二章 アストレアに咲く花

ルーファスとシスター

 イリア・ルーファス・クレインが王女の従者になったのは十歳のときだった。
 まだ六つの王女にとって、ルーファスは護衛と言うよりも遊び相手に近かったのかもしれない。レオナ王女は大人たちを警戒するのでけっして心を開かずに、しかし歳もさほど離れていないイリアにはすぐに懐いた。
 側室の子として生まれたレオナに対して、ルーファスがはじめに持ったのが同情だ。ちいさな王女は白の王宮の離れにある別塔だけが許された世界だった。母親にはめったに会えずに、母のちがう兄妹たちも毎日は会いに来てはくれない。父王は幼い娘を不憫に思ったのだろう。公爵家の子らを白の王宮に呼び寄せる。青髪の少年と赤髪の少年と。王女は兄や姉の次に、いやそれ以上に彼らは近しい存在となった。少女ながらに少年たちに妬心としんを感じたことを、今もルーファスは覚えている。彼らは王女の家臣ではなく、友達として。幼なじみとはそういうものなのだと、己に言いきかせるしかなかった。
 ルーファスがイリアを名乗らなくなったのも、おなじ頃だった。
 クレイン家はイレスダートの名門である。されども女としてこの世に生を受けたからには、成人すればよその名家へと嫁がなければならない。イリアはそれを嫌がり、騎士の道を選ぶ。そうして、クレイン家のイリアは姫君の傍付きとなった。イリアはこのときに女であることと同時に、イリアの名も捨てたのだ。
 しかし、それから四年後のレオナ王女が十歳の誕生日を迎えてからひと月、とある事件が起こり、ルーファスは一時的に王女から離れる。レオナが修道院へと入るためだ。クレイン家へと戻ったルーファスを待っていた家族は兄だけで、すでに父と母は流行病でいなくなっていた。涙は出なかったように、覚えている。そんなルーファスの肩を兄がやさしくたたいてくれたことも。
 そして、そのあいだもイレスダートの情勢は一変する。北の敵国ルドラスとの抗争に、果たされなかった和平条約。王の死と北の地で消息を絶ったソニア王女。ほどなくして、レオナ王女は白の王宮へと戻される。ルーファスはふたたび王女の傍付きとして働くだけだ。もう二度と、クレインの家には帰らないだろう。そう言った妹を強く抱きしめてくれた兄も、その一年後に病を患い他界した。
 クレイン家は傍系の者こそたくさんいるが、しかしルーファスにはどれも縁が浅い。だから、今はルーファスの本当の名を呼ぶのはレオナ王女だけだ。レオナはルーファスを傍付きとしてではなく、姉を見る。生真面目な傍付きはあくまで騎士の挙止をする。そうして、二人はともに生きてきたのだ。
 ルーファスと、呼ぶ声がした。過去を追っていた思考を今へと戻す。だが、騎士の視線は己を呼ばう者へとは重ならなかった。
「さあ、祈りましょう。神に」
 演者は、誘う。
 ソプラノの声音が響き渡る。甘くやさしく、魅惑的な声であってもルーファスにしてみれば、それはひどく耳障りに感じられた。
 ムスタールの大聖堂には、祭儀の時間の他にもたくさんの人が詰めかけている。
 敬虔な教徒にとって祈りの時間は大切だ。憤怒、嫉妬、強欲に色欲に。あらゆる雑念を捨てて、彼らは神の前で己を曝け出す。嘘偽りは許されない。そう。彼らはただ許しを乞う。贖罪こそが、信仰なのだと疑いもせずに。
 ルーファスは聖イシュタニアを見つめる。
 身の丈の三倍はあろうか。王都マイアの大聖堂にもこれとおなじクリスタルの像が祀られている。イレスダートにて、ひいてはマウロス大陸でもっとも強き神とされる聖イシュタニア。たしかに、神聖そのものに見えるだろう。光の角度を変えれば赤、橙、黄に緑、青、藍と紫の七色に輝く女神像はすべての者の母だ。ヴァルハルワ教徒はその前に跪き、祈りをする。それが務めであると信じて疑わないのだ。しかし、そうではない者にとってはどうか。クレイン家はたしかに敬虔な教徒の家ではあるものの、食前と就寝の長い祈りの時間もただの習慣に過ぎない。神聖なる女神像の前で形だけの祈りを捧げる。それだけだ。
「ルーファス殿、こちらへ」
 招かれたのはこれがはじめてではなかった。
 客人用の一室にしては狭い。窓もなければ置かれているのは簡素な机と椅子くらいだ。修道女はそこでルーファスを待つ。艶麗な笑みを添えて。
「シスターと、お呼びください」
 修道女は最初にそう言った。それゆえに、ルーファスは女の名を知らなかったが、どうでもいいことだ。しかし、この笑みこそが信用ならないと、ルーファスは思う。さすがは常日頃から人々の告解を受けている修道女だ。その目、その声。そして、その微笑み。どれも偽りは見られずに、ルーファスを慰撫する。 
「わたくしの思い違いでしたなら、お許しください。ですが、なにか思い悩まれているのではありませんか?」
 ルーファスがただの女であったなら、女の誘いに乗っただろう。騙されない。騎士は己が膝の上で拳を固く作る。
「いいえ」
 にべもなく突き返したとしても、修道女の笑みは消えなかった。それこそが不自然なのだ。ルーファスは攻撃的な目をやめない。薄藍の瞳とかち合った。困惑と同情の両方が混ざっていた。修道女は嘆息し、滑り落ちた白金の髪を払う。よく手入れされた美しい金髪だ。そこらの貴族ではない。修道女がどれだけルーファスの心を慰める声をしたところで、騎士はけっして警戒を解かない理由がそれだ。その推測はたしかに正しかっただろう。騎士も王女同様に箱庭で生きてきた人間だ。もっと白の王宮の外を、あるいは王都マイアの他を知っていたならば、この女の出自も見破れていたのかもしれない。白金の髪に薄藍の瞳こそ、ある一族の証。ルーファスはそれを知らなかったのだ。
「神の前では皆、例外なくただの人なのです。偽りなど許されません。だからこそ、祈るのです」
 まるで、己が神のように物を言う。傲慢で、驕誇きょうかな女だ。心は修道女を拒否していたものの、しかしルーファスはそれとは反対の挙止をする。 
「申し訳ありません」
 屈するのは容易い。だとしても、騎士はけっして選ばないだろう。ルーファスは、今ここに己がいる意味を考える。そう。はじまりはなんだったのか。王女と別れ、傍付きではなくなったルーファスはまず協力者を訪ねた。クレイン家の傍系の者と落ち合うはずだった。だが、幼き頃に一度か二度会っただけの伯父の顔など記憶を頼りにしても危うい。どれだけ時間が経っても、ルーファスの求めた人物はそこへと現れなかった。
 なにか手違いがあったのだろう。
 日を改めるべく、立ちあがったルーファスの横顔はひどく疲れていた。まだ、認めるには早い。彼らは待っていたのかもしれない。騎士へと声を掛けたのは、協会関係者だった。
 その日からルーファスはムスタールの大聖堂に身を寄せている。いや、正確には囚われていると言うべきか。修道女はルーファスを客間へと誘う。逃げることが不可能だったのは、彼らがルーファスの正体を知っていたからだ。
「まあ。そんなに肩を落とすことはございませんよ。詫びるのはわたくしです。王女の傍付きの方に、無理強いをするなど……そういうつもりはないのです。ただ……」
 幼子をあやすようなやわい声音だ。それはつづく。
「わたくしは真実を知りたいのです。貴女様がこのような場所にいる意味を。だって、おかしいでしょう? 王家の姫君が、白の王宮から離れるだなんて。わたくしのようなただの女でさえ、色々と勘ぐってしまいますわ」
 脅しのつもりだろうか。ルーファスは眉ひとつ動かさなかった。どんな反応をみせたとしても、この女に肯定を与えてしまう。二度目の嘆息がきこえた。騎士はただ、沈黙を守るだけだ。
「どうあっても、お応え頂けないのですね? 残念です。わたくしは信用なりませんか? 教会はクレイン家の……いいえ、王家の味方ですのに」
 ルーファスの拳が震えた。怒り、いやこれは嫌悪だろう。
「兄はもうおりません。今のクレイン家がどうあるのか、私は知りませんし関係ないことです」
 これ以上、応える必要はない。視線を薄藍の双眸から鼻梁へと移す。修道女はずっと同情の目をルーファスに向けている。心を読まれているようで不快な目だ。
「そう……。本当に残念です。では、王女はどこにいるのでしょう? レオナ殿下は白の王宮にあるべきお方、わたくしたちは案じているのです。かのソニア殿下のように、」
「ありえません」
 ルーファスの手が剣へと伸びる。殺すのは簡単だ。けれど、それだけはしてはならない。この女は危険だ。王女レオナがどこにいるか知っていて、あえて問うている。教会は、王家の味方とはちがう。国王アナクレオンはヴァルハルワ教会を敵に回したのではなく、最初から教会は王家を敵視しているのだ。ならば、白の王宮内で派閥争いしている元老院もまた。
 そこで、ルーファスの思考が止まった。
 やはりこの女は油断がならない。ただの修道女ならばもうとっくに怯えて泣き出している頃だというのに、それすらしない。いつから仕組まれていたのだろう。ルーファスは思う。そのとき、扉をたたく音がした。逃げられないのはルーファスだった。ところが――。
「そういうことか……っ!」
 騎士はもう己が感情を抑えつけなかった。口のなかが乾く。肩が震える。怒りも失望も、すべてを殺さなければならないのに、ルーファスは許せなかった。裏切りだ。騎士は睨み据える。扉の向こうには初老の男がいた。気圧されているのか、目をけっして合わせようとしなかった。
「言ったでしょう? クレイン家は、わたくしたちの味方なのだと」
 修道女は笑んだ。裏切りだ。もう一度、騎士は口のなかで言う。手違いなどではなかった。クレイン家は王家よりもヴァルハルワ教会を選んでいたのだ。
 

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