二章 アストレアに咲く花

騎士と姫君

 寝台から離れるときに、ブレイヴはすこしの時間を置いていた。
 幼なじみはまだ眠ったままだ。よほど疲れていたのかもしれない。彼女は不安も不満もブレイヴに口には零さなかったし、顔を合わせばいつも笑顔でいてくれた。自分に無理をしたり嘘を吐いたり、いつから幼なじみはするようになったのだろう。 
 頬にかかった髪を払おうとして止めた。寝顔だけ見れば幼くも見えるものの、けれど彼女はもう子どもではない。それに、後ろからの視線を感じたからだ。
「公子。お話しておかねばならないことが、あります」
 どうにも凝視している時間が長かったようだ。騎士の声色は冷たくて、固い。
「何でしょうか?」
 前置きをするくらいだ。本当は二人で話す時宜じぎを待っていたのだろう。挑むような目がブレイヴには向けられている。王女の傍付きは、幼なじみの関係にある者にも容赦がない。
「私はここから先には行けません」
 予想外の声だった。ブレイヴはまじろぐ。
「それはどういう」
「私は、共には行けません」
 言っていることはわかる。けれど、言葉の裏の意味としては図りかねる。どう受け取るべきか。視線を送ってみたところで、返ってくるのは沈黙だけだ。だから、ブレイヴはそのままを声にする。
「しかし、あなたは王女の護衛を、」
「王女は、ムスタールにいます」
 明らかに苛立った声だった。ルーファスはつづける。
「私は、このムスタールにて王女をお守り致します」
 そこでやっとブレイヴは理解した。イレスダートの王女は二人いて、姉のソニアは行方知れずであり、妹のレオナは側室の子だ。公に姿を現さない姫君だとはいえ、しかし安全なはずの白の王宮から離された。つまり、身を隠さなければならないほどに、事は逼迫しているようだ。それも、代理の者を用いて。
 たしかに、イレスダートの王女であればそれだけで意味を持つ。立場を利用しようと企む者も現れるかもしれないし、アナクレオンは妹に甘い。それでなくとも、幼なじみはこれまでの時間のほとんどを白の王宮で過ごしてきた。いきなり表の舞台に引き摺り出そうなど、考えただけでも吐き気がする。
「公子はこのままアストレアにお戻り頂きます。先にも申しあげましたが、この話は限られた者だけに。他言なさらぬよう」
「では、私とともにあるそのひとは、王家とは関係のない者だとでも?」
「ええ。そういうことです」
 問いにはにべもなかった。余計な詮索は必要ないと、そう言いたいのだろう。しかし、ブレイヴはまだ首肯しゅこうできずにいる。幼なじみだけではない。ルーファスは平然と声にしたが、身代わりの者だって存在する。いったい、何が起きているのだろう。
「心配には及びません。協力者がいます」
「協力者、ですか?」
 ルーファスはうなずいた。ブレイヴは口のなかでもう一度、おなじことを言う。王女の傍付きは内密にと繰り返すが、これに関わる者はそれなりにいる。イリア・ルーファス・クレインは、イレスダート大貴族の家の娘だ。王はクレイン家を味方に付けている。彼らを信用しないわけではない。けれど、何かが妙だ。
「ご納得頂けませんか?」
 心の声をぜんぶ読まれている。笑みを作ったところで無駄だろう。騎士はブレイヴにその先を与えない。それに、これは王命とは別の、アナクレオン個人としての願いだ。
「私のことなど、ここで忘れてくださって構いません。むしろ、そうして頂けた方がありがたい。……ですが、公子にひとつだけお願いがあります」
 まったくの無感情の声だった。騎士は挙止を変えずにいる。けれど、ブレイヴはその二呼吸のあいだに、たしかに見たのだ。葛藤。苛立ち。憂苦ゆうく。騎士は己の感情のすべてを押し殺している。
「私に、できることでしたら」
 最初に感じたのは同情だった。それこそ、間違っていると、ブレイヴは思う。
「無礼を承知で申しあげると、私は納得をしていませんでした。アストレアが必ずしも安全とも思えないのです。陛下の声に即座に膝を折らなかった私は、騎士失格なのでしょう」
「……お気持ちは、わかります」
「貴方はそうおっしゃると、思いました。ですが、貴方は信頼に足る方だ。私も、これでようやく諦めがつきます」
 言葉を選ばずに、騎士ははじめてルーファスとしての声をする。そうして、王女の傍付きは王の御前とおなじように、ブレイヴの前でも膝をついた。
「ですから……、どうぞ王女をよろしくお願い致します。どうか、お守りくださいませ」
 騎士はブレイヴに何を見たのだろう。憎まれてもおかしくはない。それなのに、ルーファスはそのすべてを受け入れて、己が騎士でありつづけようとする。同時に、ブレイヴはアナクレオンという人がわからなくなる。これほどに残酷な仕打ちがあるだろうか。傍付きはその役目を奪われただけではなく、ともすればもう王都に戻ることができないのだ。
「顔をあげてください」
 いっそ、罵られた方がよかったのかもしれない。ただ悲しむよりもずっと楽になれる。ブレイヴは騎士に目を合わせる。ルーファスは無表情に戻っていた。 
「約束します。必ず、守ります。この命に代えても」
 誰に言われるまでもない。この約束は、彼女へと、それから自分へと課したものだ。
 騎士はブレイヴに一揖いちゆうする。そのまま扉へと向かうつもりが、しかし彼女はそうさせなかった。 
「まって……」
 いつのまに目覚めていたのだろう。幼なじみは床へと足をおろすと、すぐにルーファスへと駆け寄った。
「このまま黙って行くつもりだったのね? それなら、わたし……、あなたを許さないところだった」
「申し訳ありません。ですが、これでよかったのです」
「そんなこと、ない」
 レオナはかぶりを振る。涙を堪えているのか、声は震えていた。
「相変わらず、泣き虫ですね」
 彼女を抱きしめ返すルーファスの声色はやさしかった。
「しっかりなさってください。貴女は一人ではないのです」
「わかっています。でも……、」
「姫様。私はどこにいても、貴女をお守りします」
 ルーファスは、姫君の前で騎士の挙止をする。気心の知れた友人のように。あるいは姉と妹のように。長いときをともに過ごしてきた二人に、別れのときが訪れる。
「御前を離れることをお許しください。どうか、御無事で」
 見届けるべきだと、そう思った。ブレイヴはただ騎士と姫君を見守っている。幼なじみと目が合って、けれども彼女はブレイヴに微笑んで見せた。安心させるためだろうか。そして、レオナは王女の顔を作る。
「ありがとう、ルーファス。ここまで来てくれて、ずっとわたしの傍にいてくれて。感謝しています」
 これは謝意だけではなく、祈りなのだと。ブレイヴはそう思った。
「わたしは、いつかきっとマイアに帰ります。だからあなたも、どうか元気で……」
 ひかりが見える。ブレイヴは幼なじみを見るときに、いつもあたたかな光を感じる。ああ。そうか。彼女たちもきっと、おなじなのだ。 
 
 

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