一章 イレスダートの聖騎士

兄と妹


 イレスダートに住む者ならば誰もが一度は訪れてみたい場所のひとつに、王都マイアの大聖堂を挙げるだろう。
 天へとつづくほどに高く堂々たる柱にはさまざまな彫刻が施されていて、壁画をたどって薔薇窓へとたどりつけば、人はまず感嘆の吐息をする。敬虔なヴァルハルワ教徒などはその目から大粒の涙を溢すというが、それも誇張した話ではないだろう。ここは、あまりにうつくしく、そして神聖なる場所だった。
 祭壇の後ろには気高く、それから麗しい女神の像が祭られていて、人々は歓喜の後に祈りを捧げる。充分に時間を掛けた祈りは、信仰は、彼らにとって救いとおなじだった。聖イシュタニアの像はすべてを見つめる。老爺《ろうや》に母親に幼子に、騎士も商人も聖職者もみな、女神の前ではただの人だ。人々は女神に偽りの声をしない。時として、卑しくもある己の心そのままを見せ、賛美と感謝を、あるいは断罪と赦しを乞う。
 王女レオナも人々とおなじように、女神の前に膝をつく。
 ただ、レオナはヴァルハルワ教徒ではないので、食事や就寝のときに祈りの声はしなかった。この祈りは自分のためではなく、他者のための時間だ。
「ここには毎日来ているのか?」
 レオナは視線をあげる。そこには巡礼者たちの他に聖職者もいたはずだ。しかし、そのきき覚えのある声音はどれでもないもので、レオナはやや驚いていた。
「兄上……」
 まさかひとりでここまで来たのだろうか。レオナは傍付きを伴っていたが、従者はレオナの時間の邪魔をしたいためか外で控えている。それなのに、兄はただひとりでレオナの声を待っていた。
 大きな騒ぎになっていなければ、いいのだけれど。
 レオナは白の王宮をまず心配する。兄はむかしから行き先を告げずに突然に姿を消す人だった。けれど、過去といまの兄では立場がちがう。それとも、このくらいの時間ならば許されたのか。そうだとしても兄がこの場所に現れるというのは稀なことだった。側室の子として生まれ、離宮でずっと生活をしているレオナとは異なりアナクレオンは幼きときから王家の者としての自覚がある。つまりアナクレオンはこの世に生まれ落ちたときから王なのだ。王は神に救いを求めたりはしない。王は神を崇めたりもしない。アナクレオン個人がそうした信仰心の薄い人間というわけでもないのだ。王とはそういう生き物である。
 ましてや、マイア王家は竜の血と力を受け継ぐ一族だ。その謂われを知るには昔へと時を遡る必要があるだろう。 
 マウロス大陸にふたつの種族が共存していた時代はたしかに歴史に残されている。しかし、その領域を侵したがために竜の怒りを買ったのがはじまりであったのか、あるいは人間を嫌った竜たちが王国を侵略したのが最初であったのか、そこまでの仔細は伝わっていなくとも両者の争いは長くつづいた。力なき人間は竜に蹂躙されてしまい、そうした人間を憂いてひそかに助けたのもまた竜であり、そこから歴史は激変してゆく。人と竜、それから同族の裏切りに激高した竜と竜との争い。やがて、疲弊した大地に降り立った竜の王はすべての争いを終わらせる。竜王はいくつかの戒めをおいて自らマウロス大陸を去ってゆき、他の竜たちもそれにつづいたことで後にイレスダートと呼ばれる王国から竜はいなくなったのだった。
 ただし、竜が完全に消えてしまったわけではない。二度と、こうした争いが起きないようにと竜王は監視者として、はじめに人間に味方した白の竜を残したという。すでに弱っていた白の竜は自らの血と力を人間へと与え、そして長いながい眠りにつく。生き残った人間たちを導き、王国を再建したのが時の王、すなわちマイア王家のはじまりの人だ。ゆえに王家の人間は神秘的な力を宿している。その力を持って和を紡ぐのが使命、レオナやアナクレオンの思想はそれだ。
 崇高な概念は人が生きるために必要なものだとはいえ、ヴァルハルワ教会とは本質がまた異なる。存在は認めてはいても心のすべてを委ねるわけではない。神を信じたりはしない人間がこうして大聖堂へと赴くにはそれなりの理由がいる。レオナは兄を見つめる。ここへ来たのはアナクレオン個人のためだ。
「ここは随分と久しぶりだな」
 規則正しく並べられた椅子にはまだたくさんの人が残っていたはずだ。その最前列へとアナクレオンは腰掛ける。レオナが後ろを見渡しても他の姿はなく、おそらくは大事にならないようにと司祭たちが人々を連れ出したのだろう。王の顔を知らぬ者でも彼を王と認める。アナクレオンの容貌はまさしく王者のそれだ。
「そう、でしたわね」
 レオナもまたぎこちない笑みをする。どこか居心地が悪く感じてしまうのはなぜだろう。きっと、兄とこうしてふたりきりで話をしたのがずいぶん前だったからだ。王の隣にはいつも誰かがいる。兄と妹でいられるのはいまだけだ。
「そうだな。最後に訪れたのは、母上が亡くなったときだったか」
 レオナは目を瞬く。それはどちらを言っているのだろうか。正室であるアナクレオンの生母のことならばそのときにレオナは同席をしていない。許されなかったといった方が正しく、またレオナの母親のことならば兄はそんな呼び方などしなかった。
「そんな顔をするな。他意はない」
 それでもまだレオナは兄の隣に座ることができなかった。アナクレオンの視線はレオナではなく女神の像を見つめているようにも見える。
「ソニアは、どちらのときにも泣いていた」
 レオナの開き掛けた唇が閉じる。どうして、いないひとの話をするのだろう。かなしませるための言葉でなくともレオナは胸の前で腕を交差させていた。怯えといかりと。いま、レオナの心のなかにあるのは両方だ。
「でも……兄上は、姉上とおなじように、ブレイヴも危険なところへと連れて行くのでしょう?」
 いつもよりもずっと早口だったのは後ろめたさせいだ。兄を、王を責めても何にもならないことくらいわかっている。
「お前は怒っているようだな」
 兄の微笑みの向こうには何も見えない。けれど、兄の言葉は本当で、それならば相応の怒りを見せるべきか。拳が震えそうになるのはひどく緊張しているせいかもしれない。兄がレオナのききたくはない声をするからだ。
「情勢は、変わりませんの?」
 話題をそこから遠ざけようとしても、けっきょくたどり着いてしまう。王女であってもレオナには仔細を知る術もなければ、軍事や政治に関わることも不可能だ。
「ガレリアからは大規模な戦闘があった報告は届いていない」
 レオナは安堵の息を吐く。しかし、それはいまの話であって明日の保証ではなかった。ガレリアより北に行ったものは戻ってこない。父王は亡骸で帰ってきた。姉はいまもその消息が掴めないまま、そして幼なじみは――。北の国はいつもレオナから大切なひとを奪ってしまう。
「だが、彼以上に適任者はいない」
 うそだ。レオナは兄を直視する。偽りのない、レオナとおなじ色の瞳は冷え切っていて、無機質な青い宝石を埋め込んだみたいだ。
「聖騎士は他にもふたりがいますわ。アストレアの公子でなくても……」
 そう。イレスダートには三人の聖騎士がいる。もっとも適任なのは白騎士団を率いる団長だろう。王都の守りを危惧して団長は動かせないというのなら、代わりを務めるのは副団長だ。
「お前はブレイヴではなく、彼らに死ねと命じるのか?」
 とっさにレオナは下唇に歯を立てていた。そうしなければ自分を抑えられなかった。もっとひどい言葉で兄を責めていたかもしれないし、泣いていたかもしれない。レオナは瞼を閉じる。兄は本心とは別のことを言っている。罪の意識を持っているから幼なじみにそれを伝えたかったはずだ。しかし、レオナがほしいのは謝罪ではなく撤回だ。
「お前は統治者には向かないな」
 レオナは息を止める。何を言い出すのだろう。あるはずのない未来だ。絵空事のようなことを兄は口にする人ではない。次にきこえたのはため息だ。失望されても当然だろう。
「そう案じることもない。ルドラスはたしかに城塞都市付近に兵力を集中させているが、奴らは本気で侵攻したりはしない。あれは、威嚇だ」
 アナクレオンは足を組み替える。
「でしたら、どうして……」
「機を狙っているのだろう。しかし、弱みを見せるつもりもないようだ」
 レオナはきき返そうとして止めた。こたえは自分で知っている。講和条約は破棄された。だからイレスダートとルドラスはいまも争っている。
「ルドラス。あの国が、戦いを望んでいないなど……、わたしには思えませんわ」
 最初に裏切ったのは北の国だ。 
「憎いのか? ルドラスが」
 兄の言葉はいつだって正しかった。見透かされているのなら認めてしまえばいい。憎い。父を、姉を奪ったあの国が。同時におそろしくもあった。こわくて憎くて、関わりたくない。ルドラスは敵の国だ。イレスダートの敵。敵とは悪そのものである。レオナは滅亡を望んでいるのだ。敵がいるから大切な人たちが奪われる。ならば、いなくなればいい。呪いの言葉を、人は簡単に言葉にできる。
「いいえ……」
 偽りの声だ。たぶん、兄にはお見通しだろう。いまさら、取り消すつもりもなければ、それ以上を理解してもらえるとも思わない。レオナはもう一度女神像を見あげた。神に近しい立場にある者は清廉な精神を保つことが望まれる。でも、レオナは聖女などではない。ただのひとりの人間だ。
 最前線で戦うのが幼なじみでなければいい。どこか別の、レオナの知らない誰かであればいい。そうして、早くこの争いを終わらせてくれればいい。浅ましく、勝手で、醜い感情だ。持ってはならない感情だ。王女として、人として。誰にも、見せてはならない。
「座りなさい、レオナ」
 肩が震える。兄にすべてを視られているような気がした。あまりにも卑しく、利己的な自分の心にぞっとして、次には嫌悪の嵐に襲われる。でも、もう遅い。レオナは呼吸が苦しくなって胸を押さえる。自分と兄との間はほんの数歩しかないというのに、届かない距離のように思えた。
「話しておきたいことがある」
 王の声には従わなければならない。それが、王女であっても妹であっても。
 レオナが大好きだったギルにいさまはそこにはいない。いつから兄ではなく王となったのだろうと、レオナは思う。きっと、レオナが王女である前よりも、ずっと昔からだ。  

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