方の今は、ちょっとしたお喋りの時間だった。
 差し入れの焼き菓子は大人気だからあっというまに空になる。
 お茶のお代わりをする頃には話題はいつも恋愛の話へ変わっていて、皆の声が一段と大きくなるのだ。年上の姉さんたちはあれこれと娘たちに助言を与えてくれる。いいかい。男はね、女とちがってお喋りじゃあいけないよ。そうそう。女房の長ったらしい話を、きいてくれなくっちゃあねえ。相槌を打つだけでいいんだ。大人しい男が一番だよ。
 なるほど。勉強になる。
 レオナは彼女たちの話を真剣にきく。たしかに、幼なじみはいつもレオナの声を最後までちゃんときいてくれる。相槌は短めで、そこに否定が入ったりもしないし、ときどき笑ってもくれる。
 それなら、なんにも問題ないでしょうよ。一人考えごとをしていたレオナは被さった声にびっくりした。今、恋愛相談しているのは雀斑の娘で、すこし年上の兄さんに夢中らしい。
 レオナは隣をちらっと見た。新しい傍付きはお茶会のときも静かにしている。話を振られても生返事しかしないから、姉さんたちはこの手の話題には自分たちだけで盛りあがる。ルテキアは騎士の相好をしたままで、どこか居心地悪そうに座っているのもいつものことだ。
 レオナは従者をほとんど知らなかった。そもそもこちらから話しかけなければ唇を動かさないような人だ。切れ長の目に、すっと通った鼻筋に、薄い唇にはほんのすこし紅を差してみてはどうだろう。騎士は着飾ってはならない決まりなんてない。長いこと観察してみても、視線は一度もかち合わなかった。
 そのうちにお開きになって、それぞれが帰路につく。
 レオナも立ちあがり、エプロンを外してから伸びをする。麻のエプロンには刺繍が入っていて、刺繍を教えてくれると約束した娘は風邪でおやすみだった。春から夏へと向かうこの時期にはよく雨が降る。昨日の晩も小雨が朝までつづいていたので、それで冷えたのかもしれない。 
 アストレアの城までの距離はそれほど遠くはないものの、ルテキアはちゃんとレオナの部屋まで送り届けてくれる。
 夕食の買い物帰りの母親はやや早足で、勤めを終えた父親たちは仲間と一杯飲んでから帰宅するのでまっすぐ家には向かわない。散歩をたのしんだ老人たちを追い越していくのはお腹を空かせた子どもたちだ。服や手を泥だらけにしては母親に叱られているのだろう。三角屋根が並ぶ一軒からは、ちょっと騒がしい声がきこえてきた。
 登り坂をゆっくりと行くあいだも会話はなかったので、レオナはアストレアに来てから今が何日目なのかを考えた。わたし、このひとのこと、なんにも知らない。騎士であること、元は良家の娘であること、エレノア付きだったということ。それくらいだ。でも、最初にエレノアが教えてくれたそれだけ。彼女は騎士の挙止を崩さない。
 お喋りなたちではないことくらい、レオナにだってわかる。
 騎士はそういう生きものだということも、おなじく。
 けれど、と。レオナは口のなかでつぶやく。ただの好奇心や興味本位ではなくて、仲良くなりたいのだ。ルテキアという女性と。
「あ! みつけた!」
 それは、突然後ろからきこえてきた。
 少女、と呼ぶにはもうすこし幼い。振り返った先には赤毛の女の子が一人、レオナたちの他に反応した人がいなかったので、子どもはこちらに向けて言ったのだろう。知り合いなのかしらと、レオナがルテキアの顔をのぞく前に、赤毛の女の子はすごい勢いで走ってくる。子どもの突進を受け止めたのはルテキアで、彼女はまずため息を吐いた。 
「ここには来てはいけないと、言ったでしょう?」
「だって、ルテキアったら、ぜんぜんあそびに来てくれないんだもの」
 叱責にしてはずいぶんとやさしい。赤毛の女の子も頬を膨らませて、叱られたなんて思っていないらしい。レオナは二人を観察する。妹、だろうか? そうだとしても彼女たちは似ていないし、けれどもまったく他人の子どもというわけでもなさそうだ。 
「妹なのです。その……、レナードの」
「レナードの?」
 レオナはまじろぐ。それなら納得だ。彼もおなじ赤髪だった。それから、もうひとつ。 
「幼なじみなのね。ルテキアとレナードは」
「ちがうよ。おさななじみはジークなの」
「そうなの?」
「うん。ルテキアとジークは家が近いんだって。だからね、ちいさい頃はあそんでもらっていたのよ」
「こら! 余計なこと言わないの」
 ルテキアが子どもの口を塞ぐ。けれども、元気いっぱいで遊びたい盛りの女の子だ。すぐにルテキアの腕をすり抜ける。
「それでね。おにいちゃんは、ジークの弟子なんだって。ジークとルテキアはなかよしだから、それでおにいちゃんと……、」
 そこで途切れた。ルテキアに抱きあげられた赤毛の女の子は、きゃっきゃと可愛らしい声をする。レオナはしばしのあいだ惚けていて、でもすぐに笑った。女の子の懐きようを見れば、色々と詮索してみたくもなる。こういうときに乙女の勘は働くのだ。しかし、ルテキアはレオナにぜんぜん視線を合わせてくれない。赤毛の女の子の方はレオナに興味津々といった様子だ。
「ねえ。おねえちゃんは、だあれ?」
 きらきらと、満天の夜空に輝く星のような。そんな無垢な瞳をする。レオナもにっこりと微笑んだ。
「わたしは、レオナよ」
「レオナ?」
「そう。よろしくね」
 人懐こい笑顔は兄と良く似ている。そして、また後ろから別の声が――。
「あれー? 二人ともこんなところで何やってんの?」
 ここで兄の登場だ。
「レナード!」
「おにいちゃん!」
 レナードはレオナが帰る方向、つまりアストレアの城からくだってきた。明日は休暇なのかもしれない。汚れた上着をそのまま丸めて、なんとも自然な格好をしている。王女が目の前にいるとも知らずに。
「あ、姫様も……。こんにちは。じゃなくて、こんばんは」
 やっと気がついたところで遅い。レナードの腹に肘を食らわせたルテキアは咳払いをした。レナードは今更ながらに上着を羽織って、それから騎士の挙止をする。その横からひょこっと顔をのぞかせたのは、赤毛の女の子だ。 
「ひめさま?」
 子どもは正直で、思ったままを声に出す。
 どう答えるのが正解だろう。レオナはちょっと考える。ガレリアからムスタール、そしてアストレアへと。一緒だったレナードはすべてを知っている。傍付きとして選ばれたルテキアもそうだ。けれど、それは秘密にしておかなければならないこと。ちいさな女の子相手に嘘を吐かなければならないのだ。
「ああ、ええと……。その、渾名みたいなもの、なのかな?」
「あだなって?」
「ええと、仲良しとかそういうの」
「じゃあ、レオナはおにいちゃんのおともだち?」
 子どもの興味は尽きない。次から次への質問に実の兄でも応じるのはなかなか大変そうだ。でも、レナードは嘘を口にしない。最後の問いにもちゃんと答える。
「そうだよ」
 飾りのない声にレオナはどきりとした。ともだち。その響きだけで、こんなに心があたたかくなる。
「ちょっと、レナード」
「いや、だって……」
 しかし、従者にとって、それは見逃せない言葉だったようだ。ルテキアはレナードを睨みつけ、騎士は困ったように頭を掻いた。ああ、そうか。二人の関係がよくわかった気がする。レオナは堪えきれずに笑ってしまった。
「ひめさまっ!」
 そろって声が返ってきた。騎士らしくないのも、王女らしくないのも一緒だ。そもそも、ここでは王女でいてはならないのだから、彼らもそのままでいればいい。
「ふふふ。本当になかよしなのね、二人は」
 とっておきの秘密を知ったときの気分に似ている。くすぐったいような、でも嬉しい気持ちと半分だ。
「そうだよ。でもね、おにいちゃんはぜんぜん、かえって来てくれないの」
 赤毛の女の子はレナードの足をしっかり掴む。
「仕方ないだろ? 俺にはふたつ家がある。お前や母さんのところに戻るのは、特別な日だけだ。そう約束しただろ?」
「うん……。おかあさん、言ってた。おにいちゃんは、もううちの子じゃないって。でも、あたしそんなのわかんない」
 レナードは妹の頭をやさしく撫でる。レオナは思わずルテキアを見た。傍付きは目を伏せるだけで、答えてはくれなかった。
 そうだ。レナードは騎士なのだ。
 平民として生まれたレナードは貴族の家に入る。そうして、その家の子になる他に騎士の道はない。レナードには家族がふたつあって、だから赤毛の女の子になかなか会えないのだろう。
「次の休みには帰るからさ。約束する」
「うん……。まってるね」
「ほら、遅くなると母さんが心配するから。もう家に帰りな」
 赤毛の女の子はそれでもしばらくレナードの手を離さなかった。
「……わかった。そのときは、ルテキアもいっしょにきてね。レオナも、またあえる?」
 レオナはうなずく。子どもはやっと笑顔になった。
「あの……、すみません。俺、なんか失礼なこと言って」
 妹の後ろ姿が見えなくなるまで、レナードはちゃんと見送っていた。そうして、レオナに向き直ったかと思えば、いきなり謝罪をする。なんのことかわからなかったので、レオナはきょとんとし、けれどレナードはどこか悄気《しょげ》たままだ。
「その、友達とかって」
 レナードはもう目を合わせてくれなかった。どうしてだろう。ここは、王都マイアの白の王宮ではない。レオナは王女でなくてもいいし、王女としていてはならない。そうだ。騎士はレナードとしてレオナと接していいのだ。騎士の挙止をする必要も、傅くこともしなくていい。
「あの、ね。ほんとはね、うれしかったのよ。友達って、そう言ってもらえて」
 勇気を出して、思いのままを声に乗せる。ちゃんと笑うつもりが、どうしても嘘みたいになった。こういうときに、幼なじみならばどうするだろう。どんな顔をするのか、レオナは考えてみる。
 そのあいだもルテキアは黙していた。騎士として、傍付きとして。本当は言わなければならない声を封じ込めている。そういうところも、ルーファスみたいだ。レナードはというと、真顔でうつむいていたのに、急に顔をあげた。 
「あー、そっかあ。わかったぞ! 王女様だから友達がいないんだ!」 
 レオナは目を丸くする。ここまで無遠慮に言われてしまえばいっそ気持ちがいい。しかし、これは明らかに彼の失言だ。 
「レナード! いい加減にしろ!」
「いってえ!」
 レナードの頭に拳が落ちた。
「口を慎め! 場をわきまえろ! あなたには、騎士の自覚がまるで足りない!」
 レオナはやや気圧《けお》されていた。いつも寡黙な傍付きがこんなに声をするのははじめてだ。たぶん、本気で怒っている。レオナのためか、レナードを思ってなのか。きっと両方なのだろう。
「ルテキア……、レナードも」
「まいりましょう、姫様。エレノア様が待っておられます」
「ええ……。でも、まって。わたし、うれしかったのよ? だから、ふたりとも、友達でいてくれる……?」
 これは命令ではなくお願いだ。レナードは何かを言う前にルテキアを見る。しかし、騎士はレナードを無視してレオナの手を取り、そのまま歩き出した。やっぱり、まだだめなのかな。レオナは内心でため息をする。一人残されたレナードはきまりが悪そうに、また頭を掻いていた。


Copyright(C)2014_2018 asakura All rights reserved.designed by flower&clover
inserted by FC2 system