十一、月鬼

 十六夜が宮殿を脱出した後、月華門並びに月卿雲客ゲッケイウンカクなど数名掛かりで呪術を使い、炎に立ち向かったという。
 その勢いは弱まるどころか増すばかり、誰もが諦めかけた時に一人の月卿雲客がその場に現れた。その新参者の名は爽麻ソウマ。彼はたった一人で炎を消した。
 それを兄の卯月から聞いた時、十六夜は別段驚きもしなかった。それよりも心を占めていたのは父親のこと、父親は取り残された十六夜を助けるために宮中に戻り、しかしそこで帰らぬ人となったのだ。
 犠牲となった者は他にもいる。
 月華門の芳春ホウシュン、そしてその妻である弥生。かの御仁は焼死体となって残ったというが、女人の遺体は見当たらなかったともいう。捜すまでもしなかったのは、あの炎からは逃れられようもないと、思われたからだろう。夢見の君とも呼ばれる人ならば、と十六夜は思う。だが、違和が残ったのは他にもある。
 彼らの二人の子もまた同様にと、犠牲となった幼き子らへの悔やみの声も尽きないという。
 十六夜は腕の中で眠る赤子を見た。では、この小童こどもはいったい何だというのか。それから、もう一人は。
 七日後になって志月はようやく十六夜の前に姿を現した。共に連れ出した小童は、知人に預けたから問題ないという。それが、最初の声だったので、十六夜は少し笑った。
 今、十六夜は何もかもを見失っていた。それも当然だ。父親を事故で亡くし、その起因となったのが自分であるのだから。
 兄の卯月も、睦月も。二人ともが十六夜を責めるどころか労わる声をする。十六夜にはそれが辛い。
 とはいえ、そうも言っていられなくなったのは、赤子の存在があったからだ。
 兄は二人ともが所帯を持たず、こういった小童の扱いを知らない。兄の乳母はとうに郷に帰してあるために、それらしき者はこの邸にいなかった。ちょうどやや子を抱えた女房が一人いたのが幸いか、乳の心配は要らなくとも早々にそれとなる者を捜す必要がある。
 まだ、父親の喪が明けていない頃から、卯月は忙しくしていた。睦月は赤子にすっかり夢中の様子、なかなか懐いて貰えないので時々不満の声をする。何しろ、この赤子は十六夜でなければ泣き止まないのだ。仕方なく慣れない手つきで赤子をあやす十六夜に、兄はどこぞで作ってきた子などと茶化すが、十六夜は物の見事に無視をした。
 反対に何も言わなかった卯月の方が怖い。多分、睦月と同じく、何かを誤解しているようだが、弁明するだけ墓穴を掘りそうなので十六夜は黙っておくことにした。
 その赤子にばかりかまけていられなくなったのは、十六夜が北殿に呼ばれたからだった。他でもない月影は、十六夜に呪術ちからを使えという。あの火事の負傷者の治癒、他にも焼け落ちた宮殿を直すためであると、それが命令とあれば十六夜は従わなければならなかった。
「己が何であるか、考えたことはあるか?」
 ある時、脈絡も無くこう紡いだ老爺ろうやに十六夜は目を瞬いた。
「お前は紛れも無く月読ツクヨミである。その呪術ちからは月の都の安寧のためにあるもの。心せよ」
 それから、続いた声に十六夜はただ平伏した。それが、本当は何であるかなど、月影は口を割らない。十六夜は月影への伺候しこうを続けつつ、このしたたかな老爺に上手く取り入ろうとする。否、己の権威や出世欲のためにあらず、全ては真実を知りたいがためだ。
 この老爺は何もかもを隠している。
 十六夜がそれを知りたがっていると分かっていて、ちらつかせるのだ。歯痒さに焦ることもないだろう。そのうちにぼろを出すのはあちらの方だ。
 ある時、十六夜は会話にそれとなく夢見の君のことを含ませた。酩酊めいていにあった月影はこう返す。
「あれは、月読として失敗をした」
 それは、女帝の代わりとして失敗をしたという意味だろうか。
 十六夜は注意深く月影の表情を追ったが、それ以上は読めなかった。
「いざよいさま。また、むつかしいかお、してる」
 舌足らずな物言いをしてこちらの顔を覗き込む小童に十六夜は微笑む。栗毛のおかっぱ頭に翡翠石のような眸はぱっちりと大きく、愛らしい表情をする小童は孤児であった。いくさ場でただ一人、生き残った小童を見捨てては置けず、十六夜は連れ帰る。その昔に、父親が十六夜にしたと同じく、だから二人の兄達も何も言わなかった。
「ごめん。少し考えことをしていた」
 物思いに耽る時にどうしてもそういった顔をしてしまうようだ。今にはじまった癖ではなくとも、言い訳のように十六夜は零す。
「あのね、つかれている時は、ねてしまうのがいちばんだって」
「……誰に習ったの?」
「えっとね……、むつきさま!」
 得意げに返す小童の頭を撫でてやると、より笑顔になる。
皐月サツキは偉いね。人の言うことをすぐに覚えてしまうんだもの」
「えへへ。だって、むつきさまって、とってもおもしろいの!」
 それは褒めているのかそうでないのかはさておき、ああいう性質たちの兄だから人の心を掴むのが上手い。それも純真な小童であれば尚更だ。
ボウとも仲良くしているかい?」
「うん。でもね……あのこ、ちょっとえばりんぼうなの! むつきさまのことだって、兄ちゃんってよぶのよ」
 威張りん坊などといった言葉をどこで覚えたのやら。十六夜はくすくす笑いをし、皐月はそれが面白くないとばかりに頬を膨らませる。
「そんな顔をしないで。皐月はおねえさんだから、あの子のこともよろしく頼むよ」
「うん。わかった!」
 十六夜の視線の先にはあの赤子がいる。今は穏やかな寝息を立てているもの、時々酷い癇癪を起こすという。邸に留まってばかりいられない十六夜の代わりを務めてくれているのが皐月だ。最近はあやし方もなかなか上手くなったらしい。
 皐月にしても邸に来たばかりこそは人見知りをする小童だったが、このところは本当によく笑う。十六夜は彼女達に在りし日の自身を重ねている訳ではなかったもの、忘れていた筈の過去を思い出すこともある。きっと、父親がいなくなったためだろうと、一人になって時に自然と溜息の数が増えていたのだった。
 皐月の教え(正確には睦月の節介)に従って、十六夜は早々に休むことにする。自分の部屋で充分な睡眠を取るなどいつ以来か、常日頃から食事にしても就寝にしてもおそろかにしがちな十六夜である。志月に口煩く言われることも多々で、それこそ従者の目が無ければ西殿に与えられた部屋にて文机に突っ伏して寝るほどだ。
 この日も身体はそこそこに疲れていたので眠りにつくのは早そうだ。
 ところが、暗闇の中で目を閉じた十六夜はある違和を感じ取る。その時にはもう指先でさえも動かせなかった。
 何か、強力な呪術ちからで押さえつけられている。
 かろうじて開いた目で十六夜が見たのは、見知らぬ女房であった。長い髪は乱れ、息遣いも荒い。月鬼に憑かれた月人だと、十六夜は分かったものの、どういうわけか女房は十六夜の枕元に立つだけ、襲って来る気配はなかった。
 十六夜が月鬼を目にしたのはこれが二度目である。
 異形のモノの存在は然程理解がなく、書物庫を読み漁り、古い文献に僅かに残されていたくらいの情報しかない。
 月鬼の本体は普通の月人ひとには見えず、正気を失った月人が他の月人を襲うことからはじまる。脚にまず喰らい付き動きを止めたところで首や頭を狙う。さすれば抵抗虚しく月人は力尽きる。否、滅びるのは肉体ではなく、その精神だ。
 そうして、数を増やしてゆくのが月鬼だ。
 これが月の都に蔓延ることになれば、どれほどの混乱が生まれることか。遅かれ早かれそうなるのではないかと、危機感を抱いた十六夜は独自の判断で月琴や月草の教育を急いでいた。
 だが、その存在はなかなか現れず、次にこうして目にしたのが今だというのなら、十六夜は月鬼の目的が己であったのではないかと、訝しむ。
 抵抗しようにも矢張り腕は上がらず、声すら出てこない。呪術には呪術で対抗するしかないのかもしれない。十六夜は精神をそこへと集中させる。その時だった。
「――セヨ」
 月鬼が声を発した。それが本当に声だったのか、それすら定かではないが、十六夜には音が聞こえた。
「オノレガ、シュクメイヲ、シレ。ワレ、カイホウ、セヨ」
 辛うじて聴き取れたのはそれだけだった。やっと身体の自由が効いた時には、もう月鬼も取り憑かれた女房の姿もそこにはなく、十六夜は背にびっしりと嫌な汗を掻いていた。
 何かを伝えようとしていたには違いない。そして、あの女房は十六夜が幼き頃に失った母親のようだった。

                                

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