十二、別離

 父親は何かと厳しい人ではあったが、頭ごなしに叱ったり声を上げて怒鳴るようなことをしない人だった。
 十六夜は幼き日に父親を本気で怒らせたことがあり、けれども後にも先にもその一度だけ、だからその時のことは鮮明に覚えている。
 広い邸宅であるから部屋は幾つもありその中で父親の書斎は二つ、そのうちの一つはよく父親が身を置いていて、十六夜も出入りが許されていた。だが、もう一つはそうではない。離れの場所にあり、舎人や女房の住まいよりももう少し奥に、小童が興味本位で近づくのも最もでそこに鍵が掛かっていたならば尚更だった。
 舎人に見つかってしまえばすぐに父親に報告がいく。
 物分りの良い小童だったにもかかわらず、この日の十六夜は関心が勝ってしまい、つい父親に口答えをする。さすれば嫌というほどに尻を叩かれた。以来、十六夜はそこに近づくことをしなかった。
 閂にはご丁寧に錠が付いており、しかし舎人を言葉巧みに誘導するのは容易い。何しろ、父親はもういないのだ。十六夜は兄達がいない時を狙って、そこへと侵入する。
 長いこと誰も立ち入らなかったようで、中は埃まみれでいて黴臭かった。
 十六夜は手燭の灯りだけを頼りに詮索し、そこに隠されているはずのものを捜す。あまり時を掛け過ぎてしまえば、流石に不信に思った舎人が近付きかねないし、兄のどちらかが帰ってくるだろう。
 文献やまだ十六夜が目にしたことのない物語などは興味を惹かれたもの、それには構わずに片端から書物を開いてゆく。やがて見つけたのは手記だった。
 罪悪感と一種の背徳感。一度止まった手は次にはもう迷うことなく、十六夜は手燭を置き、ひたすらに先を読み進めてゆく。
 貴人の家に生まれた子は、矢張り親と同じくその道を行く。はじめは月草に、そのうちに剣舞の会を経て月華門となり、宮中といくさ場にて経験を積む。父親はいささか不器用だったようで、そこには様々な葛藤が綴られていた。
 十六夜は目の奥が熱くなっていた。それは、在りし日の十六夜が感じていたことと同じだったからだ。
 やがて、所帯を持ち二人の子に恵まれるも、流行病で妻を亡くしたという。つまり、兄の卯月も睦月も、幼いうちに母親を亡くしたのだ。そこから側室となる妻女をなかなか娶らなかった父親が、とある一人の女房に心を惹かれる。そこから先は恋愛小説宛ら、然れど女房に子が出来たと知った時には、その女房ひとはもう月の都から姿を消したというのだ。
 即ち、その女房こそが十六夜の母親だ。
 女房が貴人と寄り添う道を選ばなかったのには理由わけがある。彼女は異端な一族の者であり、ここにいればやがて災いとなるのだと、自ら離れてしまったのだ。それは現実となる。
 この頃の月の都はある一族狩りに躍起立っていた。
 旗頭となったのはあの芳春ほうしゅんで、それは以前に志月が言ったとまったく同じことが綴られていた。
 十六夜はどうにか呼吸を整えようとしたが、悪寒や頭痛、加えて吐き気は治るどころか酷くなるばかりだった。震える手でその先を捲っていく。知らないでいたままの方が幸福でいられる。確かにそうかもしれない。だが、十六夜はもう知ってしまっているのだ。
 それは、己の意思だっただろうか。それとも、誰かがそこへと導いていたためか。
 父親である文月は、女房がそれであると分かっていたのだろう。救えなかった愛人、けれども彼女の子をどうしてその手で殺めることが出来ようか。
 彼女の一族は、確かにあの青い星の生き残りである。いくさが終わり、この月へと取り残され、そうして危険な存在として月の奥深くへと幽閉された日々。そこからどうにか逃げ出した者達は、月人との間に子をもうける。弾圧され、滅びの道を辿ろうとも。いつか、あの星へと帰るのだと。その希望を捨てることはなかったのだ。
 気が付いた時には十六夜は月の宮殿にいた。
 何処をどう歩いてきたのかさえ定かではなく、頭が割れるほどの激しい頭痛と吐き気を自覚した時にはもう口を抑えようとも間に合わず、十六夜は嘔吐した。止めどなく流れる涙と嫌な汗と、胃の中が空っぽになってもまだ十六夜は嘔吐えづいたまま。そこへ一人の男が現れた。顔を上げる前に志月であると分かったのは、先に冷ややかな声が下りたためだ。
「何処へと、向かうおつもりですか?」
 十六夜は応えない。否、応えられなかったのはまだ呼吸が整わないからだ。
「もう充分ではありませんか。全部知ってしまったのなら」
 やっと、十六夜は顔を上げる。こちらを見下す双眸には複雑な色が見えた。
「……まだだ。まだ、ぜんぶじゃない」
「必要ありません。あなたは月読なのですから」
「ちがう。月読の、僕たちの本当の使命は、」
「では、どうなさると?」
 思ったよりも温情のこもった声だった。それは、続く。
「お答えください、十六夜殿。あなたは何を選ばれるのです?」
 月の都の安寧秩序のために、その力を尽くすこと。
 然れど、真実まことの役割はその逆にある。十六夜にはずっと前からそれが聞こえていた。強い呪術ちからを持つ者が、否、彼等でなければ届かなかった声が。それを為すことこそが、彼等の悲願である。
「僕は、選ばない」
 十六夜はそのどちらでもなかった。すると、それまで涼やかだった志月の顔がみるみるうちに歪んでゆく。
「なにを、仰るのやら」
「あれを、動かすわけにはいかない。だから、僕は――」
 言い終わらぬうちに十六夜の身体は吹き飛んでいた。遅れて腹の痛みが来る。蹴り飛ばされたと気が付いたのは。その後だ。
「それでは、困るんですよ」
 咳き込む十六夜の前に志月は再び立つ。
「志月……? きみは、なにを」
「あぁ、皆まで言わずとも結構です。私は全部知っていますから。簡単なものですよ。言葉を使わずとも、この身体はもっと役に立ちます」
 貴人の伺候に無意味に時間を使わずとも、身を売るだけでいいのだと、そう言いたいのだろうか。
 思わず憐れむような目をした十六夜が気に入らなかったのか、志月は次にはその肩を蹴りつけた。予期せぬ攻撃だった上に、志月と十六夜では体格差がある。十六夜は地面にしたたかに頭を打ち付けた。
「あなたには、本来の役目を果たして頂かなければ」
 共に堕ちよと、そういう笑みをする。
「この月の都を、壊すという大事な役目があるのですから」
 頭を強く打ったせいか、思考へと回しても上手く働かない。それでなくとも、志月の言葉は理解不能だ。
「きみは、僕たちとおなじ」
「いいえ、まさか。私如きがあなた方と同じである筈がありません。私など、ただの月人。しかし、あの頃の宮中は見境なく彼等を狩った。それなのに、その過ちすら認めようともしない。ここの腐った奴らは変えねばなりませんね」
 同情を誘うつもりなのだろうか。志月の声色はそれだ。つまり、志月も十六夜と同じように故郷を滅ぼされた。否、違うのはそこから先だ。
「まったく、苦労をさせられましたよ。何不自由ないもないままに、ぬくぬくと暮らしてきたあなたとは違う。ここまで来るまでに、どれだけ時を掛けたことか。ですが、文月殿に取り入れたことだけは運が良かった。彼よりかはあなたの方が、ずっと扱い易かったですからね」
 まるで道具のように言う。怒りよりも失望の方が大きかったのは何故だろう。裏切られたからだと、十六夜は思う。志月は最初からそれだったというのに。
「なんて表情かおをなさるのです。あなた、知っていたのでしょう。私は最初から、あなたを監視していたことなど」
 知っている。それが、父親の命令であったことも。だから、十六夜が月読として安寧ではなく壊す方を選んだ時には、この命を奪うつもりであったことも。それなのに――。
「僕は、君の思い通りにはならない」
 立ち上がり、かつての従者と対峙する。
「それに、もう決めたんだ。何を失ったとしても、誰を傷付けたとしても構わない。ぜんぶを、利用してやる。そうして必ず、成し遂げてやるのだと」
「だったら、手始めに私を殺してみれば如何いかがですか?」
 くくっと、喉の奥で志月は笑う。
「それだけの覚悟があるのでしたら、簡単なことでしょう。奸計かんけいの罪として罰すればいい」
「志月、なにを」
「出来ないのですか? ……だったら、やっぱりあんたは甘ちゃんだ。俺は、あんたが心底嫌いだった。世間知らずの坊ちゃんのくせして理想ばかりを口にする。この世の汚いものなど見たこともないような、そのお綺麗な顔。見る度に苛々する」
 吐き棄てられた侮辱に腹は立たない。挑発されたところで無駄だ。これが、本当の志月だったとしても、もう惑わされたりはしない。だからこそ、志月は刀を抜いた。
「さぁ、やってみろよ。……出来ないのか? じゃあ、あんたの大事なものを全部壊してやる」
 切っ先を突きつけられてもなお十六夜は刀を抜かない。ぷつっと音を立てて切れた喉元から血が垂れてゆく。志月は十六夜を殺すつもりはないのだ。それならば、彼に刃を向ける意味はない。
「あんた、俺を見縊っているのか?」
 舌打ちが聞こえる。そうではない。志月は、ここで十六夜が動かなければ本当にそうするだろう。それなのに、十六夜の右手は動こうとはしなかった。
「……出来ない、僕は」
「っはは……! いいさ。なら最初に、あんたの兄貴に犠牲になってもらおう」
「志月!」
 十六夜の眼には卯月が見える。続いて睦月が。それだけでは終わらない。皐月や、あの火事の中で拾った赤子に、志月の凶刃の前に倒れている姿が見える。
 十六夜はついに刃を志月に向けた。だが腕は震え、それを志月は満足そうに笑んだ。
「やれよ。あんた、捨てるつもりなんだろ? なら、俺をはじめに壊せよ」
「いや、だ。僕は……」
 十六夜はかぶりを振って拒絶をする。拳が飛んできて、辛うじてそれを避けた。然れど反撃に出なかったのは、矢張りどうしても志月を斬るということが出来なかったからだ。
 その次には剣撃がきた。打ち払うと、十六夜は刀の頭を使って志月から刀を奪う。丸腰となった志月を斬るなど容易いこと、それでも未だ躊躇う十六夜に志月は怒りのまま、拳を振り上げた。十六夜もまた刀を手放し、それに応戦する。
 二人は暫く拳を打ち合っていた。そこにはもう矜持きょうじなど残っておらず、ただ意地だけが二人を動かす。そして先に力尽きたのは志月だった。志月は目顔で十六夜に促す。
「……やれよ。でなければ、俺はあんたを、」
「出来ない。僕には」
「は……、あんたにとって、大事なものとはそんなものかよ」
「ちがう! だって、志月。僕には……君も、大事な人だったから」
 とうに枯れたと、思っていたはずの涙がまた込み上げてきた。志月もまた、目元を手で覆いながら、自嘲とも言える笑い声をする。
「本当に甘ちゃんですね。あなたは。それでは到底未来など掴めない」
「……いいさ。僕は、過去を捨てる」
 互いに限界を超えていたために、そこで暫し空白の時が訪れた。やがて志月は十六夜を押しのけるようにして、立ち上がる。
「いいでしょう。見届けられないのは残念でありますが、私はここで退場する身だ」
「志月」
 自決を選ぶならば許さない。それなのに志月は微笑んでいた。だから十六夜はそれ以上の声をしなかった。これが、最後であると分かっていたからだ。
「さようなら、十六夜殿。あなたはきっと、成し遂げるでしょう」
 志月は従者の声でそう言った。

                              

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