二章 アストレアに咲く花

老者は嘯く

 コツン、コツンと。
 彼は、踵を鳴らしながら一段ずつゆっくりと下って行く。螺旋階段は地下深くへとつづいていて、外からの光が入らなければ壁掛けの燭台もなかった。大人の男が行くにはあまりに狭く、そのまま踏み外してしまえば捻挫どころでは済まないだろう。
 彼の左手は壁に添えられて、もう一方は手燭がある。慎重に歩を進めていくのは、彼がけっして臆病だからではなく、無意識のうちに高ぶっていた気を静めるためだ。彼はふた月に一度、おなじ階段をおりる。すでにそこで待っている客人は、地下の他を指定せずに、それが公爵であろうともこうして呼びつける。彼は騎士の矜持を大事にする人だが人間性はまた別で、倨傲きょごうなたちではなかった。
 なにより相手が相手だ。多忙を理由に断るのは、ほぼ不可能に近い。相手は彼の予定のすべてを把握しているのだから、隙間の時間さえも与えてはくれないのだ。
 彼は、闇のなかでため息を落とした。
 父親と会話をしたのはいつだったか。この下に待つのはヘルムートの父親ではなく、ヴァルハルワ教の枢機卿だ。
 父子おやこの仲はとうに冷え切っている。ムスタール公女であった母親はヘルムートを産み落とすと、居館から離れた別塔へと引き籠もってしまった。養子として入った父親の心もまたヘルムートにはなく、父親は教会のためだけに時間を使う。ヘルムートを成人まで育ててくれたのは彼の祖父だ。やがて、老いた祖父に代わってヘルムートが公爵を継ぐ。父親がヘルムートに与えたものといえば、ヴァルハルワ教徒としての義務のみだ。しかし、彼にとってそれは義務とはちがい、あくまで習慣だった。
 大司教の妻を娶り、授かった二人の息子たちも母親とおなじく、食前や就寝の前に長い祈りをする。時を知らせる鐘の音は祭儀の合図で、彼らはそのたびに大聖堂へと赴く。崇高な精神を保つためには必要な儀式だろう。彼らにとって贖罪は救済とおなじだ。ヘルムートもそれにならう。時間が許す限りだが、しかし彼もムスタールの人間だからだ。
 信仰心はある。ただし、彼の心のすべては神に預けてはいない。それだけだ。
 最下段に着いた。目の前には小部屋の扉だけ、彼はそこで二呼吸を置く。客人の要件はいつも決まっていた。イレスダートはもとより、マウロス大陸のなかでもこれほど信徒が多いムスタールにおいて、資金集めにそれほど苦労はないはずだ。それでも多少の漏れがあるのかもしれないし、教団を維持するには莫大な費用が要るらしい。イレスダートは長きに渡って戦争をしている。民は神を縋り、教会は人々の心の拠り所として、否定はできない存在だ。
 それなのに、不快に思うのはなぜか。
 父親に対して嫌悪を抱いていることを、ヘルムートは認める。厭悪えんおと言ってもいいほどに、ヘルムートは枢機卿の顔をする父親を苦手としている。父子の情愛などない。公爵と枢機卿と。己の権限を持って追放するのは簡単でも、それでは多くの敵を作る。そして、ヘルムートはどこかで信じているのかもしれない。それが、願望だったとしても。
「お待ちしておりました」
 しかし、見事に裏切られてしまったようだ。
 ヘルムートは男を睥睨へいげいする。地下室には簡素な机と椅子が用意されているが、他には両手剣が三つ、槍と斧がひとつずつと、まるで拷問部屋だ。事実、ここでは過去にそれが行われていて、地下特有の黴臭さに加えて鉄のにおいがする。父親に呼びつけられなければ、訪れたいとは思わない場所だ。
「可笑しなことだな。我が父は、いつ枢機卿から元老院へとすり替わったのだ?」
 揶揄を受けて老者の唇が動く。笑みを描いているつもりなのだろうか。奸計かんけいにたけた人間でなければできない表情だ。
「おや。ムスタール公爵に冗談のひとつが言えたとは。……いえいえ、失礼を。お父上がご子息を案じておられましたので」
 ヘルムートは歯噛みする。
 ヴァルハルワ教会と元老院との繋がりは知っている。父親と元老院が一人、この老者とも昵懇の仲なのだろう。つまり、はじめからヘルムートは謀られていたのだ。
「お座りになっては、いかがですか?」
 老者は、なおも誘う。
 最初からそうだとわかっていたならば、ヘルムートはけっして出向かなかった。彼は、心のどこかでヴァルハルワ教会を厭わしく感じていても、その存在自体を軽視したりはしない。だが、相手が元老院ならば話は別だ。 
「話すことなどない」 
 嫌悪と怒りと。剥き出しの感情をヘルムートはやめない。
 威圧に対しても男は芝居染みた笑みを止めずに、またそうした余裕があるのだろう。老者はヘルムートを蔑視べっししているのだ。
 男が身に纏う白の法衣は特別な技法と魔力がかけられている。人々は擦れ違うよりも先に老者に敬意を示す。そうして崇められた元老院は、己が神か王と等しい挙措きょそをする。それこそ、冒涜だ。ヘルムートはそう思う。
「いえいえ。ぜひ公爵の耳に入れて頂きたい。公に諮詢しじゅんするのは、我が元老院の相違でもありますゆえに」
 沈黙は了承だと解釈したようだ。老者は勝手に喋りはじめる。
「近頃の国王陛下のご様子を、公にも知って頂く必要があるでしょうな。白の王宮からムスタールまでは遠い。事が起こってからでは遅すぎるのです」
「聞く必要も知る必要もない」
「そういうわけにはいきませぬ。ムスタールの黒騎士と名高いヘルムート公の知恵を、我らに授けて頂きたい」
「知恵、だと……?」
 勝手な声ばかりをする。ヘルムートの作った拳が震えていた。この手は、剣を握るためだけにある。他者を痛めつけ、粗野な声をしてはならない。そうした感情のすべてを静かに殺すべきだ。ヘルムートは己に言いきかせる。そうだ。ヘルムートが忠義を為すのは王家であり国である。彼らでは、ない。
「ええ。陛下は我らの声をきき入れてもくださらない。我らが王が覇者であってはならないと、そう思いませんか? 陛下の負担を軽減するためにも、誰かが悪徒を務めねばなりませぬ」
 たしかに、王とは孤独な生きものだろう。助言をする者も必要だ。時の王は彼らの力を信頼し、だからこそ彼らを傍に置いている。しかし、アナクレオンはどうか。甘んじて白の王宮に置いてはいても、奴らを毒だと称する。薬は一時の気休めにしかならず、与えすぎれば毒となろう。彼らの力はイレスダートにとって危険なのだ。アナクレオンの声をヘルムートは疑わない。
「イレスダートに災いをもたらすことなど、誰が望みましょうぞ。我々は危惧しているのです。和平を望むがあまりに、国王陛下は見誤られるのではないかと。陛下はこと情に甘い。下々の者に対して哀憫の情を持つことは人としては許されても、王としてはいかがなものか。陛下は素晴らしき慧眼を持っておられるお方。ですが、国の明日を憂うあまりにたがえられるのではないかと、不安視する声も出ているのです」
 たいした演説だ。熱烈な信者であれば、喝采を送るところだろう。
「このままでは、イレスダートは憎きルドラスに蹂躙されるやもしれません」
「何が言いたい」
「かの聖騎士殿は、ルドラスの将を目の前にして独断で交渉をしたと、聞き及んでおります。こともあろうに、敵の将に停戦を持ちかけたというではありませんか」
「それが陛下の意思であれば、彼はそれに従ったまでだ。何の問題も見えないが?」
「そう。陛下のお考えであること。しかしそれはあまりにも甘く、理想と言えるでしょう。北の蛮族相手にとても正気とは思えぬ言動、聖騎士殿にはそれなりの誅罰を。何より国王陛下には自重頂かなくてはなりません」
 最後まで甘んじてきいたのは、自制心を保つためだった。
 剣を抜き、飛びかかり、その首を跳ねてしまいたいほどの衝動を、ヘルムートは抑えている。無価値な弁舌の末の目的は何か。考えるまでもない。同調する要素などひとつもないのだ。
「お引き取り頂こう。これ以上は、時間の無駄でしかない」
 ヘルムートは男に退出を促した。まったく、無意味で無価値な時間だった。老者はやおら立ちあがると、ヘルムートに向けて一揖する。くだらない演出だ。しかし、その最後にひとつだけ、老者は声を落とした。
「そうそう。王都では王女が行方不明だという噂が立っておりますが、あくまで噂でしょう。公のお耳に入れるほどでもないことです」


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