七、声
はじめは耳鳴りだった。
十六夜はそれが疲労のためだと思っていたので気にしていなかったのだが、治るどころか慢性化し頭痛や眩暈を伴うようになれば、流石に認めざるを得なくなる。
けれど月華門というのはなかなかに多忙な身である。
西とのいくさが激化するにつれて、月草や月琴などの下の者達を送り出すだけではなく、そのうちに十六夜達もいくさ場へと駆り出されるようになった。初陣こそは上手く立ち回れなかったものだが、それが二度三度と続けば持ち前の器用さもあって円滑に事を進めるのも可能になる。ただ、この日の為に鍛え上げてきた兵達でも犠牲が出ないというわけでもなく、壊滅する部隊を目の当たりにするたびに十六夜の心は痛んだ。
早く慣れるべきだと志月は言う。
分かってはいても
しかし、女帝によってこの月の安寧は保たれてるというのに、どうしてそこでいくさなどを起こしてしまうのだろうと、十六夜は思う。逆心など持たなければこうして滅びてしまうこともないのに、とも。
いくさ場と宮殿を行き来する間は身体の不調も忘れていられたが、戻り本来の職務についた途端にそれは悪化した。だからもう家族にも隠せなくなり、十六夜は半ば強制的に休暇を取らされ挙句には自室に軟禁状態となった。おまけに兄の監視付きとくれば大人しく療養するしかない。十六夜は観念して一日のほとんどを寝て過ごす日々を送っていた。
また、兄二人がいない時には志月が来る。こうなるともう自宅謹慎に近いのではと思うほど、たしかに監視の目がなければ十六夜は多少の無理を押して文机に向かうだろう。
「あなたは本当に馬鹿なのですか」だとか「言っておきますがあなたのかわりなどいくらでもいます」などと、遠慮のない物言いは聞き飽きるくらいに、志月の刺々しさは尽きない。ただ、これは実のところ本当に心配しているのだと、十六夜はずっと後になって知ったのだった。
「まぁ、安心してください。復帰すれば嫌というほどに仕事が待ってますから」
去り際にそう言い残した志月の後ろ姿に向けて十六夜は苦笑する。とはいえ、また倒れてしまわない程度に上手く志月が調整してくれている筈だ。何しろ一度没頭してしまえば食事の時間も忘れるだけでなく、就寝を疎かにしてしまう十六夜だ。医者に見せたところで疲労のためだと意外の声が返ってこないので、どこかで抑えるしかないのだ。
けれど十六夜はそれがすべての理由ではないと考えている。
昔から十六夜は床に伏せる身体の弱い
今回にしてもただ身体を休めるだけで医者は呼んでいなかった。十六夜が扱う呪術というのは
そうして再び十六夜はあるべきところへと戻り、しかし周りとの関わり合いにしても幾分かやり易くなっていた。身体を壊してまで職務漬けとなった新参者の姿は他の者の心に響いていたのかもしれない。それは
十六夜は過度に
「だいぶましにはなりましたね」
従者はなかなか辛口だ。だから十六夜も同じように返す。
「そうかな? 君にはまだ及ばないけどね」
付け焼刃の処世術でも身についてしまえばこちらのものだ。志月の嘲笑にしても、それさえ真似してやりたいくらいだ。
それでも十六夜の耳鳴りも頭痛も、完全に治ることはなかった。
それどころか時には"声"が聞こえることもある。否、それを"声"と呼ぶのも正しいのかどうか。およそ
「待ちなさい」
呼び止められて、十六夜は自分を取り戻した。
何処へ向かおうとしたのか。何をしようとしたのか。記憶を辿ってみても定かではなく、まるで自分が抜け殻になったようで何かに憑りつかれたような、そんな感覚だった。
「
剣舞の会にて一度会っただけの顔とはいっても、思い出すのに時間が掛かってしまったのは、十六夜が今やっと正気を取り戻したからだ。
「この先は立ち入るのが禁じられている。早々に立ち去られよ」
最初の声よりももう少し威圧的だったのはここが北殿だったために、だからこれは警告よりも命令に近い。
「申し訳ございません。少し、考え事をしておりましたので……」
咄嗟に出した言い訳がどこまで通じることか。ともあれ、ここは素直に従うべきだろう。しかし踵を返そうとした十六夜に、今一度声を紡いだのは爽麻だ。
「体調が優れないのならば、しばらく休みなさい」
それは気遣いのようでいて、その
十六夜は歯噛みをしつつも、彼の顔を見る。切れ長の双眸にすっと通った鼻筋、薄い唇にしても女人が好みそうな
「声が聞こえるのです。もう、ずっと前から」
家族や医者に言ったところで心配させるだけ、或いは困らせるだけだ。従者の志月にもこのことは言っていなかった。では何故、十六夜は他者である爽麻に聞かせたのか。
「あなたも、聞こえるのではないのですか?」
彼にも自身と同じだけの
爽麻の唇は動かない。然れど十六夜は沈黙を肯定として受け取った。
己の出自、あるいは生い立ちを含めて過去のことは全て忘れるようにと、それが父親との約束であり、十六夜は従ってきた。それが今、確かめたいという気持ちになったのは、自身に似た者と出会ってしまったが故に。
宮殿内はそこそこ広くとも、こうした相手に出会うことは可能性としてなくはない。だから、十六夜はあの時に父親が声を濁した理由を知る。遠ざけようとしたのはこのためだ。
「まもなく月の宮殿、
あまりにも低く、小さい声だったので、十六夜は唇の動きで爽麻の言葉を追う。
「開かずの間の奥から現れるのは異形のモノだ。月鬼は月人には見えぬ存在であるが、お前にはそれが見えるだろう」
「では、あなたにも……」
爽麻はこちらの問いには応えない。
「だが、それらの声にはけして応えてはならない」
「何故、あなたにそのようなことを」
「知らないままの方が幸福でいられる」
「そのようなことを、あなたに決められる筋合いはありません」
噛み合わない会話に苛立ちを隠せない十六夜は声を荒げる。そして、爽麻は。
「十六夜」
はじめて名を呼んだ。心地の良い低音で、諭すように。
「忘れてしまいなさい。その声は、なにもないと。
そんなことが出来るはずがない。十六夜は反論をしようとしたが、爽麻はその次を与えなかった。
「私たちはそうするしかなかった。そうして生き残ってきた。あれにも、もう戻れはしない。されば、お前は知るべきではない」
その言葉を最後に十六夜は再び意識を失う。
志月に
あれは戒告であった。本当にそうだろうか。見定めよと、或いは
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