二章 アストレアに咲く花

遠い記憶と

 清々しい青空がどこまでも広がっている。午後の日差しも南からの風もやさしく、新緑のにおいも実に心地がいい。
 アストレアは小国とはいえど、緑に恵まれた自然豊かな国だ。やわらかな朝の陽光で目覚め、ゆっくりと午後のひとときを過ごし、夜には極上の葡萄酒を家族や仲間たちとたのしむ。それが、アストレアに住まう人々の日常で、彼らはそこから他のせかいを知らないのかもしれない。ここにいれば、ずっと長いあいだ北の国と戦争をしているのが嘘みたいだ。
 畑仕事をする老夫婦がブレイヴの姿を認めて、笑顔になった。公子相手でも孫みたいに話しかけてくれて、そうして姿が遠くなればまた畑仕事へと戻る。荷車にたくさん木箱を詰んでいるのは商家の男で、いい葡萄酒が手に入ったから期待してくださいねと、こちらも笑んでいた。野を駆ける子どもたちは公子に剣を教えてくれとせがむ。あと五年大きくなったらねと。ブレイヴは約束をして、子どもたちはいっそう笑顔になる。子どもらを追いかけてきた母親は叱りつけることもなく、にこにこ顔で通り過ぎていった。
 城塞都市ガレリアより帰還してから、まだ半月ほどだ。
 北のルドラスとの戦争は終わっていないし、いまも城塞都市にはたくさんの騎士が常駐している。ブレイヴの後任として派遣されたのは、おなじイレスダートが公国のランツェスの公子で、彼はもうひとりの幼なじみであるディアスの兄だった。上手くやっているだろうか。なにしろ上官はランドルフだ。それから、あの少年兵たちは。
 おなじ頃の少年たちは悪戯をしては隣のじいさんにこっぴどく叱られたり、家の手伝いを嫌がって逃げたところを母親に捕まったりだとか、とにかく元気いっぱいだ。少年たちがあともうすこし大人になれば、剣を持つ道を選ぶかもしれないが、しかしけっして強制などではない。ガレリアはちがう。ブレイヴは痩せた少年兵たちの顔をはっきりと覚えている。自身がガレリアから離れるときに、不安そうに見あげていたその目もまた。
 少年兵たちを憐れだとは思わない。ガレリアはたしかに貧しい国ではあるもの、他の北国も南からの援助なしに冬はとても越せないのだ。イレスダートは戦争をしている。百年、それよりももっと長くつづく争いを繰り返している。ガレリアに人が集まるのは戦争をしているからで、だからあの城塞都市が見捨てられることはないだろう。人も、物資も、金も集まる。そうやって、ガレリアという国は生きている。じゃあ、戦争が終わったそのときに、ガレリアは――。
「あんまり、好みじゃなかった?」
 幼なじみの声でやっと現実に戻る。ブレイヴの手は焼き菓子を摘まんだままだった。
「ううん。そんなこと、ないよ」
 ちゃんと笑っても、幼なじみはおなじ笑みを返してくれなかった。失敗したな、とブレイヴは反省する。
 退屈な時間ではないのに、思考は別のところに行ってしまっていたらしい。ブレイヴは苦笑いに変える。ぼうっとしていたのは本当だ。
「きいたよ。ルテキアも手伝ってくれてるって」
「うん、そうなの。あ、いつもね、おすそわけをしてくれる子がいて、その子が教えてくれたの。だから、成り行きかな? ルテキアはわたしの傍付きだから」
 それを最初にきいたときに、ちょっと意外だという感想を抱いたのは内緒だった。そう。ブレイヴの知る女騎士は、子女の仕事や娘たちの趣味もまるで関心がなく、その手は剣を持つためだけに生まれてきたという顔をする。ルテキアは王女の傍を離れない。いま、幼なじみは王女という身分を隠してアストレアにいるから仕事だって与えられるし、限られた自由であってもたのしそうにする。これでは、傍付きには騎士以外の方が大変そうだ。
「でも、だめなの。何度試したって、その子みたいにうまく作れなくって。お菓子作りってむずかしいよね」
 籠のなかにはたくさんの焼き菓子が並んでいた。クッキーにカヌレにタルト、マドレーヌくらいならブレイヴにも名前はわかる。順番にひとつずつ頂いているものの、彼女が言う失敗だなんて思わない。けれど、こだわりがあるのかもしれない。それに、レオナはお茶の時間にこうしてブレイヴにもわけてくれる。執務室に籠もりきりのときなどは気分転換にもなるし、今日みたいないい天気にはちょっとだけ遠出をして、外でお茶をすると幼なじみはすごく喜ぶのだ。
「ね。お茶のおかわりはいかが?」
「ありがとう。もらおうかな」
 そして、幼なじみはアストレアのお茶を気に入ってくれたようだ。マイアで取れる茶葉に比べてアストレアの茶葉は繊細で香りも強く、けれども飲みやすいのが特徴だ。白の王宮でもレオナはお茶の時間をたのしみにしていた。幼なじみが変わらずに笑顔でいてくれることが、ブレイヴには嬉しい。
 だけど、本当は不安もあるのだろう。
 幼なじみは王都マイアも自身の兄のことも、ほとんど話さない。さびしいのだろうか。ブレイヴは考えないようにする。心細く思うのは当然だ。ここは、王都マイアの白の王宮ではないのだから。
「ルテキアも誘ったのに、きてくれなかったね」
「たまには、ひとりで休みたいときもあるよ」
「うん。そうだね。でも、わたし知っているの」
「なにを?」
「ふふっ。ルテキアは、きっとレナードといっしょなのよ」
 ブレイヴはまじろぐ。意外な組み合わせではなかった。二人はともにアストレア騎士団にいる。いわば同僚だ。でも、幼なじみは内緒話をするときみたいに小声になる。
「前にね、レナードの妹さんに会ったの。ルテキアとレナードはなかよしって。その子がそう言うの。だから、ほんとうよ」
 ああ、なるほど。それならばジークも知っていて、公認だろうなとブレイヴも笑む。
「そうだ。レナードといえば、なにも言ってないのに急に逃げられたな」
「あ、それは……」
 幼なじみは口ごもり、大人しくなった。つづきを促すべきかブレイヴは迷う。アストレア騎士団のなかでもまだ新人のレナードだ。帰還してからというもの、ブレイヴは特別な用事がなければ、特に彼とは話さない。しかし、あれは三日前だった。公子と目が合うなり気まずそうに目を逸らしたレナードは、会釈だけして中庭から回廊へと入っていった。訓練の途中のはずで、だから逃げられたのだとブレイヴは思っている。
「なにかあったの?」
 幼なじみのこの反応は、レナードが失言したのはたしかだ。
「ううん。たいしたことじゃ、ないのよ? でも、レナードったらひどいの」
 怒っているというよりも、恥ずかしいのだろうか。レオナの頬がちょっと赤い。
「だって、その……、王女は友達がいないんだって、そう言うの」
「友達が、いない?」
「ブレイヴ! い、言わないで、その……」
 意気込んだり大人しくなったり、そうかと思えば怒ったり恥ずかしがったり、最後は慌てたりと幼なじみは忙しい。ちょっと読めてきた。その場にいなかったブレイヴは会話すべてを知らなくとも、レナードはやっぱり要らない声を出してしまったらしい。皆まで言われたくなかったのだろう。レオナは赤い顔をしたまま、そっぽを向いてしまった。そして、ブレイヴは――。
「ちょっと、やだ。そんなこと、ないもの。それなのに……ひどい。そんなに笑うなんて……、」
 堪えるつもりが無駄だった。幼なじみに怒られても、ブレイヴは真顔に戻せずにいる。
「ごめん、でも……、それでレナードは誤解したままなの?」
「だって、ルテキアが行きましょっていうから、ぜんぶ否定できなくって」
 ブレイヴは咳払いする。口の端はまだ笑みを描いていて、けれども声色はすこしだけ変える。
「友達、いるものね。ここからじゃ遠いけれど」
「うん、そう……。アイリとウルスラ。わたしの大事なおともだち」
「ディアスとレオンハルトと」
「そうね。ふたりも、きてくれたよね」
「なつかしい?」
 レオナはうなずく。でも、彼女は修道院あそこに戻りたいとは言わない。白の王宮よりも自由で、公爵家の娘たちは王女とわかっていてもレオナにやさしくしてくれて、慕ってくれた。そういう場所でも、レオナの本当の場所ではない。彼女のあるべき場所は白の王宮だけだ。 
「思い出したよ。レオンと忍び込んだことを。ディアスは、そのときにはいなかったかな?」
「見つかって、ふたりともすごく怒られたね」
「あれはレオンが騒いだからだよ」
 ブレイヴはちょっと肩をすくめてみせる。少女だったレオナが五年間身を置いていた修道院は、王都マイアからは半日はかかる。幼なじみは月に一度は必ず手紙を書いてくれるのだが、士官生だったブレイヴは返事を出すのが遅くなることも間々あった。幼なじみの手紙の最後はいつもおなじだった。わたしはだいじょうぶ。元気です、と。それでも、兄妹と離された幼なじみがさびしがっていることをブレイヴは知っていた。だから、彼女に会いに行く。修道院は男の立ち入りを禁じているにもかかわらずに。
「ふふふ。わたし、反省文を書かされた」
「俺は、教官にこっぴどく叱られた」
 叱責だけで済んだのは、当時の教官がムスタール公爵だったからだ。ブレイヴも長い反省文を書かされて、しかし懲罰室は免れた。きっと、ヘルムートは知っていたのだ。王女レオナがそこにいることを。秘匿ひとくにするべきと考えたのかもしれない。
「でも、わたしではなかったら。もしも、にいさまやねえさまだったならば、そうならなかった。わたし、そこにはいなかった。アイリにもウルスラにも会えなかった」
 ひとり言みたいに落ちる。それは、祈りや希望にも似ていて、幼なじみが過去を懐かしんでいるのではなく、いまを見ているようにきこえた。
 忘れたわけではない。レオナはイレスダートの王女で、それからブレイヴの幼なじみだ。ちいさいときから彼女を知っているし、ずっと彼女を見てきた。けれども、レオナはちがう。本当のレオナは――。
「ブレイヴ?」
 大丈夫。幼なじみはちゃんとここにいる。いまは、王都から離れていても、またきっと安全な場所へと帰れるはずだ。それまで、ブレイヴは何があってもレオナを守る。アストレアに危険なものはない。おそろしいことは、起こらない。
 風が強くなった。幼なじみは乱れた青髪を押さえながら空を見あげる。雲の動きも速くなっていた。
「そろそろ、戻ろうか」
 午後の時間をゆっくりたのしむつもりだったものの、ここには歩いてきたので途中で雨に降られるかもしれない。籠に茶器や焼き菓子を収める幼なじみは、また急に元気をなくしてしまった。
「次は、湖に行ってみようか」
 馬を使えばそう遠くはない。幼なじみはブレイヴを見つめる。ほんとうに、と。レオナはつぶやく。きっと、そのくらいの時間ならば許されるだろう。


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