八、弥生

 宮中で、その噂が聞こえるようになったのはいつからだったか。
 大層愛らしい声で鳴くものだから、それを飼っている者がいるというのだ。しかし、十六夜は単なる噂であると思う。何しろ鳥は貴重な生き物であり、捕まえるともなればそれは大金を要する。ここにはそれほどの貴人が身を置いてはいるが、娯楽で飼い慣らすほどの暇を持つ者こそいないだろう。
 だから十六夜は、その声を聞いた時に思わず足を止めていた。
 月卿雲客ゲッケイウンカク伺候しこうは最早恒例となっており、その度に演者の仮面を貼り付けることは十六夜にとって容易かった。ここではそういうことも必要となる。最初の頃こそは嫌悪に感じていたが、そのうちにどうとも思わなくなるものである。
 北殿に足を踏み入れるにしても、月華門として経験を積んできた今の十六夜を咎める者などいない。ただし開かずの扉、あれにさえ近づかなければの話だ。
 この日の十六夜は久々の休暇ということで、志月と別れた後は家路へと向かうつもりだった。ところがその声を耳にしたものだから、気には止めていなかった噂話をふと思い出す。さすれば自然と西殿へと進ませていた足を、再び北殿へと戻したのだった。
 しかし、導かれるように行った先に鳥の姿はなく、代わりに一人の女房が佇んでいた。
爽麻ソウマ?」
 視線がかち合えば、十六夜が膝を折る前に女房は声を落とした。
 射干玉ぬばたまの黒髪は洗いたてのように艶やかであり、肌理きめの細かい肌にほんのりと色づいた頬、唇には瑞々しい赤が塗られ、それはうつくしい人だった。どこか儚げに見えるのは、その眸のせいだろうか。黄金きんの眸は女帝に連なる一族のみが持つ色だ。
 引き返すにももう遅く平伏するにも同じこと、そんな十六夜に女房は微笑んだ。
「十六夜殿ですね?」
 


 彼女の存在は知っていたので、別段驚くことはなかった。
 月華門である芳春ホウシュンの妻、弥生。たしかにあの芳春の連れ合いなのだから、そこそこに名の知れた人ではある。しかし、十六夜がその存在を伝聞いていたのは、彼女が稀有な者であるから。弥生が視た夢は近い将来に現実になるという。夢見の君と呼ばれる所以ゆえんだ。
「あなたのことは、爽麻から聞いております」
 彼の名が二度も出てくるとは思わなかったので、十六夜は戸惑っていた。
 爽麻は芳春の教え子という。彼女が爽麻を見知っていてもおかしくはない。ただ、弥生の声音はそれよりももう少し特別な意味を含んでいるようにも聞こえる。夫の名よりも先に彼の名が出てくるのだから、そうなのだろう。
 招かれた一室はけして広くはないが、彼女のために用意されたであろう鏡台や文机、香を焚くための火鉢に至るまで全てが一級品を使っている。従者である志月に半ば無理やりに連れて行かれたため、女人というものを十六夜は知ってはいたが、遊び女が使用する薫物とは違ってそれは雅なものだ。
 今は御簾みすに隔たれているので彼女の表情までは見えない。それであっても直視するのは憚れるのは、十六夜が彼らの関係を疑心を持っているからだ。まさか破倫はりんの関係にあるわけでもなく、十六夜は他へと意識を移す。
 そう、弥生は黄金の眸を持っていたのだ。あの幼き姫君と同じく、血縁関係に、年齢からいえば叔母にあたる人だろうか。と、ここまで推測して十六夜は違和を摘み取る。そのような話はどこからも聞いたことがなかったからだ。
 では、残る可能性としては一つだけ。
 今の女帝は公には姿を現さず、その容貌にしても稟性ひんせいにしても誰も知らないのだ。否、もっとも女帝に近しいとされる月影、或いは近習ならば別ではあるが。
「あなたの考えていることなら、答えはいいえです」
 心の中を丸裸にされた気分だ。十六夜はやや俯く。
「でもね、同じ役割があるのです。同じ一族であることには変わりありませんから。そう、私は身代りなのです」
「では、女帝は……」
 十六夜は言いかけて止める。彼女がこの宮中にてどのような立場にあったとしても、ここで口にしていいような言葉ではない。
「ええ、そうです。そして、あの娘はそれを知らない。哀れなことです」
 哀れなのはこの人も同じだと、十六夜は思った。
 夢見の君と呼ばれる彼女には十六夜と似た力がある。呪術は月人ひとの助けとなるが、必ずしもその力を持つ者が幸福とは限らない。現に弥生は女帝の身代わりとして自由を奪われている。
 そして、十六夜はあの幼き姫君のことを思った。
 母と慕う女人ひとは母ではないのだ。周囲が真実を姫君に伝えることはない。知らない方が幸せであるとでも思っているのだろうか。
 あの日の爽麻も同じことを言った。矢張り、あれは夢や幻ではなかったのだ。
「あなたも、私を遠ざけようとするのですね」
 苛立ちはそのままに声色となる。十六夜はもう視線を逸らさない。
「教えてください。私たちは何であるのかを。あなたは知っているはずです。何故なら、あなたも」
「爽麻はあなたに何を言いましたか?」
 諭すように弥生は言う。答えではないと、十六夜は肩を震わす。
「私はただの夢見。私の呪術ちからなどさしたるもの。……ですが、たしかに未来は変えられなくとも、避けられるものならばそうありたい。今の月の都の安寧がずっと長く続くのであれば……」
 約束された明日などないと、彼女はそう言っている。
「あなたは、何を視たと言うのですか?」
 期待するような声は返ってこないだろう。けれど、十六夜はそれだけは訊きたかった。長い長い空白の時を待つ。彼女の唇が再び動くまでを。
「何もない。そこには、何一つとして残らないのです。ただし、彼らは望んだままに、あるべき処へと帰るのでしょう」
 予言というのは、かくも不透明であるものなのか。十六夜は呼吸を止める。ともすれば落胆の嘆息をしてしまいそうだった。
「安心なさい。あなたもいずれ、知る時がきます。受け容れるか、否か。どちらにしても大事なものを失うことにはなるでしょう」
「あなたはそれが、おそろしいのですね」
「いいえ。私は守るために、それを選ぶのです。でも……、たしかにそうですね。おそろしいのは、私が私ではなくなってしまうこと」
 十六夜はそこで思い出した。弥生には一つの命が宿っている。夫である芳春と彼との子、それから生まれてくる子。彼女は守るために手放すという。そこにどれほどの覚悟があるというのか。また、これから何が起こるというのか。
 十六夜はそれ以上を問えなかった。長居をし過ぎたようだ。みだりに女人の部屋へと立ち入れば、あらぬ疑いを掛けられても弁明出来ない。ましてや弥生は身重の身だ。
 それにこれ以上は問うたところで無意味だろう。己の目で確かめなければならないことがたくさんある。
 十六夜と弥生との邂逅はこれが最初で最後だった。そして、十六夜は退出する前にふと思い至ったように声を落とす。
「鳥は、どうされたのですか?」
 御簾の向こうで笑みが零れる。うつくしい顔をして、彼女は応えた。
「鳥など、はじめからいませんわ。だって、かわいそうでしょう? こんなところに閉じ込められるなんて」
 
                              

泡沫。 (http://asakura128.web.fc2.com/index.html )
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