二章 アストレアに咲く花

来訪者

 その色をたとえるなら、何が一番似合うのだろう。
 どこまでもつづく蒼穹のように、あるいは静かな海のように。けれどもフードから滑り落ちる長い髪の毛はそのどれよりも清冽であり、うつくしい色だった。そして、目と目が合う。眼窩に埋め込まれた蒼の色もまた純粋で青玉石《サファイア》を思わせる。かの宝石には慈愛や高潔などの意味があるそうだが、彼女にはその言葉がよく似合うだろう。しかし、青の瞳は不安とおそれを隠しきれずに、ふっくらとしたやわらかそうな唇は何かを紡ぎかけて止まる。ブレイヴは瞬きを繰り返していた。夢や幻などではなかった。見間違えるはずもなかった。清麗な佳人はブレイヴを見つめている。麗しの姫君。幼なじみの彼女は、たしかにそこにいる。
「レオナ……、どうして……?」
 彼女の名を呼んでしまったのは余裕がなかったからだ。王女の傍付きは片言をきき逃さずに目顔でブレイヴを戒める。しかし、ブレイヴの視線は幼なじみから離れない。
「兄上が、あなたのところに行くようにって、それで……」
 皆まで言わないのは傍付きに止められているせいなのか、それとも彼女自身がまだこの状況を受け入れられていないためか。
「陛下が、でも、それは……」
 これは国王陛下の勅命ではない。王女の騎士は最初にブレイヴにそう伝えた。それでも、ブレイヴは信じられないものを見る目をする。頭で理解をしようとして心が追いつかないのは、それがレオナだったからだ。
「わからないの。ギルにいさまは、それだけしか言ってくださらなかった。だから、わたし……」
 幼なじみを落ち着かせるための言葉を作らなければならないのに、ブレイヴの唇は上手く動かない。どうして彼女がこんなところにいなければならないのだろう。ここはイレスダートの北の城塞で敵国ルドラスにほど近く、幼なじみは白の王宮というもっとも安全な場所にいるべきひとだ。ブレイヴは呼吸を深くする。思考をそこで止めなくてはならない。レオナは王家の末子で、イレスダートを守護する竜の末裔であったとしても、その身に特別な力を宿しているただひとりだったとしても、そんなものは関係がないのだ。
 アナクレオンが王になる前のことをブレイヴはよく知っている。彼は生まれながらに王であり、しかし王としての顔よりも王子としての顔よりも、兄としての顔をしていたことを覚えている。レオナに許された場所は限られていて、白の王宮からややはずれた別塔と庭園だけだった。妹のために時間を作っていたアナクレオンの表情はやさしく、公爵家の子であるブレイヴやディアスにもそれはおなじだった。彼は母親の違う妹をいつだって大切にするひとで、彼女のちいさな我が儘にだって叱ったりはしない。レオナの守り役だった老騎士や侍女たちにはそれは仲の良い兄妹に見えただろう。その関係はいまもつづいていて、だからこそ彼女を王都から引き離すというのなら、それなりの理由と覚悟があるはずだ。そうでなければ納得がいかない。
 まるで自分自身に言い訳をしているようだと、ブレイヴは思う。何かの間違いであったならば、どれだけよかっただろうか。ブレイヴはここに幼なじみをいさせたくはない。
 知らずのうちに責めるような目をしていたのかもしれない。ブレイヴが何も言わないから余計に幼なじみを不安にさせてしまう。王女の傍付きの声がきこえたそのときだ。
「公子、この件はくれぐれもご内密に」
 忠告には素直に従うべきだ。ブレイヴは騎士の挙止《きょし》をする。王はブレイヴを頼りとしている。王女がガレリアにいるという事実はごく一部の者たちのみに、他へと伝わればたちまちに騒ぎとなってしまいかねない。それは、王を裏切ってしまうこととおなじ、何よりもブレイヴは幼なじみを危険から遠ざけたかった。無思慮であるのはここまでだ。
「すみません。ともかく、部屋を用意させます」












 心の整理をするにはすこしの時間が必要だった。
 回廊を進むブレイヴはやや早足で、先ほどからおなじことばかりを考えている。別塔を後にして居館へと入ってもまだ詮なきことを巡らせて、そのうちに嫌になってため息が漏れていた。嫌悪をしたのは他でもない自分自身だ。
 突然現れた佳人のために用意した部屋ははずれの塔にあるので、騎士や兵士たちもまず近寄らない。侍女や使用人にも特別な仕事を与えなかったのは万が一に備えて、なにより王女の傍付きは自分だけで充分だとそれだけを言った。幼なじみには不自由な思いをさせてしまうが耐えてもらうしかない。しかし、ガレリアまでの道中は騎士と王女のふたりだけだったはず、ここまでたどり着くのに危険はなかったのだろうか。王都マイアやムスタール公国など大きな都市ならば治安は整っているが、街道をはずれた街や村には野盗が出る。彼女たちの容貌はあきらかに貴人のそれだ。だとしたら、巡礼者を装っていたのかもしれない。略奪や蹂躙を繰り返す野盗たちも聖職者には安易に手を出さない。神の申し子を殺してしまえば己が寿命を迎えたときにその魂はあるべきところへとゆかず、異界を永遠に彷徨うのだと信じ込んでいる者もいるからだ。
 王都からガレリアまで馬車を急がせたたとして、それなりに時間は掛かる。
 それなのにやっと着いたガレリアにも長居するつもりもないようで、王女の傍付きは即刻ここを発ちたいのだと申し出た。これにはブレイヴも首を縦には振らなかった。ガレリア山脈から吹き付ける風は朝晩問わずつづいて、それはこの地に雨や寒さをもたらす。霧が出ればそれだけ視界も悪くなるし、まもなく夜を迎える時刻に慌ただしく出立するのは利口とはいえないだろう。ブレイヴの祖国であるアストレア公国までの道のりは遠く、帰還するにはそこそこに時間がいる。糧食はもちろんのこと、武具や馬の準備も必要だ。
 ブレイヴの足は再び上官の部屋へと向かっていた。すべきことはたくさんあるが、感情と優先順位を差し置いてもそれが先になるのも致し方なく、夕食を口にする前からブレイヴの胃は重たくなった。
「ご苦労だったな」
 だからこそ、最初に労う声がしたのは意外だった。ランドルフは笑みさえ見せている。先ほど王女の傍付きに恥をかかされたことなど、もうすでに忘れているようだ。ブレイヴは曖昧な声で返す。なるほど。上官は聖騎士にそれなりの下命が下ったのだと思い違いをしているのだ。あえて否定をする気にもなれない。アストレアに帰還するのはたしかな事実だ。ガレリアでの任務のこれが最後、もう上官と関わることはないだろう。
「貴公の代わりはランツェスの公子が務める。あぁ、名はなんと言ったか……」
 ブレイヴはため息を吐きそうになる。しかし、ランツェスの公子というのは見逃せない単語だ。
「ランツェス、ですか?」
「そうだ。ランツェスの長子はなかなかの才人ときく。私も期待するところだ」
 公子の名すら知らぬような男がいやに高く評価をする。これは、ブレイヴに対しての当てつけだ。怒りを感じることもない。だからブレイヴの思考はランツェスの公子へと移る。ブレイヴのもうひとりの幼なじみはランツェスの次兄であるから彼とはちがう。ディアスの兄をブレイヴはよく知らなかった。会ったのは数えるほど、そこで言葉を交わしたかどうかも覚えてはいない。ただ、ディアスとは似ていなかったと思う。たしか、ランツェスの兄弟も母親が別だったはずだ。
 ランドルフとの会話は必要最低限に済ませて、それからブレイヴが次に向かったのは従者たちのところだ。
 アストレアの騎士たちの行動は早い。ガレリアからアストレアまでの最短の行程を地図で何度も確認し、それに伴う糧食の手配を行う。荷運びに汗を流しているのはレナードで、頭を使う作業よりも力仕事を率先しているらしい。馬の準備をする者もまた忙しそうに、とにかく皆は時間に追われている。従者たちはブレイヴに特別な声を掛けなかったし、同情の目をしない。それは他の騎士たちも同様で、ガレリアへの生活を終えて故郷に戻れるのを喜んでいるのかもしれない。 
「公子。すこし、よろしいですか?」
 ジークだった。その後ろに控えているのはガレリアの少年兵たちのようで、許しがあるまで口を閉じている。ブレイヴはうなずいて、彼らの声を待った。進み出たのは顔に面皰《にきび》の跡をのこした少年だった。
「あの、聖騎士さまは、アストレアに帰るって、きいて……」
 いかにも拙い口吻《こうふん》は少年が考えながら物を言っているからだ。普段の言葉使いでいい。ブレイヴはそういう目顔をする。
「おれ……おれたち、どうしたらいいのか、わからなくて。あいつ……いえ、あのひと、ランドルフさまは、」
「心配しなくてもいい」
 それ以上を言わせてはならない。少年兵は自分が吐いてしまった声をひどく後悔したように項垂れる。叱責だけで済むならいいが、事が事だ。少年兵の顔には面皰の跡だけではなく他にも痣が見える。総指揮官には何度も折檻をされてきたから、怯えるのは当然だろう。
「私の代わりにランツェスのホルスト公子が来てくれる」
 少年兵たちは顔を見合わせる。それから、ブレイヴの声を繰り返した。ランツェスはアストレアよりもガレリアには近くとも、少年兵たちにとっては見知らぬ場所だ。少年兵たちを下がらせてジークが戻ってくる。物言いたげな表情に先に負けたのブレイヴだった。
「おまえらしくもないな。なにがそこまで気鬱にさせる?」
 わかっていて、あえて問う。騎士は相好を崩さなかったが、それでもほんのすこし非難する色を宿していた。ランドルフとブレイヴの会話をずっと坐視《ざし》してきたジークだ。思うところも多々あるのかもしれない。
「いえ……。しかし、本当によろしいのですか?」
 ブレイヴは近しい者にだけ王女の存在を打ち明けていた。同行するのはジークを含めた数名のみで、のこりは先にアストレアへと帰還させる。そこにはレナードもいるが口堅いたちであるから、それは心配がない。とはいえ、王女の護衛に心許ないのだと進言しているのだ。
「あぁ。そうするようにも言われた」
 王女の傍付きは悪戯に目立つことは避けたいとブレイヴに伝えた。たしかにそうだろう。人数を増やせば危険は減ってもそれだけ物々しくもなる。
「そうですね……。それに、皆は早くアストレアに帰りたがっています」
 ブレイヴは微笑する。正直に告げたジークもだが、騎士たちのことも咎めようとは思わない。ガレリア在中での帰還はたしかに長く感じたし、となればアストレアに早く兵力を戻したいのだ。イレスダートの公国のひとつとはいえアストレアは小国だ。イレスダートとルドラスとの戦争が本格化すれば兵力はそこへと取られる。それがイレスダートのためといえばきこえは良くてもそうではない。ガレリアから南へとルドラスの進軍を許してしまったそのときに、マイアはどれだけアストレアを守ってくれるか。ブレイヴはかぶりを振る。いま、そんなことを考えても仕方がない。ただ、アストレアの民を早く安心させてやりたいとは思う。
 夜が本格的にはじまるよりすこし前に、ブレイヴは北の大地を見た。これが、ガレリアでの最後の見回りだった。太陽が姿を消した城壁の向こうはすでに闇が居座っていて風も強い。洋灯もすぐに消えてしまったので自分の目だけを頼りにする。東にはガレリア山脈が、その反対には落葉樹の森が見える。敵の姿はない。だが、あの深い森の奥にはルドラスの騎士がいて、そこで生活をする人々がいる。
 いずれブレイヴの声はルドラスの覇王の元にも届くだろうか。銀の騎士は敵ながら道理をわきまえた人間だったと評する。なにも杞憂などないはずだ。それなのに、どうにも感傷的になる。ブレイヴを騎士から人間にする。きっと彼女がここへと来てしまったからだ。
 
 

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