二章 アストレアに咲く花

追われたその先で

 急に耳鳴りがしたかと思えば、眩暈と吐き気に襲われて、立っていられなくなった。意識が途絶えたのは、そのすぐあとだ。
 何度も夢を見たような気がする。王都マイアの大聖堂で、レオナに笑みを見せているのはギルにいさまだ。ガレリアからムスタールへと行くあいだに、レオナを励ましてくれたのはルーファスだった。それから、アストレア。おかあさまはレオナを抱きしめてくれた。だいじょうぶですよ、とやさしい声を残して。
 ああ、そうか。これは夢なんかじゃない。ぜんぶ、現実だ。
 誰かが、ずっとレオナを呼びつづけている。それなのに、レオナはまだ夢のなかにいて、こたえられずにいる。四肢を動かそうにも力が入らなくて、頭もぼうっとする。瞼が重くて開けられないし、吐き気だって治まらない。観念して、レオナはふたたび眠ることにした。次に目が覚めたときには、自分はきっと王都マイアの、白の王宮にいる。そう、信じて。
 けれど、現実はレオナをあるべき場所から遠ざけている。
 話し声がきこえる。談笑をしているのか男たちの声は弾んでいてとても大きく、レオナを眠りから覚ますには充分だった。それから、におい。羊肉を焼いているのだろうか。たっぷりと香辛料を使った香ばしいそのにおいは、健常な人ならば食欲をそそるはずだが、目覚めたばかりのレオナは別だ。気持ちが、悪い。レオナは意識して呼吸を繰り返す。どうにか吐き気を堪えながら、辺りを見回す。食事をたのしんでいる男たちに、忙しく駆け回っているのは給仕娘らしい。すると、ここは大衆食堂か。あるいは、酒精アルコールのにおいもするから、酒場なのかもしれない。
 白の王宮の外を知らないレオナにとっては、はじめての場所だ。どうして、わたしはこんなところにいるのだろう。レオナは自身の記憶をたどる。そうだ。アストレアを出て、森の奥へと入った。しかし、そのあとはどうか。二日ほど、森のなかで過ごしたのは覚えている。やっとたどり着いた人里で、レオナは自分の足でちゃんと歩いていただろうか。
「ああ。まだ眠っていた方がいいですよ」
 無理に上体を起こそうとして、止められた。
「……あなた、は?」
「ノエルです。アストレアの弓騎士の」
 はしばみ色の瞳がレオナを見つめている。幼さを残した優しい笑みは、レオナを安心させてくれる。
「あの、ブレイヴは……?」
「休める場所を探しています。だいじょうぶですよ。ジークも一緒ですから。公子はすぐに戻ってきます」
 レオナはうなずいた。ちょっとだけ身体が楽になったような気がして身を起こすとノエルはレオナの隣に座った。二人がけのカウチでも騎士が小柄だからか、もうすこし余裕があった。
「でも、それにしては遅いなあ。ルテキアもレナードも」
 言いながら、薄茶色の髪の毛をくしゃくしゃにする。困ったときの癖なのだろうか。レオナはすこしずつ思い出してきた。たしか、レナードの友達だ。ともにアストレアを追われて、逃げて。そうして、ここまで来た。ノエルが馬を用意してくれていて、そこにはレナードも一緒だった。ジークが先導して、ルテキアはずっとレオナの傍にいてくれた。それから、幼なじみは――。
「あの、ブレイヴはすぐにもどって、くるのね?」
 彼が、ここにいないだけでこんなにも不安になってしまう。胸のあたりを押さえるレオナに、ノエルはくしゃりと笑った。
「もちろんです。それに……」
 ルテキアが戻ってきた。
「姫様、こちらを」
 傍付きからグラスを受け取る。口のなかではじけるそれは炭酸水だった。すこしずつ喉へと流し込めばずっと気分もよくなった気がする。けれど、と。レオナはため息を吐きそうになった。傍付きがレオナから離れていたのはこのためだ。森と湖に守られたアストレア。そこからまっすぐ南下していけば、もうイレスダートではなくなる。荒っぽい風と、沃土に乏しい枯れた大地。そこは、異国の地だ。 
「ありがとう。ルテキア」
 ちゃんとした笑顔になっていたのか、自信はない。衛生面や健康を気遣ってくれているのに、素直になれない自分が嫌になる。皆がレオナを守ってくれる。それは、レオナが王女だからで足手纏いであるからだ。
 グラスを持つ手が震える。ぜんぶ、わたしのせいだ。かろうじて涙は堪えた。でも、悪い感情を抑えられない。そもそも、レオナが王都マイアを離れなければルーファスをムスタールへと残すこともなかった。アストレアだっておなじだ。元老院が本当に求めているのは幼なじみではなく、レオナだということをもうわかっている。
 わたしが、いたから。レオナは繰り返す。自分がいなければよかったのだ。そうすれば、アストレアが疑われることはなかった。
「遅いなあ、レナード」
 レオナは顔をあげる。つぶやいたのはノエルで、戻ってこない友人を心配している声だった。
「レナード、は?」
「厩舎に馬を預けているんです。でも、混んでいるのかな? いまは砂嵐がひどいから、みんな足止めされているみたいで」
「……しばらくは、この街に留まることになりますが、致し方ありません」
 問いにはノエルとルテキアがつづけてくれる。
「こんな状況だから、どこの宿場もいっぱいなのかなあ。ここの人たちは、嵐が過ぎるまで建物のなかでじっとしてるって、言うし」
 ノエルは独り言みたいに言う。レオナも視線を前へと戻した。食事をしている男たちはきっと旅人なのだろう。届いてくる話し声は、共通のマウロス語でも訛りがあるのでちゃんときき取れないし、肌の色だって様々だった。
「……でも、悪いことばかりじゃあないですよ。追っ手も、足止めされていますから」
 ノエルは囁く。追っ手、と。レオナは口のなかで言う。そのときだった。
「なんだと! 言いがかりをつけるな!」
 怒鳴っているのはレナードだ。見れば、騎士は複数の男に取り囲まれている。
「言いがかりとは聞き捨てならないねえ。兄ちゃん、余所者だろう?」
 蓬髪ほうはつの男がレナードの肩をたたく。触るなと、レナードは男の手を振り払うが、しかし騎士は酒場の入り口より先には進めずにいる。
「その上、盗人とは見逃しちゃおけねえ」
「ちがう! あれは、俺たちの馬だ!」
「おっと、嘘はいけねえなあ。こっちには、証人だっているんだ」
 また別の男がなれなれしい声をする。ここからやや離れているものの、彼らの声が拾えるのはそれだけ大声で会話をしているからだ。ノエルとルテキアが目を合わせる。そして、不安そうに見つめるレオナの声を待たずに、傍付きはレナードの元へと向かった。騎士が男たちに難癖を付けられているのは明らかだが、他の客たちは無関心を決め込んでいて、給仕娘たちも迷惑そうに見ている。
「これは、何の騒ぎです?」
 ルテキアはレナードと男たちのあいだに割って入った。主従の関係を装うつもりなのか、彼女の物言いもそれだ。レナードは唇を開きかけてすぐに閉じた。冷静になりなさい。ルテキアがいつも言っている言葉だ。そして、彼女は男たちに言い放つ。
「彼を疑うというのなら、馬丁をここに連れてきなさい!」
 闖入ちんにゅう者に男たちが戸惑っていたのもわずかな時間だけだ。蓬髪の男がにたりと笑う。下卑げびた不快な笑みにルテキアが嫌悪した次の瞬間、男は彼女の腕を乱暴に掴んだ。
「なにをする!」
 レナードが叫んだとほぼ同時だった。うしろにいた男が突然騎士を殴りつけた。不意を突かれたレナードはよろめきながらも片膝をつかずに、しかし騎士を別の拳が襲う。殴打されたレナードの身体は長机や椅子を巻き込んだ。硝子が割れる音がしても、食事中の客たちは喧嘩がはじまったと、混乱するどころかたのしんでいて、男たちは馬乗りになってレナードを殴る。レオナが悲鳴をあげなかったは、おそろしかったからだ。
「やめろ!」
 ルテキアは蓬髪の男から逃れようとするものの、男は太腕でしっかりと彼女を押さえている。
「いけないねえ、兄ちゃん。馬どころか女まで俺たちにくれるなんてねえ」
「ふざけるな……っ!」
 舌舐めずりをした蓬髪の男に激高するルテキアだが、男の手が早かった。頬を張られたルテキアの身体は床へと転がる。蓬髪の男はルテキアの胸倉を掴んで自分の方へと向かせたが、騎士は激しく男を睨みつけた。
「あ、兄貴。駄目ですよう。傷を付けたら値打ちがさがっちまう」
 蓬髪の男の横から短躯たんくの男が出てきた。少年ほども背丈しかなくとも、容貌は他の男たちとさして変わらずに醜い。
「ああ、そうだったなあ。まあ、生娘かどうかなんて、見た目じゃあわかりゃあしねえさ」
「仕様がねえ兄貴だなあ」
 蓬髪と短躯の男が笑う。やめて、と。レオナは口のなかで言う。レナードをいたぶっていた他の男たちが戻ってくる。蓬髪の男がルテキアを組み敷き、なおも抵抗しようとする彼女の口をまた別の男が塞いだ。男たちがルテキアの胸を弄る。その手が、彼女の下腹部へと伸びる。
「……やめて」
 声がうまく出てこない。レオナの隣にいるノエルは動かずにいる。いや、動けなかったのだ。震えて、怒りを押し殺す。ただ、それだけ。誰も助けてなんてくれない。これは、きっと日常なのだろう。ここはイレスダートではないのだから。
「やめなさいっ!」
 おそろしさよりも勇気よりも、怒りが勝っていた。ノエルはいま、どんな顔をしているのだろう。だめです、と騎士は言う。ノエルはこんな状況になる前に、レオナを連れて逃げるべきだった。でも、できなかったのは、仲間を傷つけられて許せずに、耐えるしかなかったからだ。いまなら、まだ間に合う。それなのに、レオナは立ちあがり、男たちに向かう。蓬髪と短躯の男が近づいてきた。卑陋ひろうな笑みにレオナは心の底から嫌悪した。
「こいつはまた上玉だ」
「兄貴は幸運に恵まれてますぜ!」
 なにを言っているのだろう。暴力で人を痛めつけて、人を物のように扱う。イレスダートならば、けっしてそんなことは許されない。レオナは唇に歯を立てる。そうだ。許してはならない。レオナのなかの他の誰かがそう囁いた。しかし――。
五月蠅うるさいな」
 レオナを止めたのは、すぐ傍にいたノエルではなかった。男たちもまた、声の方へと目を向ける。長机が並ぶそこでは、喧嘩に飽きた客たちが食事に戻っていて、給仕娘たちも無関係とばかりに忙しくしている。けれど、たしかにきこえたのだ。黒パンをちぎり、果実酒で流し込む。グラスを置くと、こちらを見るその人と目が合った。レオナの知らないその人は、異国の剣士だった。


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