二章 アストレアに咲く花

アストレアに咲く花

 その森の恵みは女神の祈り。その湖の豊かさは女神の涙。
 豊穣の女神アストレイアに愛された国。それがアストレア公国だ。
 さんさんと降り注ぐ陽光も、爽やかに吹く風も実に心地が良く、新鮮な緑が初夏の訪れを告げる。公国に入るとすぐに迎えてくれるのは、アストレアにしか咲かないリアの花だ。白く色づく花は、この時期がもっとも美しく咲く。
 帰ってきたのだと。ブレイヴは故郷への思いを胸に馳せる。
 王都マイアでの軍事会議は初春だった。そこから北のガレリアで三か月を過ごし、ムスタール公国を経由して、戻ってきた祖国はこんなにもなつかしい。あたたかく、そしてやさしい人々の表情を見ると、自然に頬も緩むものだ。
 アストレアの民は公子の帰りを待ちわびていたのだろう。
 子どもから大人まで、出迎えてくれる声はいずれも歓喜に満ちている。送り出してくれたときもそうだったが、彼らは聖騎士をアストレアの誇りとし、その行いのただしさを信じて疑わない。城門を潜ってもそれはやはりおなじで、臣下が勢揃いしている。しかし、そこにはその人の姿は見えなかった。ブレイヴは落胆することなく、けれどもあの人らしいと、口のなかでつぶやく。これは用意する言葉にしても、ひとつやふたつでは済まなさそうだ。
 ブレイヴは落ち着くより前に、その人を探す。
 先に城へと入った幼なじみも気になったが、まずはとにもかくにもその人が先だ。遅すぎれば説教がひとつ増えるだけだし、かといって早すぎても良くない。ちょうどいい頃合いを見計らうのもなかなか難しく、なによりも見つけるのが第一だが、寝室や私室にはいなかった。これは、想定内。ブレイヴは次に執務室と応接間をのぞいてみたものの、結果はおなじことで、やはりこの時間ならば忙しくしているのだろう。そう。あの人はとにかく行動範囲が広いのだ。
 アストレアの城内はけっして狭くはないので、ブレイヴは行ったり来たりを繰り返す。回廊を抜けて庭園へと出れば、濃い薔薇のにおいがした。ちょうど見頃を迎えた薔薇園は趣味のひとつだと言っていたけれど、ここは自慢の場所にちがいない。愛されて育った花々はそれは美しく、こうも見事な彩りを見せれば庭師の立つ瀬もなくなってしまう。白の王宮の庭園には遠く及ばなくとも、幼なじみを連れてくれば、彼女はきっと喜んでくれると思う。ブレイヴは微笑む。しかし、ここも当てが外れた。
 居館へと戻って、また回廊を進んでゆく。良いにおいにつられて大台所をのぞいてみれば、調理長と目が合った。ふとっちょの料理長はにっこりする。まだ夕食には早いですよ。幼い公子が好奇心で大台所へと潜り込んだときも、料理長はやさしかった。ブレイヴが成人してからもずっと料理長で皆をまとめる彼は、昔よりもどんどん体つきがたくましくなる。大きな両手をいっぱいに広げて、パン生地を捏ねているのだろう。そういえば、ガレリアでレナードが黒パンをかじりながらごちていた。たしかに、ここのパンを食べ慣れていればきっと誰もがそうなる。ブレイヴの口のなかに唾が沸いてきた。
 下準備を終えた食肉は鶏肉と鴨肉、それから羊肉が中心で、アストレアではあまり牛や豚の肉は食さないし、主食は肉よりも魚が主だ。アストレアは森と湖に守られた国。この国はけっして大きくはないが、けれども沃土に恵まれたアストレアにて人が餓えることはない。肉厚で淡泊な淡水魚はソテーにしても煮込み料理にしても美味しい。主食の他にもまだまだ料理はたくさんで、料理長たちは大鍋と格闘中だ。新鮮野菜や果物の盛り付けをする者もとにかく忙しそうに、彼らは帰還した公子のためにと張り切っているのだろう。彼らがやっと落ち着けるのは夜が深まってからだ。ブレイヴは、胡桃をひとつ摘まんでそこを後にする。このくらいならば、ふとっちょの料理長も見逃してくれるはずだ。
 回廊を戻ってまた上の階へと行き、ブレイヴは一室の扉をたたく。迎えてくれたのは老夫婦で、彼らは騎士だった。アストレア騎士団を若者たちに託してからは相談役として城内に残ってくれている。老夫婦はとにかくお喋り好きだから、彼らに捕まったら小一時間は逃げられない。けれども、城内のことは何でも知っているので、探し人を訪ねるのも彼らにきくのが一番早いのだ。
 お茶やお菓子を勧められているうちに、ブレイヴの質問はどんどん先へと流されてゆき、逆に老夫婦から問い詰められる。まあ、それはそれは可愛らしい花嫁さまでしたよ。ええ、本当に。これで、ようやくエレノア様も安心なさる。老夫婦はブレイヴの声なんてまるで届いていない様子で、否定する隙間も与えてはくれない。要するに、ふたりは思い違いをしているのだ。まったく、どういう紹介をしたのか。ブレイヴは心中でため息を吐く。老夫婦のお喋りに付き合うこと小一時間、ここでも行き先はわからずじまいだった。
 階下からは少年たちの声が響く。騎士の合同訓練は一日に二回、朝と夕方だ。少年騎士たちはまだまだ見習いなので、ちょっと早めに行って個人で剣の稽古をする。騎士団長は少年たちにもけっして甘さは見せない。少年騎士たちは皆が集まる前に汗まみれになっていた。そして、彼はブレイヴの姿を認めるとその場で膝を折った。
「公子。無事にお戻りになることを、信じておりました。皆は本当に喜んでいます」
「不在のあいだ、アストレアをよく守ってくれた。礼を言う」
「もったいないお言葉です」
 騎士団長トリスタンは実直な男だ。本当は騎士団長として、ガレリア遠征を共にしたかったのだろう。しかし、アストレアをがら空きにさせるわけにもいかず、なにより彼にはアストレアを離れられない理由がある。
「……アストレア公爵家の遠縁の方と、皆にはそう説明してあります」
 トリスタンは耳元でささやく。ブレイヴはうなずいた。彼は、嘘が吐けない人間だ。本当のことを知っていても、自分はそれ以外をきかなかったと、幼なじみもことも詮索しない。
「本日は、こちらにはお見えになってはいません」
「ありがとう。もうすこし、捜してみるよ」
 彼はブレイヴのききたいことを先に言ってくれる。やはり、そうだ。幼なじみはまだ一緒にいて、ブレイヴとは入れ違いになっている。そうすれば、最後に向かうのはひとつだけだ。ブレイヴは最初に訪れた部屋の前で深呼吸する。背をちゃんと伸ばして、扉をたたくだけなのに妙な緊張感がある。返事を待つあいだがやけに長い。やがて返ってきた声を受けて、ブレイヴは入室した。
「ただいま戻りました。母上」
「おかえりなさい、ブレイヴ」
 おだやかで、やさしい。息子を迎える母親の顔だ。しかし、ブレイヴはまだ緊張を解けなかった。その場にいるはずの彼女が見つからなかったからだ。
「母上。あの、レオナは」
「あなたという人は、二言目にはそれですか?」
 さっそく怒られてしまった。エレノアは亡き公爵の代理を務める人だ。いや、そうでなくとも、母親はそういうものなのかもしれない。成人し、聖騎士の称号を下賜された息子であっても、不甲斐ない声をしたならば叱責する。 
「ずいぶんとお疲れのご様子でしたから、休んで頂いています。彼女の部屋もちゃんと用意してあります。あなたの心配するようなことは、なんにもありませんよ」
 読まれている。けれど、ブレイヴが案じているのはそこだけではない。幼なじみを要人としてではなく、あくまでアストレア公爵家の遠者として扱う。近しい者以外は王女をそう受け入れた。ここまではいい。問題はその先で、エレノアという人は幼なじみを侍女に任せきりにしないし、ともすればあれこれと世話を焼いたのが目に見える。幼なじみはちゃんと休めただろうか。
「それよりも、あなたが案じているのは他にもあるでしょう?」
 母親の声で、ブレイヴは現実へと戻される。
「母上、ガレリアでは」
「きいておりますよ、すべて」
 ジークだな。ブレイヴは口のなかで言う。母親を捜し回っていたそのあいだに、従者はすでに報告済みだったというわけだ。あるいは、先に戻ったアストレアの騎士の誰かに手紙を託していたのかもしれない。どちらにしても、遅い。何を言っても言い訳にしかきこえなくなる。
「遅いくらいですよ。あなたは、いつもそうです」
「申しわけありません」
 ここは、素直に謝るべきだ。エレノアはブレイヴの母親である前に、アストレアを預かる人だ。報告を怠ったのは事実だった。とはいえ、ブレイヴを気鬱にさせるのは他にもある。ガレリアで過ごした日々が必ずしも有益となっていたかどうか、また騎士として貢献できたかどうか、胸を張って答えられるかどうか。問われれば否だ。だから、ブレイヴはエレノアの前で沈黙している。
 エレノアは息子の言動を否定するようなことも、頭ごなしに叱りつけることもしない人だ。ただし、小言というのは口から自然と出てくるらしい。
「あなたのことだから、詮のないことばかりを考えているのでしょう? ルドラスの銀の騎士。残してきたガレリアの者たち。それから、自分がいなくなれば上官殿を止める者がいない、と。……まったく、それこそ差し出がましい。なるようにしかならないのですよ。あなたの幼なじみにしても、国王陛下もまた、あなたを信じているのです」
 ブレイヴはまじろいでいた。そうだ。母親の言うとおりかもしれない。アナクレオンはブレイヴを信頼している。だから、レオナはここにいる。
「それなのに、あなたはそうやって自分を信じようともしない」
「そんなことは、」
「では、答えてごらんなさい。あなたはなにを悔いているのです?」
「私は悔やんでなどおりません」
 エレノアは嘆息する。それが、答えだった。何もかも見透かされている。母親とはおそろしい生きものだ。息子の考えなど簡単に読み取ってしまう。
「あなた一人の力でこの長き戦争が終わるならば、そんなものはとっくに終わっていますよ。でもね、ブレイヴ。あなたひとつの命ではないの。あなたはひとりの命なのです。忘れてはなりませんよ」
 頬へと添えられた母の手はあたたかかった。忘れていたぬくもりだった。未熟だなと、思う。聖騎士であっても中身はただの人間だ。戦場で深手を負えば死ぬし、与えられた命令に感情は動く。たとえ王命であったとしても。
「わかって、おりますよ。母上」
 声は震えなかっただろうか。自信はなかった。エレノアはひとつ分の距離を空ける。
「さあ、顔をあげなさい。あなたがいつまでも落ち込んでいれば、それだけ士気に関わります。過ぎたことなど考えても仕方ありませんよ。もっと、しゃんとなさいな」
 ブレイヴは言うとおりにする。エレノアは笑んでいて、最初に怒っていたのが嘘みたいだった
 

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