二章 アストレアに咲く花

邂逅

 時を知らせる鐘の音がきこえる。
 九回目の鐘が鳴り止むその前に、人々は大聖堂へと足を急がせる。先ほどまで威勢良く呼び込みをしていた露天商も、そこに群がっていた人々も、宿屋の主人まで客をほったらかしにするくらいだ。もっとも敬虔な教徒であれば、鐘の鳴る前にはすでに着席している。大聖堂では厳かな時間がはじまり、足や腰の悪い老人たちのためにまず席を用意する。遅れてくるのは子どもたちで、けれども幼き子らもちゃんとここでは静かにしているから母親も叱ったりはしない。仕事途中の男たちは汗を一拭いして、胸元から銀のロザリオを取り出す。娘たちはもう祈りを唱えている。大通りにはほとんど人の姿は見えずに、残っているのは旅行者だけだ。それがこの国、ムスタールの日常である。
「行ってみたかったなぁ」
 騎士は、ため息交じりに落とした。ただの独り言で、しかしそんな小言さえも見逃さないとばかりに、声がつづく。
「遊びに来ているわけではないと、言っただろう」
「わかってるよ。でも、せっかくムスタールに来たのに……」
 新米騎士のレナードは、いつもジークに叱られている。目付役はなかなかに厳しい。それも、ジークがレナードを可愛がっている証拠かもしれないが。
「お前は、いつからヴァルハルワ教の信徒になったんだ?」
「いや、信徒になったわけじゃないけどさ」
「まずは食事の前に祈ることからはじめるべきだな。祈りは大切だ。正しい所作でなければ、大聖堂から追い出される」
「ってことは、ジークは摘まみ出されたんだ」
 そこで、拳骨がひとつ。大袈裟にわめいて、それから抗議するレナードに、ジークはもう無視を決め込んでいる。そのときだった。彼らのうしろから笑い声がしたのだ。
 ジークとレナードは同時に振り返る。笑うのを堪えていたブレイヴも、彼女を見た。
「あっ、ごめんなさい。その……、あまりにおかしくって、」
「いいえ、俺の方こそ。なんか、すみません」
 妙な組み合わせだと思う。
 聖王国の姫君と、小国の新米騎士と。幼なじみが白の王宮にいたならば、きっとこんな会話もなかっただろう。それがぎこちないやり取りだったとしても、なんだか嬉しくもなる。
「あの……。どうぞ、つづけて。でも、レナードは勤勉家なのね」
「いや、その、そういうわけでもなくて、ですね」
「ただの興味本位ですよ。お気になさらずに」
 好奇心旺盛なのは良いことだ。けれど、相手が王女であるから正直な声を出せずにいる。だから、ジークも助け船を出してくれたのだ。無遠慮な声ばかりするレナードを困らせるのもまた一興、それよりも墓穴を掘って王女に無礼を働くのを懸念したのかもしれないが。
 なんにしても、良い傾向にあるとブレイヴは思う。
 王女の傍付きがこのムスタールに残ったという事実は、従者たちにも伝えてある。余計な心配をせずとも、アストレアの騎士たちは口が堅い。となると、案じるべきなのはやはり幼なじみだ。不安な思いをしているにちがいない。だから、この二人のありのままの姿は、彼女を笑顔にさせたのだろう。 
 ガレリア遠征に伴った兵は、先に祖国アストレアに帰還させている。ここにはわずかな騎士しかいないが、この二人を残したのは正解だったようだ。たしかに、王女の護衛としては心許ない数ではあるものの、悪戯に増やせばかえって目立つ。王女の存在は言わずもがな、そもそも聖騎士がムスタールにいるということも、伏せておかなければならない。
 やがて、鐘の音もきこえなくなり、街には静けさが戻ってきた。
 朝の最初の光によく似ている灰青色の建物が並ぶ。貴族に、豪商に、司祭に司教に。いずれも諸侯の家々が整然と連なるこの国は美しい。何よりも大聖堂に勝るものはないだろう。天にも届くほど伸びた尖塔は、街のどの角度からも見える。門から壁に至るまでの彫刻も、内部を彩る薔薇窓も素晴らしいという。レナードがぼやくのもわかる。また次の機会など、滅多にないのだから。
 レナードは名残惜しそうに大聖堂を見つめ、ジークは彼を責付せつく。レオナはまだ笑顔でいて、それゆえにブレイヴの反応は遅れてしまったのかもしれない。
「君は……」
 呼び止められるまで、気づかなかった。そう。それよりも先に、見ておかなければならなかった。 
「君は、アストレアの」
「お久しぶりです、ヘルムート卿」
 皆まで言われる前にブレイヴは笑みを作った。不自然さは否めずに、彼の眉間に皺が刻まれる。
「軍事会議以来、か。……しかし、君も案外冷たいな」
 彼は苦笑する。そう言われても当然だろう。ブレイヴが彼だと認めたのは、擦れ違ったそのあとだ。他人のふりを突き通せるような相手ではない。ヘルムートはムスタールを預かる公爵だ。
「申し訳ありません。公爵が、こちらにいらっしゃるとは思いませんでしたので……」
 大聖堂ではすでに祈りの時間がはじまっている。
 ムスタールはヴァルハルワ教の中心地であり、教皇及び大司教などの要人はここに居住する。いわばムスタールがヴァルハルワ教の聖地だ。老若男女、それから身分を問わずに、ヴァルハルワ教徒はムスタールの人口の九割を占めている。ヘルムートは敬虔な信徒ではなかったか。ブレイヴは自身の記憶を探ってみるが、しかし多忙な公爵だ。何か別用があったのかもしれない。
「それは、私から君に返そう。君はガレリアにいるはずだ」
 詰問する声色ではなかった。疑念はたしかにヘルムートの双眸に宿っているが、物言いにしてもそれほど苛烈ではない。年長者が若者を諭すときのように、そんな声にも届いたのは、かつてヘルムートがブレイヴの教官だったからだ。 
 撫でつけた黒髪に切れ長の灰色の瞳に、彼の着ている黒の軍服には皺一つない。イレスダートの人々は、ムスタール公爵を黒騎士と呼ばわる。そこには敬意とともに畏怖が含まれていた。神経質そうに見える容貌と、下賜かしされたいくつもの勲章に。ヘルムートという人を知らない者は、彼の前でまず萎縮する。
「ガレリアでは大変だっただろう?」
 ブレイヴは笑みを消した。彼は、どこまで知っているのだろう。王女の傍付きは協力者がいると言った。しかし、それはあくまでクレイン家の者たちで、ムスタール公爵が関わっているとは思えない。ならば、彼はブレイヴを慰撫いぶしているのだ。ヘルムートは饒舌なたちではなかったが、士官生のときもそうだった。他人を突き放す言葉はけっして吐かない人だ。
 ブレイヴはまだ、答えることに迷っている。
 たとえようのない違和がブレイヴから声を奪う。彼ほど正直で、誠実な人間がいるだろうか。ヘルムートの剣はイレスダートへと、いや、マイア王家のためだけにある。王命は彼にとって絶対で、アナクレオンが彼に死を命じたならばヘルムートは疑いもせずに殉ずる。彼は、そういう人だ。それなのに、なぜ彼に隠さなければならないのか。知られてしまってはいけないのか。ブレイヴの呼吸は浅くなっていた。
「戦況は依然として動かずだが、これでいい。私は、陛下には何かお考えがあるように思う」
 やはり、ヘルムートはブレイヴを励ましている。
 ブレイヴがガレリアでどういう扱いを受けていたのか、容易に想像がついたらしい。たしかに、ブレイヴは上官ランドルフに背いた。二人は不仲であったし、それが要因となって左遷されたと、解釈されるのもわかる。
 ガレリアにて、ブレイヴが独断で動いたのは事実だ。ルドラスの銀の騎士ランスロットととの密談は、彼の知るところではなかったとしても、それでも肯定されている気持ちになる。王の声はただしい。騎士はそれに従うのみだ。
 同時にブレイヴは自らの行いを反省する。ガレリア、ムスタール。どちらもだ。ブレイヴはイレスダートの聖騎士である。それが意味するものを忘れてはならない。ここで、ヘルムートに会ってしまったのは明らかにブレイヴの失態と言えるし、これ以上はルーファスだけではなく、アナクレオンをも裏切ってしまう。
 さいわい、彼は深追いをしない人だ。これ以上怪しまれないためように取り繕えばいい。
「いえ、私の力が及ばなかったのです」
「いや、いい。何も言わなくてもいい。あれは、あそこはなかなか大変なようだ」
 ヘルムートは順繰りにブレイヴたちを見つめていく。ここにはわずかな騎士だけだ。ガレリアから真っ直ぐアストレアに帰ればいいはずで、それなのにここには聖騎士がいる。彼の目はいくらかの疑念を孕んでいた。そして、最後にその人へと、視線は落ち着いた。
「まだ騎士ではないのですが、私の弟です」
 ブレイヴは騎士の顔を止めて、親しい友に向ける顔をする。男にしては背が低い。成人に満たない少年ならば、騎士の挙止を知らない。彼女レオナを隠し通すには必要な嘘だ。
「貴公に弟がいたとは、初耳だな」
 声から慈悲が消えれば、ここまで冷たくなるのか。偽りを口に出したその瞬間に他人となる。けれど、ブレイヴは演者となるべきだ。
「ええ。初陣ということで連れてきたのですが、どうも身体が弱く……。このとおり人見知りも激しいので、公にはしていないのです」
 よくもこう重ねた嘘がつけたものだ。あまり慣れないことをするものではない。ブレイヴの拳のなかに汗が溜まる。もっと弁才にたけていたら、ヘルムートを騙しきれたかもしれない。そんなことはブレイヴには不可能だ。
 ブレイヴは大聖堂の方向へと目をやる。ブレイヴたちが向かっていたのとは反対の、けれどそこがヘルムートの目的の場所だ。ブレイヴの目顔で、ヘルムートは自身が急いでいたことを思い出したのだろう。彼は薄い笑みをした。
「そうか、では私はもう行く。客人を待たせているので、見送りができなくて申し訳ない」
 泥のような苦いものがこみあげてきた。ヘルムートの背中が視界からなくなっても、それはずっとブレイヴから消えてはくれなかった。


Copyright(C)2014 asakura All rights reserved.designed by flower&clover
inserted by FC2 system