十、炎の先で

 月の都で地震が起こるのは稀だ。
 そも女帝の加護によって守られている場所である。ただ、今はその存在が無くとも代わりに弥生という女人がいるため、不測の事態など起こらぬ筈だ。
 しかし、と。十六夜は思い出す。かの女人は数日前に子を産んだばかりでなかったか。
 激しい揺れに立っていられなくなり、十六夜は身体を丸める。縦揺れは長いこと続き、漸く終われば十六夜は志月の腕の中から這い出した。従者は咄嗟に主を庇っていたようだ。
「やっと、止まりましたか」
 志月もまた身を起こした。
 十六夜は辺りを見回してみたが、建物が崩れたような気配はない。だが、その代わりに嫌な臭いが鼻をついた。振り返れば黒煙も上がっている。
 時間帯からしてくりやは大忙しの頃、当然火も使っているだろう。建物へと燃え移った可能性は大いにあるもの、然れどその方向が違うと、十六夜は目を凝らす。
「あの場所は……」
 十六夜は続きを零す前にもう走り出していた。後ろから志月の舌打ちが聞こえてはきたが、それでも従者は後を追ってきている。渡殿をこんな忙しなく行くなど見つかれば叱責を受けるもの、十六夜は構わずに足を速める。時が時だ。言い訳など後でどうとでも考えればいい。
 ところが、そこで止まらざるを得なかった。
 十六夜の前に立ち塞がったのは月草や月琴などが数人、いずれも見覚えのある顔ばかりなのは、彼らが十六夜の元で働く者だからである。
「主を諌めに来ましたか」
 志月の揶揄が飛ぶ。それにしては妙だと、十六夜は目を眇める。彼らの顔面は蒼白で、まるで生気がない。さなが死人しびとのようだ。
「違う。これは……。志月、そこから離れろ!」
 十六夜は声を大きくする。それから、自らが先に高欄こうらんを飛び越えて坪庭へと出た。後に付く志月は十六夜と月草らの顔を交互していたが、やがて"それ"に気が付いたようだ。
「これは、いったい……」
 志月が狼狽するのも無理はない。
 奴らは先ほどまでとは様子が異なり、口から涎を垂らしたり目を充血させたりと、明らかに正気ではなかった。
 十六夜はもっと目を集中させる。すると月草達の背から、黒い影が見えるでないか。そして、十六夜が刀を抜いたと同時に奴らは襲い掛かってきた。
 鋭く伸びた爪は最早、月人ひとのそれではない。加えて動きも尋常ではない速さで、十六夜は紙一重でそれを躱してゆく。さすれば次には犬歯が来る。否、これはもう牙だ。どちらにせよ、喰らえば痛いでは済まされないだろう。
 十六夜は応戦しながらも志月を見た。従者も十六夜と同様に戦っているが、元が月人ひとであるから彼らを傷付けないようにするにはこちらが不利になる一方だ。加えて十六夜と志月の二人に対して、奴らは数人といる。
 更に、火の勢いが増してきているのが分かる。吸い黒煙は喉や肺を痛め咳は止まらず、また目からはひっきりなしに涙が出てきた。熱気もここまで伝わってくる。消火活動が間に合っていないのかもしれない。取り残された者達はどれほどになるのか。あれこれと思考に忙しくすれば、それだけ手元が疎かになる。
 見ればもう奴らに取り囲まれていた。
 そのままじりじりと壁側へと追い詰められていくだけ、十六夜は観念して刀を手放した。
「十六夜殿!」
 志月の叱責に十六夜はただ微笑む。そして、右の手をそこへと掲げた。
 破裂音がしたのはその一瞬だけ、奴らは糸が切れた操り人形宛ら、ばたばたと倒れてゆく。それを見届けると、十六夜もまた膝を付いた。
「……十六夜殿。あなた、いったい何をしたのですか?」
 訝しげに問う志月に応えたいところだが、このような呪術ちからを使うのはじめてだ。十六夜はまだ肩で息をし、その間に危険がないか志月は今一度奴らへと近づきかけて止まった。奴らは甲高い声を上げ、それから黒い影は徐々に薄まり、最後には消えた。断末魔だったのだろうか。
 やっと動けるようになり、その反対に十六夜はぴくりとも動かなくなった彼らの身体を確かめる。意識はなくとも呼吸はあることに安堵し、説明を求めている志月の目をひとまずは無視して再びそこへと向かい出す。
 いつか爽麻ソウマが言っていた異形のモノとはこれのことだったのかもしれない。後に月鬼と呼ばれる奴らを警戒しつつ、十六夜は先を急ぐ。目的は開かずの間だ。
 渡殿には逃げ惑う女人の姿や、それらを誘導するために必死になる月琴らで混乱を極めている。月華門として彼らを導くのが正しいという道義感と、そこへと拘る関心との二つが十六夜の中で戦っていた。とはいえど、行く手を阻む炎がそれの邪魔をする。
「引き返しましょう。これ以上は無理です」
 腕を掴む志月が煩わしく、十六夜はその手を振り解く。ふうと、一度息を吐き、十六夜は従者の制止を聞かずに炎の中へと飛び込んでいった。暫し逡巡していた志月もやがて追い付いてきた。呪術の扱い方が分かってきた十六夜は、目だけを後ろに向け微笑した。
 すでに西殿や北殿には月人の気配は残っておらず、しかし逃げ遅れた者がいないかどうか十六夜は念のため意識する。
 要人達が粗方いないとなれば、後はこの炎を消すだけ、その呪術ちからを持つ者ならば他にもいる。
 迷いなく進む十六夜だったが、炎の先で小さな声を聞く。志月と目を合わせてみれば、従者も確かに聞いたようで十六夜は左を見た。ここは"彼女"の部屋の辺りであった。
 守ってくれなどと、頼まれた覚えはなかった。けれども、弥生が何かを犠牲にするのだと、十六夜には分かっていた。その結果がこれであるならば――。
 そこには小童こどもが炎に立ち向かっていた。否、行く手を塞がれていた。彼らの子であると、すぐに分かったのは面差しが父親に良く似ていたから、紫が混じった銀髪も同じだ。小童はそこで立ち往生し、しかし腕の中にはしっかと赤子を抱きかかえていた。
 十六夜は心を決める。
 これ以上呪術を余分に使う余裕は残っていなかった。即ち、先を行けばこの小童らを見捨てることになるだろう。志月と手分けして小童らを抱えるが、十六夜の腕の中で小童は激しく暴れた。
「は、離せよっ! まだ父親と母上がいるんだ! おれは、行く!」
 十六夜の髪を掴んだり胸を蹴ったりと抵抗するものだから、十六夜は思わず小童を落としそうになる。小童は小さな悲鳴を上げつつも、こちらを睨めつけた。
「それは勇気と言えないな。ただの無鉄砲だ」
 隣で志月がくくっと喉で笑う。どうやら同じ事を主に言いたかったようだ。
「うるさいっ! この男女!」
 随分と口達者なこの小童の尻を叩いてやりたいところだが、そこで志月が童の首根っこを掴み上げた。代わりに赤子の方を十六夜へと差し渡す。悠長に会話をする時間はないと、顎で後ろを促した従者に十六夜は従う。しかし――。
 いよいよ建物が崩れ出した。十六夜と志月は倒れてきたはりに隔たれる。どうにかして助けたいところだが、背後にはもう炎が迫って来ていていた。
 右なら、と。十六夜はまだ自身に血路が残っていることを確かめる。然れど志月の方はどうか。
 声はなくとも、行けという志月の言葉を十六夜は受け取り、赤子を抱えて前を行く。悔恨に時を使うのは、己が無事にここから脱出してからだ。

                              

泡沫。 (http://asakura128.web.fc2.com/index.html )
朝倉 :: since 2014/07
inserted by FC2 system