二章 アストレアに咲く花

ムスタールへ

 馬車が揺れるのは道が整備されていないからだ。
 舗装されていない石道を行く馬車の乗り心地は想像していたよりもずっと悪く、そうして長距離の移動に疲労が溜まる一方だった。腰や背中が痛くても耐えるしかないし足も窮屈で嫌になる。乗り物に酔う体質でなかったのはせめてもの救いかもしれない。ともかく、しばらくは我慢するしかないのだ。レオナは自分へと言いきかせる。 
 ガレリアを発ってから三日目、アストレア公国には遠い旅となりそうだ。
 東に見えるのはガレリア山脈で、この時期でもまだ雪を被っている。レオナたちは城塞都市からムスタール公国へと下っていた。ガレリアからアストレアまでは地図上で見ればそう距離がないように思えても、実際はそうではなかった。隣接する公国同士の境目にはアストレア湖が、これを迂回するには森のなかを行くこととなり馬はともかく馬車はとても進めないのだ。あの深い森がアストレアを守っているのだと、いつか幼なじみからきいたことがある。アストレアは森と湖に愛された国だ。
 ともあれ、ムスタールへ寄るのはけっして観光目的ではなかった。
 馬車を乗り継ぐ必要ために近隣の街にはどうしても寄らなければならない。かの公国には大聖堂があるので巡礼者や旅人もおおく、レオナたちもきっと目立たないだろう。レオナはブレイヴの言葉をただ信じている。彼だって、ほんとうは早く故郷に戻りたいはずだ。
 お喋りをたのしむにしても話題はとっくに尽きてしまっていた。レオナは敬虔なヴァルハルワ教徒でなかったけれど、それでもムスタールの大聖堂を見てみたい気持ちになった。傍付きは持ちうる知識のすべてをレオナに話してくれて、それはたのしい時間だったと思う。白の王宮というちいさな箱庭だけが生きるせかいのすべてだったレオナにとって、興味や好奇心をそこへと抱くのは自然だった。けれど、けっきょく最後には王都マイアへとたどり着いてしまう。立ち寄った街のこと、建物のこと、人々のこと、食べ物のこと、地形のこと、天気のことに。そうして、兄の名を出した途端にレオナは後悔をした。わたしは、ほんとうはマイアに戻りたいのだ。言ってはならない言葉を落としてはいけない。
 急に居心地が悪くなって、レオナは小窓を開ける。しかし、乳白色の霧が立ちこめる外はほとんど何も見えずに、そのうちに寒さに身体が負けて仕方なくまた窓を閉めた。王都マイアで霧は不吉の象徴とされている。ギル兄さまはそうした言い伝えなんて信じなかった。レオナはちょっと昔を思い出す。兄アナクレオンは王になる前からずっとそういうひとで、あるいは盲信などとすこし乱暴な言葉を口に出すこともあった。そうしたときに兄を諫めるのは姉のソニアだ。アナクレオンは側近たちの諌言《かんげん》には耳を貸さなくとも、妹の声になら従う。兄を支えているのはいつだってソニアだった。その姉さまがいないのに、誰が兄を守るというのだろう。レオナの膝の上で作っていた拳が震える。わたしは、無力だ。だから、いまきっと、ここにいる。
「寒くはないですか?」
 落としていた視線をあげる。傍付きの表情に微笑みはなくとも、目は王女を案じていた。
「へいきよ」
 毛皮の膝掛けはしっかりしているのでとてもあたたかい。ガレリアを発つ前に幼なじみが用意してくれたもので、こういうところが彼らしいと思った。
 それにしても、北の大地はいつまでも冬のようだ。イレスダートはもう若葉の季節で、レオナは王都の草木の新鮮な緑の美しさを思い出していた。紫の薔薇の花が色鮮やかに咲き、庭園に色づく白や赤や薄紅色に混じって青や紫の彩りがよく映えることだろう。レオナの部屋にはいつも清冽《せいれつ》な花のにおいで満たされていて、それがレオナの日常だった。ときどき、兄は王の仕事から逃げ出して庭園でお茶を一緒にたのしむ。しかし、最後にいつそうしたのかをレオナは覚えていなかった。喧嘩別れではなかった。でも、ちゃんと話せていただろうか。レオナは急に不安になる。兄を責めたのはたしかだ。悔いたとしても、もう遅い。
「兄上は、ひとりなんかじゃない……」
 零した言葉は考えていたことの逆だった。王とは孤独な生きものだ。侍従たちもいて、白騎士団がいて、元老院がいる。王の傍には常に誰かがいるのに、けれど兄の隣には誰がいるのか。
「いまは、ご自身のことだけをお考えください。ムスタールより先は、」
「言わないで。わかって、いるの。わたしのことはだいじょうぶ」
 レオナは作った笑みをする。そうしなければ、泣いてしまいそうだった。わたしがぜんぶ弱いから。でも、もっとしっかりしていなければならない。幼なじみを困らせたくはないし、心配させたくない。ルーファスもずっと笑ってくれない。
「ね、アストレアのはなしをしましょう?」
 これからレオナが行く国のことを。幼なじみの国のことを。そうだ。きっと、不安なんて、ない。
 

 
 









 ムスタールに着いたときには夕暮れがはじまっていた。
 ブレイヴたちの他にも馬車は次々と街へと入って行く。さすがはヴァルハルワ教会の総本山といったところか。王都マイアに次ぐ聖地として崇められ、ムスタールの大聖堂は大陸でも最大の大きさを誇る。観光地などと称してはあまりに不謹慎で、巡礼者も旅人も目的は等しく大聖堂だ。
 信仰深い者たちはここを訪れずには生涯を終えるなどありえないことだと、口をそろえて言う。教会の影響力はそれだけ大きく、公爵家とは別に教会には騎士団があるくらいだ。
 白や銀の法衣を纏った者は司祭や司教たちだ。関係者たちはそろいの法衣を着ているから一目でわかるし、また剣を佩いた騎士もおなじところへと向かっている。子どもたちは駆け足で、商人たちもやや早足ですれ違ってゆくので、これから祭儀の時間なのかもしれない。老人たちはすでに席に着いていて、厳かなときがはじまるのを待つ。子どもも女も男も、商家の者も騎士も貴族も、神の前では等しく人だ。敬虔な教徒ではないブレイヴからしてみれば、それはすこし異端にも見える。あまり馴染みがないのが本音と言ったところで、ブレイヴの祖国であるアストレアではさほどヴァルハルワ教徒がおおくないのも事実だった。婚礼、あるいは慰霊の際などで関わるくらいだ。
 イレスダートは広い。おなじ公国でも、ムスタールとアストレアでは歴史も文化、食べ物などもまるでちがう。そこに人の容姿や性格も異なれば思想もちがってくるのは当然でそれもそのはず、ムスタールは王都マイアに次ぐ軍事力を誇る大国だ。
 厳かな鐘の音が五回鳴り響いた。橙の陽の光が街中を照らしている。これが、この日最後の祭儀の時間だ。市街地にはほとんど人の姿が見えなくなった。すでに開いている酒場も静かなもので、市場はとっくに店仕舞いをしている。この時間に厩舎を利用するブレイヴたちに馬丁《ばてい》は迷惑そうな目顔をして、しかし馬車から彼女たちがおりてくる気配はなかった。ブレイヴは従者を先に宿場へと促した。残っているのはふたりだけだ。
「すみません、すこしお疲れのようです」
 馬車の戸をたたけば、すぐに声はきこえた。狭い馬車に何時間も閉じ込められたのだから当然だろう。幼なじみは座席に背を預けて上体だけが呼吸のたびに動いている。しばらく待ってみても瞼は開きそうもなかったので、ブレイヴはもうすこし彼女に近づいた。そのまま起こさないようにと、また壊れものを扱うように幼なじみの身体を抱きあげる。レオナはブレイヴの前で一度も弱音を吐かなかった。
「聖騎士殿、私が」
「いえ、あなたもお疲れでしょうから」
 幼なじみの傍付きはルーファスひとりだけだ。しかし、ここにはブレイヴもいる。王女の騎士にだけ負担を掛けなくてもいい。ブレイヴが進み出してしまえば傍付きはもう何も言わなかった。腕のなかの幼なじみは穏やかな呼吸を繰り返している。これなら起こす心配もなさそうだ。すらりと伸びた四肢は余計な力を込めれば折れてしまいそうなほどに細くて、きちんとした食事を取っているのか疑うほどに軽い。それでも女性特有のやわらかさはたしかなもので、ブレイヴはそこに意識しないようにと気をつける。
 これほどにたおやかで、うつくしいひとをブレイヴは他に知らなかった。
 清冽な花のにおいがする。彼女が好んでいる香油だろうか。あまく、やわらかなその香りに心はすっかり落ち着きをなくしている。布越しに感じる体温はたしかに彼女のぬくもりで、意識しないようにすればするほど勝手に心臓の音が速まっていた。白磁の陶器のようにすべらかな肌に、すっと通った鼻筋とふっくらとした唇は瑞々しく、伏せた睫毛が長い影を作っている。幼なじみは眠っているだけで、そうした彼女の顔は見たことがあるけれど、それはずっと昔の子どもの頃の話だ。
 くすぐったいような気がした。この感情を高ぶらせるものは何であるのか。それが何を意味するのか。ブレイヴはその先をつづけない。いまは、彼女を起こさないことだけにただ集中する。
 

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