一章 イレスダートの聖騎士

不吉を呼ぶ霧の先に


 ブレイヴが目覚めたとき、まだ朝には早い時間だった。
 寝台から起きて窓をのぞいても外は真っ暗で、しかしブレイヴは手早く身支度をする。向かう先は見張り塔だ。
 寝付きの悪さもなければ体調も万全なので足はちゃんと動く。もともと朝に強いので眠気も怠さもない。あるとしたら悪い予感だけか。根拠のない勘というものをあまり頼りとしなくとも、心臓は勝手に早鐘を打ちはじめている。この形容のできない違和はそれだ。
 別棟を抜けたときブレイヴの足は一度止まる。闇のなかで洋灯が照らすのは乳白色の霧だ。外套を着込んできたのは正解だったようで、前日の雨につづいてやはりガレリアに春の訪れは遠いのだろう。ブレイヴの目は一瞬だけ居館を捉えたがすぐに別のところへと戻していた。いまはまだ、それが必要なときではないと判断する。外れた敷石の数はこの前より増えていて急いでいるときこそ歩きにくくて仕様がない。他に届く音といえば靴音と敷石のずれる音くらいだった。静かすぎるくらいだと、ブレイヴは感じる。胸を打つ心臓の動きがやたらと速いのもそのせいだろうか。
「おはようございます」
 塔の最上部へとたどり着けば若い声に迎えられた。レナードだった。早朝の哨戒《しょうかい》となればブレイヴよりも三時間は先に起きているはずでも、しっかり自分の仕事をしている。昨晩にあれほど葡萄酒を飲んでいたというのにこう元気なのも、彼が若いからだ。ブレイヴは苦笑する。レナードは挨拶をしただけですぐに視線を北へと戻した。主が特別な言葉はなくとも理由なしにここへとやって来るからには何かあるのだと、察したのだろう。
 そのうちに瑠璃色の空にも慣れてくる。しかし霧が晴れる気配はみえずに、頼りとするのはやはり自分の目だけだ。ブレイヴはレナードの後ろへと控えて彼とおなじ大地を目視する。いつも北から吹き付ける風もいまは止まっていて、小一時間が経過してもレナードは欠伸ひとつ落とさなかった。
 ブレイヴにつづいて見張り塔へと上ってきたのはジークだ。主がいないことをいち早く気がついたようで、だからといって責めるような目もしていない。従者も何かを感じているのだろうか。
「レナード。交代をしよう。厩舎《きゅうしゃ》で控えていてくれ」
「いえ。ここにいます。まだ、俺の仕事ですから」
 さすがに大人の男三人は窮屈すぎるし、火急となればすぐに馬を使えるようにしたい。その意味も込めてブレイヴは言ったのだが、あっさりと断られてしまえばため息も出てくるものだ。彼のこうした不遠慮なところは嫌いではないとはいえ、主君の声に素直に従わないのも問題だなと思う。ジークも特に咎めたりもせず、これは彼の性格を熟知しているがための諦めらしい。アストレアの騎士は良くも悪くも個性的な者たちばかりだ。
「卿には、伝えますか?」
 囁くほどの小声でジークが言う。
「そうだな……」
 応えつつもブレイヴはまだ迷っていた。上官への報告はいかなるときも速やかに行い、またそれを怠ってはならない。子どもでもできる簡単な仕事だ。ただしこれを勝手に放棄すれば軍法会議は免れず、しかしブレイヴを悩ませるものがいくつかあるのだ。上官がランドルフという男でなければと、考えかけてブレイヴは嫌悪する。それはただの逃避に過ぎない。何の根拠も確信もなくして上官の部屋の扉をたたいて罵声を浴びるのは正しいといえばただしく、しかしながらブレイヴが危惧するのはまた別で、そうしている間に見落としてしまうのがこわいのだ。
 従者の声に応えようとしたブレイヴは、そこである動きに気がつく。薄霧の向こうに見えたのはなんだったのか。視界を遮る霧は何を隠しているのだろう。ブレイヴは目をよく凝らしてそこへと全神経を集中させる。群青の空と茜色が混じる色彩の変化は美しく、せかいはまさに眠りから覚めようとしていた。
 ブレイヴは思わず身を乗り出していた。城壁よりも北の、ルドラスの大地を駆けるのは馬ではなかったか。それも、複数だ。
 威嚇ならばあまりに近づきすぎている。陽動だとすれば意味のない行動だ。見張りに立てるのは兵士か下級騎士で、彼らならばまず見落とす。だがこれは裏を返せば逃さないものがいると、確たる自信があるのではないか。たとえば、ここにイレスダートの聖騎士がいるのだと、敵がそれを見破っているのならば。それほどの武将が、このガレリアに近づいていたのならば――。
「公子!」
 ともすれば舌打ちがきこえてきそうだが、ブレイヴはあえてそれも無視をする。見張り塔を駆けおりたときにつづいた足音はふたつ、彼らは主君をひとりで行かせはしないがそれでもブレイヴは命令を下す。
「ジーク、レナード。共に来い」
 それは共犯させるという意味だ。だからブレイヴは返事を待たなかったし、彼らの目を見なかった。そして、ブレイヴは短い時間だけで思考を纏める。考えられる可能性は三つだ。ルドラスの本格的な進軍がはじまるのか、そうでないのか。もしそうならば全軍で迎え撃つべきだろう。その前に斥候を出すべきか。だが、これがいつものように、ルドラス側がただこちらを威嚇しているだけならば話は変わる。むやみに追撃をすればそれこそ出した部隊が全滅しかねない。これが、二つ目だ。それから三つ目は極めて危険な賭けともいえるだろう。ブレイヴは生唾を飲み込む。自分はおそらく三番目を考えている。
 厩舎へと着く前に何人かの兵士が集まっていた。騒ぎにならない程度にジークが彼らを集めていたようだ。 
「聖騎士殿。おれたちは、どうすればいいんですか?」
 少年兵たちの他にもブレイヴよりも年上の兵士もいくらかそこにはいたが、どの顔にも見えるのはおびえと不安だ。
「私が出る。皆は戦闘態勢に入れ」
 ざわめきは混乱そのものだった。彼らの恐怖を冗長させないように、それでいて緊張はそのままに、しかしブレイヴの声音は失敗だったらしい。倉皇《そうこう》とする少年兵たちを押しのけるようにして、そのなかで一番年長者が進み出る。白に近い金髪は傷んでいる上に無造作に括っているから余計に粗末に見える。金髪の兵士はブレイヴの前で騎士とおなじ所作をした。
「かしこまりました。しかし、ランドルフ様には……」
 さすがに伝えないわけにはいかない。すべてを独断で行えるほどの権限をブレイヴは持ってはいないからだ。ブレイヴは数呼吸の間に声を用意する。だが、そこから出すべきものはひとつだけだ。
「二時間だ。……いいな?」
 みなまで言わなかったのはそれで充分だと思ったからだ。
  仮に敵がそのまま攻めてきたとしても、ガレリアが一日足らずで落ちることはない。敵の足止めとなるのは少年兵たちで彼らは戦場を知らなくともたたかう。剣を置いて逃げたりはしないし、なによりも逃げ場がないのだ。これまでの訓練は嫌でも身体に染みついているはずだから、敵を前にすれば勝手に動いてくれる。死にたくないのならなおさらだ。それまでにブレイヴは帰ってくるつもりでいる。もしも――、いや考えるのはやめておこう。 
 両手剣を胸で抱く者がいて矢の補充をする者がいる。少年兵を整列させる者と引き締まった面持ちの兵士は何度か戦場に出たのだろう。ブレイヴは兵士たちを順番に見た。そのなかでもっとも幼い顔と目が合った。ガレリア人は色が白いのが特徴でも彼は特に白皙《はくせき》だ。いや、これは緊張のあまりに顔色が悪いのかもしれない。唇の端が震えている。
 彼らの明日を奪いたくはないとブレイヴは思う。その責任がブレイヴには、ある。
「よろしいのですか?」
 城門を抜ける頃になってジークは言った。独断で動いたことに対してか、注進を怠ったことに対してか。おそらくは両方だろう。ここでランドルフに報告したとして、総攻撃を仕掛けよと命令するのは目に見えている。それがもしも敵の狙いだとすれば、この城塞はがら空きとなるだろう。これまで目視できなかったところから敵が出現すれば、そのあとは考えたくない未来だ。
 ジークは敢えてブレイヴに誡告《かいこく》をする。よくできた部下だ。ブレイヴは本当にジークを信頼しているからこそ、その声に首肯も否定もしなかった。
 霧がすこしずつ晴れてきた。ブレイヴは馬を西へと走らせる。最後に敵の姿を目の端で捉えたのはガレリア山脈とは反対側、誰も森の奥までは深追いしなかったそこに消えたというのなら追うまでだ。落葉樹の森はブレイヴたちを侵入者さながらに行く手を遮る。小径があるということは人が行き来をしている証拠で、しかしそれも徐々に狭くなってきた。ブレイヴは哨戒部隊がこれを見落としている理由を理解した。この森は隠すために存在している。視界の邪魔をする白い霧は幻そのものだ。つまり、奴らはこの地形を利用している。その先にあるものをこちらに悟らせないように。そして――。
「動くな」
 ブレイヴの足を止める声は突然に響いた。やや訛りはあってもたしかに共通のマウロス語だった。ブレイヴはすばやく視線を右へと滑らせる。声は白樺の幹の向こうからした。 
「他にはいない」
 ブレイヴは目に力を込めた。信用はできない。相手は敵だ。こちらの油断を誘っているならそれは逆効果にしかならず、とはいえ武器での威嚇行為もないのが妙だった。馬もまだ大人しくしている。
 ブレイヴの逡巡の間にひとりが近づいてきた。容貌はまさしく騎士のそれであり、ルドラスの人間と見て取れるのはやはり北国の人間の特徴である白い肌だろう。皮膚の色だけではなくすべての色素が薄いようで、髪の毛も黒には遠い灰色だ。瞳は澄んだ空の色をしているが感情を読み取らせるような動きはほとんどなかった。あるのは敵意だけか。ブレイヴは目を逸らさない。
「イレスダートの聖騎士、だな?」
 問いはほとんどこたえのようなものだった。ルドラスの騎士の唇に笑みが見える。おなじ微笑みをするべきかとブレイヴは思う。それくらいに落ち着いている。誘いに乗ってやってもいい。ブレイヴは騎士の声に応じた。 
   
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